頭に浮かんだことばをひたすら書いていく。自由連想文ってやつをやります。目安の時間は10分。
今回のはじめのキーワードは「清掃」。
清掃業と言えば社会の底辺というようなイメージがある。完全に偏見であるが、誰にでもできる仕事、という印象がそんなイメージを抱かせるのだろうか。
あとは、ゴミという誰もが嫌がる物を扱う仕事だからこそかもしれない。汚い、臭い、だから皆嫌がる。嫌がる物を他人に押しつける力がある人が、そうでない人に処理の仕事をさせる。だから、清掃業にはどうも、底辺の仕事、というイメージを抱いてしまう。
実際には、職業に貴賎など……いや、あると思うけど。転売屋とか死ねばいいと思うし……閑話休題。清掃業は、少なくとも賤業ではない。社会を、社会のインフラを、清潔に保つための素晴らしい仕事だ。
僕は職業の価値という物は、社会貢献度によって決まると考えているのかもしれない。今ふとそう思った。そもそも職業という物が存在しているのは、社会維持の為なのだから。人が社会無しで生きていけるのであれば、そもそも職業などと言うものは必要なかった。一人で生きていけるほどに強いのならば、群れて分業化する必要など、ない。
分業化は強さと明確な関係があると思う。この場合の強さというのは、生き物としての強さのこと。どのくらい余力を持って生きていくことができるか。生命体として、種としての生存力の強さ。
皆が生きていくだけでも必死になるのであれば、つまり、余裕がなく、必死に働かないと生きていけないのであれば、とにかく効率的な社会を作り、分業を推し進めていく必要が出てくる。
好きな職業を皆が選べるということは、それができるだけの余裕があるということで。
今よりもずっと貧しかった時代には、職業選択どころか移動の自由さえも無いのが当たり前だった。当然といえば当然だ。そうしなければ、社会を回す歯車がしっかり回らなければ、崩壊しかねないのだから。
現代では、一人一人が持つ歯車が大きく強くなり、そして歯車の数自体も段違いに増えた。だからこそ高等遊民を養うような余裕も出てくる。皆がいやがる仕事を奴隷に押しつける必要も無くなる。
……そうかなぁ。
結局、奴隷って効率がいいんだよね。酷い話ではあるけれど。
誰かに負担をまとめて押しつけてしまえば、他のみんなは幸福でいられる。全体としてみた場合の幸福度はたしかに上がるはずなんだ。押しつけられる側の少数にさえ目をつぶれば。
けれど、現代の人権意識はそれを許さない。許せない。私自身もそう思う。人は皆平等であり、少数の誰かに負担を押しつけることは許されない。
だからといって、少数のために多数がより大きな負担を強いられるのが正しいのか? と考えると……やっぱりそれも、なんだか納得できない気がする。
少数派への配慮は必要だ。けれどそれは、少数派の主張をなんでも聞かなければならない、ということではないはずで。
そもそも少数派と多数派で分けて考えることの是非もわからなくなってくる。いや、そうでなければ、集団という力で劣る少数派が弾圧されるだけなのだから……いやまて。そもそも僕はなんでこんな話をしているのだろうか。
自由連想文のテーマとしては不適切な気がする。これはもっと、時間をかけてゆっくりと練るべき話であるはずだ。