みなとみらいは俺にとって森で、海で、ヒグマだった。
子供のころのみなとみらいは、今よりもっと開発中だった。
あちこちに背の高い雑草が生えた広大な空き地があって、
ロープ一本渡されておらず、誰でも進入できるところすらあった。
数回、横断したことがある。
五つ違いの弟が、まだ生まれていないころだった。
果ての見えない同じような草景色の中に、ところどころ「足元注意」の立て看板がある。
下を見ると、たしかに、代わり映えのしない雑草の景色が途切れている。
覗き込むと穴があった。
空き地の工事に関係していたのだろう。四角い枠は作ってあって、人工の穴だった。
しかしロープも柵もない。犬の糞を踏むように足を踏み外せてしまう大きな穴が、子供には底が見えないほど深い。
ニュースでよく、同年代の子供の死を聞いた。少し年上の子供の自殺を聞いた。
自分もそんな風に死ぬんだろうと思っていた。口に出すと、親は、
「ニュースは珍しいことを報道するんだから、そんなことはめったに起きないんだよ」
と自分をたしなめた。
では、同年代の子供の自殺はあまり聞かないから、首をくくればニュースになるだろうかと考えていた。
この穴に落ちても、ニュースにはならない気がする。
学校で、文学作品において、つまり当時の人々にとって、果ての見えない山や海は死を連想させる場所だったと習った。
一部の地域や職業の人にとっても、特定の地形も特定の感情を想起させるらしい。
ヨーロッパでは、森に入ることと精神的動揺が結びつく。
実感のわかない現代人として、少しでも自分に関係のある物事と結びつけようとすると、
みなとみらいで見た無限のような雑草平原と、唐突に目の前に躍り出る穴が当てはまる。
自分は、もう少し年を取った。
インターネットで、荒天時の海水浴がどれほど危険か啓蒙されるのを見た。
野に出たヒグマを恐怖の象徴として恐れる文脈を見た。
真偽さだかでないWikipediaを取り囲んで、自然の事物を人々が恐れるのを見た。
そのたびに、みなとみらいの四角い穴を思い出す。
自殺をしてもニュースにならない年齢になったころには、みなとみらいも多少整備された。
多少というのは、我々の年代すべてを包み込む「失われた三十年」に、この都市も巻き込まれたためだ。
たぶん、当初計画されたほどにはにぎわっていない。
小さな空き地はまだまだたくさんあった。
しかしどの空き地にも、ロープどころかしっかり柵が立っていて、子供が入り込んでいるところも見たことが無い。
柵のこちら側から目を凝らすと、あの穴と形の同じ四角形が見えることもあった。
いま見てみれば、中で作業するための足場が付いているのがわかる。
ニュースにはなりそうにない。
森はずいぶん小さくなった。