こどもの歩幅は小さくて、いくら足を動かしたって、手の届く範囲なんてたかがしれていた。
だから、はじめて自転車を買ってもらえたときは嬉しかった。たくさんの擦り傷と仲良くなりながら、やっと風を追い越せたとき、どこへだって行けるような気がしていた。
土曜日の朝、学校へと向かう道に背中を向けて、ぴかぴかの――けれど、傷だらけの――自転車をこぎ出したときの、胸の高鳴りをよく覚えている。ランドセルが知らない景色を、その日だけでいくつ目にしたのか数え切れなかった。夜は全然眠れなかったことだって、今でもちゃんと覚えている。
水色の自転車と一緒に、あの頃の私はどこへだって行くことができた。学区を越えて、隣町までだって。知らない景色と知らない人たちの間を、風に乗って駆け抜けて、いくつもの冒険を繰り返した。
たくさんの人で賑わう交差点、朽ちた建物の裏手に広がる空き地、風と水の通り道になっていた小さな川。そして、あの子がいた場所も。
なっちゃん。私がはじめて出会った、違う小学校のおともだち。昔は駄菓子屋だったらしい、小さな空き家で彼女を見つけたのは、五年生の夏休みだった。
入り口のガラス戸の鍵が壊れているのに気付いて、こっそり中に入ってみたのがきっかけだった。ひび割れたタイルだけが残る部屋の奥、内壁に隠れて外からは見えない場所で、彼女は小さな布張りの折りたたみスツールに座り、文庫本を読んでいたのだった。
「……んあ?」
くちゃくちゃとガムを噛みながら、片眉だけ上げて私をじろりと見上げたなっちゃんが、そのときとても怖く見えたのは、内緒。
だけど私には、廃屋をまるで自分の部屋のようにしてくつろいでいるなっちゃんが、とてもとてもかっこよく見えて、それが怖さを軽く上回ったものだから、勇気を出して声をかけてみることにした。
それが、私となっちゃんの馴れ初めだった。六年生になる頃には私たちは親友のようになり、放課後は廃屋をたまり場にして過ごすことが、すっかり当たり前になっていた。
「最近、田中がさぁ……」
なっちゃんは私と同い年なのに、いろんなことを知っていた。彼女曰く、それはいろんな本をたくさん読んでいるから、だそうだった。私はそんななっちゃんから、雑学や蘊蓄を聞くのが大好きだったけれど、なっちゃんは専ら自分のクラスメイトの愚痴を聞かせることを好んでいた。
学区の違う私たちは、お互いの小学校にどんな人がいるのか、まるで知らない。たとえ聞かされるのが愚痴であっても、知らない世界の話はわくわくするもので、私たちの会話は途絶えることが無かった。
「今日、音楽の岩井先生がね……」
私の話も、なっちゃんは興味深そうに聞いてくれた。私はなっちゃんと違って、愚痴のような話はあまりできなかったけれど、その日学校で目立っていた人の話をすると、なっちゃんはころころと笑ってくれた。
「おもしれーやつが多いんだな、ユカのところは」
目をきゅっと細めて、からからと笑う。そしてその後、きまってなっちゃんはこう続けるのだ。
「それに引き換えウチの連中はさぁ――」
そうして、なっちゃんの愚痴がはじまる。主になっちゃんのクラスメイトに対する不満が、どんどんどんどん口を突いて出てくる。その話の中にはひどい悪口もあったりして、私はおおいにびっくりしたものだった。
そんなひどい人たちが、同じクラスにいるだなんて!
そしてその驚きは、程なくして別の感情に置き換わることになる。六年生の私たちは、卒業したら中学校に進学する。中学の学区わりは小学校とは異なり、私となっちゃんは、同じ学校に通うことになる。
つまり、なっちゃんのクラスメイトが、私のクラスメイトになるかもしれなかったのだ。
六年生の冬、皆が中学校という新しい環境への不安を抱えていた。けれど、私が抱えていたのは、他の皆とは比べものにならないくらい大きな、もはや恐怖とも言っていいくらいの、重大な不安感だった。
なっちゃんの話だと、なっちゃんのクラスメイトはとてもまともだとは思えない。私は、本当に中学校で上手くやっていけるのだろうか。
不安に一人枕を抱えて蹲る夜が続いた。けれど、それはある夜に転換点を迎えることになる。
私だけじゃなくて、私のクラスメイトも危ないのでは。
そのこと気付いたとき、私のこころに小さな火が灯った。みんなを守れるのは、なっちゃんから話を聞いていた私だけだ。その決意が、私を強くしてくれた。
そして私は戦い抜く覚悟と共に中学校へと進学し、見事、ごく普通の中学生でしかなかったなっちゃんのクラスメイト達を目の当たりにして、拍子抜けすることになったのだ。
なんということはない、なっちゃんの話はただ大げさだっただけで、直接話してみれば仲良くなれそうな人たちばかりだった。私は肩透かしを食らったような気分にはなったものの、それでもほっと胸をなで下ろし、こっそり筆箱に忍ばせておいたナイフを、そっと学習机の奥底に眠らせたのだった。
けれど、問題はここからだった。
なっちゃんは、あれほど私に対してボロクソに語っていたクラスメイト達と、ごく普通に仲良く接していたのだ。それは、私に対する態度とまるで違いが無いくらいだった。
それでも彼女は、放課後に学校から二人で直行するようになったあの廃屋にたどりつくと、また彼らのことをこき下ろす。
私には、その態度が理解できなかった。
片やクラスメイトと仲良くするなっちゃんと、片やクラスメイトをボロクソにこき下ろすなっちゃん。……本物のなっちゃんは、いったいどちらなのだろうか。疑問が浮かび、そして、それ以上に大きな、とてつもなく重大な疑問も発生してしまっていた。
もしかするとなっちゃんは、私のことも、誰かに対して愚痴をこぼしているのではないか。
休憩~。
終わるか~。