頭に浮かんだことばをひたすら書いていく。自由連想文ってやつをやります。目安の時間は10分。
今回のはじめのキーワードは「鳥居」。
鳥居をくぐるときは、ちょっと身が引き締まるような思いがします。特段信心深いわけでは……いやそうでもないな。けっこうそういう宗教施設とか、スピリチュアルなものが好きなことも相まって、鳥居をくぐるときは、なんだか背筋が伸びるような気がするのです。
清浄な、清廉な場所、なのでしょうか。神社は好きです。お寺さんも。なんだか、良い場所にいる、という感じがします。本当のところはどうなのでしょうね? 宗教施設って、なんだかふしぎな感じがあるような気がしているのですが、あの場所は実際になにがしかの力を持っていたりするのでしょうか。
磁場とか、あるいは龍脈なんてものがあったりして。本当に特別なパワースポットだったりしませんかね。そうだったらいいな。まあ、そうじゃなくてもお参りはするんですけど。
お参りは、故郷にある守り本尊へと、帰省のついでに立ち寄るようにします。なんとなく道で見かけたお社にも、ちょっと挨拶したりすることもあります。
願い事があるわけではないのです。ただ、そう、挨拶。僕が寺社に参拝して、お賽銭を入れる理由はやっぱりそこです。土地の神様に、あるいは仏様に、挨拶をしたい。そんな気持ちで鳥居をくぐり、あるいは山門をくぐり。そうして出会えた……出会えているのでしょうか? そういった神聖で、ぼくらとはちょっと違う何か。本当にそこにいてくれたら、とても嬉しいことなのですけれど。出会ったそのものに、ご挨拶。ちょっと楽しい……いや、楽しい、はちょっと違うかも。でも、特別な気分になれると思います。
だから、参拝。ご挨拶として。願い事のために手を合わせる、という感覚は、あんまりしっくり来ません。神仏に希うほどの望みであれば、それは自分の手でかなえたい。そうでなければ意味が無い。「かなえてもらった」願いは……だめだな。施しを受けたような気がして、ちょっとプライドが傷付きます。
欲しいものは自分の手で手に入れたい。そういった思いが僕の中には強くあります。与えられたものでは意味が無いんだ。勝ち取ることこそが人生なのだから。
……でも、自分の考えはどちらかというと少数派であるようです。SNSにいると、特にそう思います。
誰かから与えられたものは、本当に私のものになったのでしょうか。誰かから与えられた力で手に入れたものは、本当に私のものになっているのでしょうか。
私は、私の手で勝ち取りたい。与えられるのでは無く。勝ち取るために戦いたい。戦って、勝ち取る。人生って、そういうものだと思っています。
戦うことが大事だと思う。戦って、勝つことや負けることは、さほど重要では無くて。ただ、己の手で勝ち取るために、己の手で戦いを挑むことに、きっと価値があるのだと思うのです。
これも、あんまり共感は得られないのでしょうけれど。
戦って敗れ去った者には、手が差し伸べられるべきだと考えています。
だけど。
だけど、戦いもしなかった者には。
僕は、冷たい人間です。