男は、散々殴られた後で両手を後ろ手に縛られ、興誠会の構成員に引きずられるように地下室に連れていかれた。全身が軋むように痛いが、それよりも昨晩から顔に掛けられる水以外飲んでおらず、喉が痛いほど渇いていた。
男は興誠会とは別のルートでの麻薬の密売人だったが、そのルートを教えるよう、先日から構成員たちに拷問を受けていた。勿論、そんな事で口を割る気はなかったし、いざとなれば舌を噛んで自害するつもりだった。
そこは、どうやら興誠会の最深部に位置する場所で、ボスである横田がいる部屋だろう。
狡猾で悪逆非道、逆らう者には容赦しないとその筋でも有名な横田だが、男は何をされても決して話さないと固い決意を繰り返し胸に刻んでいた。
ギィィ、とやけに重い扉が開いて、大きな部屋に通される。
手前に石畳の玄関のような空間があり、その奥には重厚なソファや椅子が置かれた応接間があった。そして何故か、部屋の両隅には水がこぽこぽと小さな音を立てながら小川のように流れていた。
部屋の壁突き当りの奥には大きな机とどっしりとした椅子。そして、その椅子に大柄で顎に傷のある男が深く腰掛けて座っていた。
一見優しげな笑みを浮かべているが、その眼差しは見る者の心臓を射貫くように鋭く、冷たい。
この男が、噂に聞く横田だろう。
「!?」
が、男が一番驚いたのは、部屋に流れる小川でも、横田の存在でもなかった。
横田の背後、壁一面に設置された巨大な水槽の中で丸まり眠る、一人の美しい男の姿に、声も出せず驚愕する。
その男は水の中にも関わらず、苦しげな様子もなくまるで子宮に抱かれる胎児のように目を閉じて浮かんでいた。白く厚い生地の着物のような、けれどところどころ緑のラインが入った不思議な服を纏い、首には大きな鉄の首輪が服越しに付けられていた。部屋に流れる小川は、その男が入っている水槽から流れているようだった。
髪は男が見た中で最も美しい金色で、同じ色の睫毛が瞼に縁取られているのまで分かった。あの瞼が開けられたら、どんな色の瞳が見られるのか――命の危険すらあるこの場所で、男が最も気になったのはそれだった。
「……よう、売人さん」
椅子に深く腰掛けた横田が、入口の石畳で構成員に跪かされた男に声をかける。低く深く、胸の奥にまでするりと入ってきて心臓を鷲掴みにしそうな、そんな恐ろしくも魅惑的な声。
「あんたぁ、随分根性あるらしいなあ。うちの奴らが感心してたぜ」
くつくつと笑いながら、横田は喋る。大きな葉巻をくゆらせ、なんだか楽しそうだ。
例えるなら――新しいおもちゃをもらった子供のような。
「だからよぉ、吐かせる方法、変えることにした」
「! お、俺は! 何されたって吐かないからな!!」
男は今にも噛みつきそうな顔で、横田を睨みつけた。構成員にグッと身体を押されても、キッと横田から目を離さない。そんな男を、やはり横田は楽しそうに見つめ、パチパチと気のない拍手をした。
「おー、立派立派。さて、その勢いがいつまで続くかねえ? 高みの見物としゃれこむか」
横田はそう言って立ち上がり男の隣まで来る。構成員に目だけで合図すると、構成員はゆっくりと応接間と石畳を遮る鉄牢を壁から引き出した。男は鉄の柱の向こうの水槽で眠る男に近付けなくなったことに妙な悲しさを覚える。横田は男を見下しながら、話を続けた。
「じゃ、俺は用事があるからちょいと留守にするな。帰ってくるまで、ここで待っててくれ。話はそれから聞く」
「だ、誰がお前なんかと!!」
横田は男の言葉を無視して用件を話し続ける。
「ああ、それから。喉が渇いたんなら、そこの小川の水飲んでもいいぜ。ちゃんと飲めるやつだ」
「!」
「それと最後に――」
そこで言葉を切り、男の髪をガッと掴んで、真っすぐ目を合わせて告げた。
「アレは俺のだからな」
その瞳は、火酒のように熱くどろりとしていた。アレ、が水槽の男をを指すのは間違いないだろう。
男は横田の瞳の奥にある、ゾッとするほど昏い感情に息を詰まらせた。
「……じゃあな、売人さん。またあとで」
そう言って横田は、構成員と共に部屋を出て行った。
「…………」
男は部屋を出ていく横田たちの背中を睨みつけ、残された部屋で一人深く息を吐いた。
こぽこぽと水槽から流れる小川の音だけが響く、奇妙な部屋。目の前の巨大水槽の男は、未だ自分を抱くように眠ったままだった……その静かな寝顔に、男も共に眠りたい欲求にかられた。
そうして一度気を抜いてしまうと、部屋に入るまで感じていた強烈な渇きが男を襲う。
小川の水は飲めると言っていたが、あの横田の言だ。信頼に足るとは思えない。
けれど……耳に心地よい水の音に仄かに肌を撫でる湿気、抗いがたい魅力がそこにあり、男は両手を縛られたまま、半ば這うように小川の水に口を付けた。
ごく、と一度嚥下すると、想像以上に甘い味が舌から喉へと滑り落ち、痛めつけられた身体を優しく癒してくれるようだった。
「っ!」
その幸福感に、男は夢中になってごくごくと喉を鳴らし、水を飲んだ。一口飲むたびに、身体の痛みが消えていく。やがて酒でも飲んだかのように身体がふわふわとしてきて、頭がぼーっとした。
「なん、だ……? この水……酒でも、入ってん、のかよ……」
そう呟きながらも、男は水を飲むのを止められない。結局、お腹がタプタプと音がしそうなくらいがぶ飲みし、男はやっと一息ついた。と……
「!」
何の気なしに水槽を見やると、水槽の中の金髪の男が覚醒前のように身体をもぞもぞ水中で動かし、眩しい光を当てられた時のように眉を顰めた。
「おいっ! おい、あんた!」
男は思わず身体を起こし、水槽の男に向かって呼びかけた。水槽の男は何度か瞼をぴくぴくとさせながら、ゆっくりと目を開ける。
「!!」
男は、一瞬呼吸を忘れた。
金髪の美しい男の開かれた瞳は――宝石よりも尚美しい、藤色をしていた。
神秘的で高貴な、けれどどこかあどけなさも残る無垢な紫。
それがゆっくりと見開かれ、男を見た。
「!」
水槽の男は、男を見つけるや否や、目を見開き慌てたように首を振ってどんどんと水槽のガラスを叩いた。ゴポゴポと口から大きな泡を出し、何かを訴えているような表情でひたすら男に向かって首を振っている。だが、声は聞こえない。
「おいあんた! なんて言ってるんだ?!」
『~~~っ!!』
ゴポゴポと泡が溢れる。首を振って、両手を振って、まるでここから逃げろと言っているような――。
「! 俺に、逃げろって言っているのか?!」
男の声が届いたのか、水槽の男は大きく頷いて後ろの扉を指差し、開けて逃げろとジェスチャーを繰り返した。その必死な様子に、男の中の庇護欲がよく分からない嫉妬と共に燃え上がる。
「あんたはっ!! あんたはどうするんだっ?! 横田にこんなところに閉じ込めらて、まるで観賞魚みたいじゃないか! あんたは逃げないのか?!」
男の言葉に、水槽の男は目を見開き、その藤色の瞳を哀しげに伏せて首を振った。
「!!」
その諦めたような、全てに絶望したかのような、辛く儚げな表情に、男の心臓は電撃を受けたような高鳴りを覚えた。
(俺がこの人を連れ出してあげなければ――!!)
安っぽいヒロイズムが男の中に湧き上がってくる。男は後ろ手に縛られている縄を何とか解こうと、鉄の柱に何度もこすりつけながら、水槽の男に向かって叫ぶ。
「俺はあんたと一緒に逃げるからな! 今、この縄を解いて、その水槽叩き壊して、あんたを助けてやるっ! あんたはこんなとこに、横田なんかのとこにいるべき人じゃないんだ! あんたは、俺と共に来いっ!!」
男の身体が燃えるように熱い。今はこの檻と水槽を壊して、目の前の金髪の男と逃げる未来しか見えなかった。だが、水槽の男は焦ったように必死に首を振って扉を指差し、男に逃げるよう促す。
俺ハ無理ダ、セメテオ前ダケデモ――!
そんな声が聞こえてきそうで、その健気さに更に男の熱は上がってゆく。こんな鑑賞魚のような酷い扱いを受けて尚、会ったばかりの自分の事を心配してくれるその優しさが、純粋さが、男の心を鷲掴みにして放さない。
「駄目だっ! あんたは必ず俺が助ける! あんたとここを出て、一緒に逃げるんだ! 大丈夫、この町の外れにアジトの一つがあるんだ。そこで車借りて、横田の手の届かない町まで逃げる! そんで、そこで俺と一緒に暮らすんだ。食い扶持なら大丈夫。俺の持ってるヤクの密売ルートは、横田たちも知らないやつなんだ。それで金なんて幾らでも稼げる。××町なんて、ぶっとい顧客ルートがあってよ、そこの町長が太客なんだよ。そっから幾らでも客なんざ引っ張れる。だから心配すんな。あんたは、俺の家で好きに暮らしたらいい。食いたいもんも、欲しいもんも、全部俺が与えてやる」
男は必死に自分たちの未来を語ったが、水槽の男は白い顔を更に青くして、ぶんぶんと首を振る。唇に人差し指を当て、男に話さないよう訴える。だが、男の口は止まらない。
「なんだよ、なんか不満かよ? 安心しろ。その密売のルートは●●から仕入れてて、横田だからって絶対見つかんねーよ。なんなら、■■■っていう間者も興誠会にはいてな、ヤバかったらそいつから話が来るから、横田に見つかる前に逃げればいい。な、安心だろ?」
先程から身体が燃えるように熱い。頭がぼうっとして何も考えられず、ただ目の前にいる、水槽の中の美しい男との未来にしか興味がいかない。はあはあと荒くなった息に籠る熱で、部屋の温度まで上がっていくようだった。
「だからっ! あんたはっ! 横田のものなんかじゃなく、俺の――!!」
「言ったろ? アレは、俺のだ」
「っ?!」
不意にあの低く恐ろしい声がして、男はざっと血の気が下がっていくのを感じながら振り返った。
そこには、銃を構えた横田がいた。葉巻を咥え、愉しそうにこちらを見下ろしている。
「横田っ!?」
「ありがとさん。お前のお陰で新しいヤクのルートと裏切り者の名前が知れた。感謝するぜ」
「違っ! いや、そんなことよりっ!! あの人を、あの水槽の中の人を解放しろ!! あの人は自由になりたがっている!!」
「あ?」
男の言葉に、一転横田は眉を顰め、不機嫌そうな顔でゴリっと男の眉間に銃口を押し当てた。
「――てめぇが、アレを語んじゃねえ」
「っ!!」
ひゅっと、男の喉が鳴る。ここまで来て、やっと恐怖で身体が震え出した。安全装置を外し、横田はまた愉しそうに笑って引き金に指を掛けた。
「色々教えてもらったから、お礼に生かして帰してやろうと思ったが……やっぱ駄目だな。お前は、一番やっちゃいけねえことをした」
「な、な、なに、を……?」
震えながら問う男に、横田は瞳をカッと見開き歯を剥き出しにして告げた。
「アレを――欲した」
パン、と乾いた銃声がして、男は眉間から血を流し自身の脳漿が撒き散らされた床に倒れ込んだ。その男の背中で咥えていた葉巻の火を消すと、ゆっくりと檻を開け、水槽の中の男に近付く。
金髪紫眼の美しい男は、水槽の中で泣いていた。
また目の前で無惨に殺されてしまった見知らぬ人間。
平然と人を殺し、自分に微笑みかけるこの部屋の主。
何も出来ず、ただ水槽の中から見守るしかない自分自身。
全てが悔しく、哀しかった。
「ーー泣くな、ナイン」
横田が水槽のガラス越しに手を伸ばし、優しくそう微笑んだ。その微笑はどこまでも慈愛に満ちていて、今目の前で人を殺した人間とは到底思えなかった。
ーーその笑みを向けられて嬉しいと感じる自分が、ナインは許せなかった。
机の上で何かを操作する横田。すると、水槽の中の水がゆっくりと抜けていく。ナインはゆっくりと水槽の底へと舞い降りていく。
その姿が、まるで地上に舞い降りる天使のようだと、横田はいつも見惚れていた。
水が完全に抜けても、ナインは底に座り込んだままだ。水中生活の長いナインは、もう立つ足の筋力がなかった。
横田は別の道を使って水槽の中に入り、濡れるのも構わず立てないナインを両腕で優しく抱き上げる。
そして、そのまま噛みつくようなキスをした。
「んんっ?!」
ナインはいつも最初は抵抗するが、徐々に諦めたように横田を受け入れる。横田はナインの舌を引っ張り出し、口内を蹂躙し、その唾液を心ゆくまで吸った。
「……これで、解毒完了だな」
そしてナインを胸に抱いたまま、別室へと消えていった。
●
横田がナインと出会ったのは、闇市の更に深部だった。
そこでは人身売買が行われ、老若男女の様々な人間は勿論、表の世界ではおとぎ話や伝説でしか聞かないような奇妙な生物も扱っていた。
横田はその中の一つの店をよく冷やかしに覗いていた。
その店は世界中から奇妙で美しい生物を集めていて、その日も横田は珍しい生物を見にその店を訪れた。が、行くとその店はぐちゃぐちゃに散乱していて、血みどろになった店員たちがそこかしこで倒れていた。不思議に思いながら歩みを進めた横田の前に、ソレはいた。
壊れた巨大なガラスの入れ物の傍で呆然としていた、美しい金糸の髪と宝石の如き紫の瞳を持つ、白い衣を纏った男。
ーーひと目見た瞬間から、何を引き換えにしても欲しいと思った。
そして、ソレの近くで倒れていた店長のうわ言を聞き、大体の事態を把握した横田。
曰く、ソレは砂漠の中で巨大なガラス瓶のような入れ物の中で見つかった。
曰く、ソレには強烈な麻薬成分が有り、摂取した者に強烈な独占欲を抱かせ、思考を奪う。
曰く、ソレには高い知能があるようだが、記憶と言葉を失っている。
曰く、ソレは、この世界にあってはならないモノーー。
そんな事を呟いたまま事切れた店長を見下ろし、横田はソレを連れ帰った。
そして自身でも色々調べ、ソレの麻薬効果や、解毒にはソレの体液が有効であることも突き止めた。
「ーーお前、名前は?」
「…………」
横田の問いに、ソレは静かに首を振る。悲しそうに伏せられた顔を見、そして首筋に書かれている『9』の文字に目が行く。
「……九助」
「?」
怪訝そうな顔をされ、横田はその名を諦める。
確かに、金色の髪に紫の瞳という異国情緒のある外見に、その呼び名は似合わなかった。
それならばーー。
「ナイン」
「!!」
そう呼ぶと、ソレは眼を目一杯見開き、そして一筋の綺麗な涙をこぼした。
「…………そうか。それが、お前の名か」
横田は噛みしめるようにそう呟き、溢れた涙にそっと口づけを贈った。
これは、ヴォルフに救われなかったナインの話。
これは、銀二と出会わなかった横田の話。
これはーー交わるはずのない、2つの世界が交わった、歪んだ世界の話。
【終】