#本編では「だが、やるべき事がある」だったけど願望としては天に加わりたかったアベリオンが十年ぶりぐらいになんやかんやでリトライの機会を得て永遠になろうとしたら今になって出禁宣告されて、なんかもうしょぼしょぼになった末にシーフォンに泣きつきに行く話(タイトル)
#「心の準備がむずかしい話」がなんとなく背景かもしれない
#引き留めグッドエンドからかなり後のシーアベ。プロットの一行目に「28と31」って書いてあるんでたぶんそんぐらいです
#28と31ぐらいで…………
『シバとシーウァ』は、かの大奇人テレージャ=レム=エムノス初の単著だ。――今は多少名前が変わっていたかもしれないが、少なくともこの版の刊行時点での署名はそうなっている。とにかく、膨大な注やら事あるごとに挟まる近年の学者への嫌味やらで、無駄にかさばる重い本だ。しかも内容にほとんど興味が湧かない。そんなものをうっかり手に取ったのは、今、抱えていた書物を隠すなり捌くなりして身軽になっていたのと、あるいは、いくらかの感傷のためだろう。なにせこうしてナザリの裏街道を行くシーフォンは、献辞にある「この本に関わった全ての方々」の中の、どこかに数えられていてもおかしくないのだ。
背表紙が付くような本が人口に膾炙し、歩きながら背を丸める姿が刻苦勉励の典型像として認識されるまでには今しばらくの時間がかかる。そういうわけで赤毛の天邪鬼は、まだそうした自分の姿に倫理的な痒さを覚えずにいたのだが、別の理由で顔を上げた。今しがたすれ違った人影に、何か奇妙な感触を覚えたのだ。物盗りの類ではない。掃いて捨てるほど心当たりのある殺気とか、そういうものでもないようだった。
黒っぽいフードで半ば顔を隠した人物が、すれ違って数歩、ちょうどあちらも振り向いたところだった。――まだ日もある時間帯だというのに、不自然に影が味方して、顔から視線が逸れる――そういうまじないが、行われている。気が付いて一つまばたきすると、その幻惑はたちまち形を失くした。
白面白髪の男が、今まさにこちらを呼ばわろうと口を開いたところだ。
「……シーフォ、ぶっ!」
「……こんな街中でその名前を使うな!」
考えるより先に足が動き、シーフォンは遮二無二手のひらを突っ込んで口を塞いだ。そのまま握り込んだ耳元に早口で囁く。血の色をした目が胡乱げに傾いて、こちらを見た。
「今度は何をしたのさ……」
「やかましい。僕が善良な市民になるようじゃこの世は終わりだ」
開き直った、と、小声。
剥がした指の跡が頬に残って、消える。おぼろな輪郭をまじまじと見つめて、何とはなし、変わらないな、と思った。薄暗い迷宮の中、睫毛の影のかかった赤い目がこちらを見下ろしていたのは、もう随分と古い記憶だ。今のように呆れたり、笑っていたりすると、当時としては年相応だった。
「お前こそ、どこで何してやがった。アベリオン」
ここ数年、魔術師アベリオンは行方知れずであった。
二年前の冬至節にホルムを訪れた折は、行先が知れていて、用事が長引いているのだろうと、そのように思われていた。しかし、その次の年の冬至節になっても、彼は一度もホルムに戻らなかった。夏至ごろ、シーフォンは諸々の準備を整えてホルムの遺跡を改めたが、出てきたのは、「天体の運行」の抄訳版程度のものだった。
「あ、かわいい。何号?」
「ただの照明だよ。」
*
*
じっと考えているつもりだった。それが、いつしか微睡んでいたのかもしれない。
ふと気が付いて顔を上げると、だいぶ時間が経っているようだった。そこここから差し込んでいた夕日が途絶え、付け放しにしていた魔法の照明も暗くなっている。
当然のように、シーフォンの前には誰も相対していない。
変わらず微光する石を、まだ握りしめていた。袂に放り込んですぐ外に出た。
目当てのものは、すぐ見つかった。どうにかこうにか互いを支え合っている廃屋のがれきの山の、少し高いところにちかちかと光る人影がある。
何か魔術を行っているわけではない。そのままにしておくと、弱い月光の夜でもあの白い男はそれなりに目立つのだ。
「……あ、シーフォン」
頭上を仰いでいたアベリオンがこちらを向いた。シーフォンはひょっとしたら、そのことにいくぶんか安堵したのかもしれない。焦ったような気持ちが、少し拍子抜けしていた。別に、なんということはない。夜歩きは昔から、こいつの習性と言って差し支えないものだ。
そんなことを考えていたせいか、何か言うということをしなかった。少しして、アベリオンは視線を空に戻して、言った。
「君、いくつだったっけ」
「……は?」
「いや、年……ごめん、自分で数える」
反射で眉をひそめたが、まあ、気持ちはわからなくもない。自分の年も世間の暦も、一人でやくざな暮らしをしていると、すぐに曖昧になる類のものだ。
とはいえ。記憶力には自信がある方だ。
「あれと、これとで……三十、少しぐらい?」
「てめーのだ、それは」
だらだら指折り数えるのを尻目に、このぐらいは即答できる。
「え? ……あー、まあ、いいや」
アベリオンが哲学者の年齢論を引用したいわけではないことは、なんとなくわかっていた。彼が言葉を探しているうちに、瓦礫の山に手をかける。勝手知ったる――というわけでもないが、言うならば住処の屋根だ。昨日今日の相手と同じぐらいの高さまでは、すぐに登れる。アベリオンの隣の、尖って傾いた石材の上に、ややあって腰を下ろした。同じように、上を見上げてみる。ナザリは工業地区だ。それも様々な建造物のはざまの、さらに合間に入り込んだような格好になる。当然、夜空はくすんで美しくもない。
アベリオンが口を開くまで、少しあった。
「……なんか、思ったより長生きしたって思わない? 僕たち」
一瞬、本当に夢かと思った。つい先ほども、そんなことを考えた。
「ほー、山籠もりするとそうなんのか」
図星をそのまま口に出すわけにもいかない。とはいえ、これは少し情けない。的を射ていない皮肉に、アベリオンは特に何も言わなかった。
「……やり残したことが、あると思っていて」
空を見ていた。煙でよどんだ景色の、恐らくもう少し向こうを指している。
「……時々言うよな」
「うん…………何もかも終わったら、もう一度、あそこで本当の『歌』を……耳でないところで……肉のないところで…………つまり、」容量を得ない言葉の並びを、シーフォンは黙って聞いていた。「つまり、もう一度鍵の書を使わないといけないと、思ってたんだけど」
アベリオンの声が、苦し気に歪んだ。シーフォンはその表情を見ずに、くすんだ空を見ていた。
「だけど?」
「日が経つうちに、わからなくなった。行きたいのか、行かないといけないのか、それもわからない」
その辺りで、シーフォンはようやくアベリオンの方を向いた。や、否や、目が合ったので、少し驚いた。
機を測ったように、アベリオンは言った。
「だから、自分から引き離して、思い切り遠くに、行きます。……それでも欲しくなったら、本当にそうしたかった、ん、だと、思う、から」
「……アホらし。それで僕かよ」
「……うん、わかってる」
「あーあー、そりゃあ都合がいいよな。制御不能でもない、観測困難でもない、テメェにとっちゃあってわけだ。人を保険にしやがって」
「……ごめん。ありがとう、言ってくれて」
反省はしているらしい。それでも、胸がすくということは無かった。むしろ、飛び出してきたときの自分の焦りと、その中のかすかな苛立ちが、はっきりとした輪郭で理解できるようになってきた。
――それでもなお、と、蒸発することを、コイツはまだかっこいいと思ってやがる。
しばらく、シーフォンは考えた。町の谷間にはびょうびょうと夜風が吹き込んでいたが、たいして気にもならなかった。
「……ここは、そろそろ引き払う」
「え、そうなんだ」
「前の家主の評判も評判でよ。長居するつもりはなかったんだが……」
「……本なんか、だいぶ多かったみたいだけど」
「そりゃまあ、持ってける分と……あとはココ、ってな」
こめかみを叩くジェスチャーをすると、アベリオンはいつものように、呆れた顔で失笑した。
いつものように。年月で数えれば、ずいぶん久しぶりだ。――シーフォンの心の時計は人より早い。絵にかいたようなガキの時間感覚だ。過ごす時間の密度の差だと言ってやりたい。
懐かしいな、とじわりと思った。
ついさっき、この後の自分の生涯の、果てもしれない長さに思いを馳せた。
「まあ、でも……」言葉を選んだ。そのまま口に出すわけにはいかない。「お前が荷物持ちをやるってんなら、雇ってやらないこともないけど」
――少し、後ろの言葉が小さくなった自覚はあった。むず痒い気分がするが、どうしようもない。
さらに悪いことに、アベリオンは呑み込みが遅かった。聞こえてはいたようだが、ぱちくりと一度目を瞬いて、ゆっくり考えている。
シーフォンにとって永遠のような気まずい時間のあと。ああ、と、今度はひどく柔らかく、アベリオンがほほ笑んだ。
「いいね、それ」
それから、またしばらく時間が流れた。今度はシーフォンがよくよく飲み込む側だった。どうだ。さっきと比べて変わったか。なにか、一時の気晴らしではなく、もっと根本的なものは。
――ダメだ。ここで、シーフォンは「どうやら自分は調子が出ていないらしい」ということを、ようやく認めることになった。
何もかも別れの言葉に聞こえた。どんなストーリーでも永別の夜と名付けるだろうという詩情すら湧いた。たぶん、少しおかしくなっていた。
シーフォンは寝そべりづらい瓦礫から勢いよく身を起こすと、アベリオンの襟首を掴んだ。その拍子に、どこかの石が外れ飛んで、全体の均衡が少し崩れた。
「いま言え。僕様に、付き合うか?」
アベリオンは、「えっ」の顔をしていた。それで何やら、答えがノーになる気がした。威勢のいいことが、これ以上言えそうにもなかった。
ややあって。
「……君に、白状することがある」
おそろしく静かな声でそう言った。
「ホルムにいる間、君から魔術を学ばないようにした。破壊の魔術が一番に必要な時期に、人を内と外から壊すすべを、自ら退けた」
「……そうだな。お前のこと、おかげでだいぶ誤解したよ」
アベリオンの言葉は迂遠で、結論の周りをぐるぐると大回りに歩いていた。それで何やら、シーフォンには安堵するものがあった。
昼に出会ってからこちら、結論の決まりきったような話しぶりばかり聞かされてきたのだと、それでやたらに腹が立ったのだと、この時気付いた。
「……分かってると思うけど、僕が避けたのはタイタスじゃなくて、シーフォン、きみだ」
アベリオンは、もうすっかりゆるんだシーフォンの拘束から小さく身を引いて、空を仰いだ。すぐそばにあるような曇天は、黒くも青くもない。
「先生が古代同然の立派な魔術師だったことが、耐えられなかった。キール山の天才が、僕が見たものを研究しているのが、いやだった。この世が僕の周りに小さく縮まっていくのが嫌で、勝手に君を『世界の端』にした。僕が知らないことを知る人で、いてほしくて」
シーフォンは知らず、奥歯を噛んだ。身に覚えのある述懐だった。
かつて、教師に失望した。この一人の物分かりが悪いのだと思って。やがて、誰もが認める権威に失望した。かつての栄華が堕落したのだと信じさえした。それから、友人を失った。堕落などない人間なのに、自分と同じものを見てはいなかった。
憧れや、思慕や、友情が冷えていくのは、苦しいことだ。
シーフォンから見たアベリオンは、その言葉を借りて、『世界の端』のようだ。それはつまり、逆に返した時に、そうではないということのかもしれない。
自覚している短所がある。自分が上から目線で見限った、多くの良識ある人と比べて。
「ねえシーフォン。そりゃ、君と一緒にいたいよ。……でも」
「なんだよ」
「……僕が君のすぐそばにいて、何もかも取り尽くしてやろうとしても……君は、僕よりすごい人でいてくれる?」
自覚している。この世の何もかもが挑発に見えて、すぐにカッとなる。
「誰にその口聞いてんだ」
売り言葉に買い言葉で、根拠のないことを言った。
砂利の中で立ち上がった。あまりに衝動的だったので、思い切り指をさした、一連の動きの前に、叩いたかどうかも曖昧だ。
「テメェを越えるって、何度も言ってるだろうが!」