7.図書館調査パートとショットターちゃんペア
「おい、見つかったか」
 ロナルドは手元の資料から目を離さずにドラルクへ問いかけた。
『あんまりだね。そもそもこんな膨大な情報の中から探し出すなんて、面倒すぎる。全部データ化してくれ』
「面倒がってないで手を動かせ。お前吸血鬼だろ。前から思ってたけど、吸血鬼がパソコンとかスマホとか持ってんの似合わねぇんだよ」
『君の退治人衣装とハエ叩きの組み合わせはどうなんだね? あれこそ、全国の子供たちの夢を破壊し尽くしている気がするが。いや、ダメだ。最近見慣れてきて違和感がなくなってきたんだ』
「俺の勝ちだな」
『これ別に勝ち負けとかじゃないでしょ! だったらわたしのも見慣れてよ!』
「吸血鬼っていうより、引きこもってるゲームおじさんにしか見えない」
『家事もやってやってるだろムカつくー!』
 ドラルクはムカつきすぎて砂になった。そういうパターンもあるのだな、とロナルドは深く頷く。
「お、これじゃねーか? 『ハーモニー・オブ・ジ・オーシャン』って書いてあるぜ」
『英文読めてえらいでちゅね〜、全文読めるんでちゅか?』
「読めねぇに決まってんだろ。なめてんのか」
『ギャ! せめてノールック殺害はやめてくれたまえ!』
『ヌーヌヌ!』
「お、もしかしてジョン読めるのか」
『素晴らしいぞジョン! さすが私の使い魔』
『ヌヌー! ヌヌヌンヌ、ヌヌヌヌ……』
「待って、急に喋らないで録音するから」
『録音してわかるのか』
「……たしかに」
『仕方ない、私がすぐ訳してやろう』
 ロナルドがスマホの録音をオンにした。
 ジョンが読み取った内容は、次の通り。
 ──50年前、一隻の船が航海に出かけた。
 名は「ハーモニー・オブ・ジ・オーシャン」、ロナルドたちが乗っているシンフォニー・オブ・ジ・オーシャンの前身となる姉妹船である。
 かの船は豪華な内装ときめ細やかなサービスが人気の船で、主に欧州を周り富裕層に人気の船だったという。
 その日も、船は夏のバカンスに出かける旅行客を乗せ海へと旅立った。空は抜けるような快晴、まさに航海日和だった。
 しかしその晩、おかしなことが起こった。
「消えた……?」
 聞こえてきた単語にロナルドは耳を疑う。
『ヌヌヌ』
『間違いないってジョンは言ってるよ』
 ドラルクはその赤い眼を伏せる。
 そう、船は消えた。跡形もなく。
 寄港予定になっても船が帰ってこず、陸の人々はやっと異常に気がついた。急いで捜索に向ったが、船の姿はおろか乗客の姿もなく捜索は困難を極めた。
 しかし、一ヶ月後、いくつもの救護ボートが見つかった。中には船に乗っていた乗客がおり、いずれも憔悴していたが生存していた。すぐに事情聴取が始まったが、生存者のほとんどは記憶がなく一ヶ月経ったことも記憶していなかった。ただ一人、当時10歳だった女の子がこう証言している。
『黒い人が来た。黒い人たちは空から来た』
 記事はそこで終わっていた。
「うーん」
 ロナルドは顔を上げる。
「つまり……どういうことなんだ?」
『この船の噂も、「人が消える」という内容だったね』
「そこは共通してるな、でもこっちは船ごと消えてる」
『女の子の証言が気になるな、「黒い人たち」か』
「なんだと思う?」
『女の子がそれを正しく認識できていたか怪しいがな。例えば動物や大きな波を人だと思ったのかもしれん』
「でも10歳ってそんな子供かぁ?」
『アンチエイジングの催眠にかかった時の君は、そんな感じだったぞ』
「お? おぉ」
『一度整理するか』
 ドラルクは立ち上がりどこからかホワイトボードを持ってくる。
「おい待てよ、どこから持ってきたそれ」
『状況説明パートにはホワイトボードが一番だろ。いちいち細かいことを気にしないでくれたまえ』
『ヌンヌヌンヌ!』
 多数決によりロナルドは大人しく口を閉じる。
『まず噂の整理だ。まず、わたしたちが森上さんから聞いた噂は「人が消える」だ』
 ドラルクはホワイトボードに、かろうじて男とわかるモンスターのイラストを貼った。
「……一応聞くけどそれはなんだ」
『どこからどう見ても森上さんじゃないか! 割と自信作なんだ、上手く描けてるだろ』
「うーん、逆さまにみると犬に見えるな」
『うるさいだまれハゲろ若造』
 モンスター(もしくは犬)の下に「人が消える」と書かれる。
『次に我々が聞いた噂は同胞からのものだ。「知らない部屋や廊下が現れる」』
「最初は消えて、次は増えるのか。なんか噂に一貫性がないな」
『この噂の元ネタになってるのは、この船の姉妹船でもあり沈んでしまった「ハーモニー・オブ・ジ・オーシャン」だ』
「実際、船も人も消えてて数ヶ月後に現れた。森上さんの噂に似てるな」
『女の子の「黒い人」は新しい証言だ』
「でもやっぱり、知らない部屋や廊下が現れるってとこが良くわかんねぇな」
『同胞は「混ざる」と表現してたな』
「混ざる……か」
 噂を整理するとホワイトボードには以下が書かれた。
森上の噂→人が消える。しばらく経つと戻ってくる。
ミヅキの噂→知らない部屋や廊下が現れる。
噂の元ネタ→沈没した姉妹船。船も乗客も消え、数ヶ月後に乗客だけ戻ってきた。女の子の証言「黒い人がきた」
「やっぱあのミヅキから聞いた話が浮いてる気がするな。これだけ前の船と関係ねぇもん」
『だが嘘をつくにもメリットがないだろう。この噂自体も彼の創作だったといわれてしまえば、それまでだが』
「うーん『混ざる』か」
 ロナルドは顔を上げて天井を見た。
『やけにその言葉に引っかかっているようだね』
「ヘンリーも言ってたから」
『ヘンリー? あぁ、あのスロットの青年か』
「そういえばあいつずっとこの船に乗ってるっていってたよな。噂について何か知ってないかな」
『おや、そんなことを言っていたのかい?』
「あぁ、初めの自己紹介の時に俺はこの船にずっと乗ってるって」
『へぇ』
 ドラルクはぎゅ、と口角を上げた。
『ヘンリーという青年の連絡先は知ってるかい?』
「いや、そういえばなんも聞いてねぇな」
『彼に話を聞いた方がいいと思うよ』
「なんで?」
 ヘンリーは普通の乗客だ。ドラルクはロナルドの疑問には答えず、肩をすくめる。
『色々と気になる点がある。船に長く乗っているのなら、新しいスタッフが知らない情報を掴んでいるのかもしれないしね』
「おぅ。ま、船に乗ってたらいつかは会えるだろ。とりあえず記事を写メって、みんなにも共有するか」
『……イマドキの子たちって写メって言わないらしいよ。しってた?』
「なんで急にその話するんだよ、やめろよ」
 ちょうど写真を撮ったタイミングで、図書館のドアが控えめに開いた。
 立っていたのは髪を下ろした小柄な人物──ターちゃんだ。
「ロナルド、ここにいたのか」
「お、ちょうどよかった。今から連絡しようと思ってたんだよ」
「お、お前らもここかよ。じゃあ被りだな」
 ターちゃんの後ろからショットが顔を出す。
「何調べてたんだ」
「この船の過去の記録とか、あと元になった姉妹船があったらしくてその記事とか」
「えー結構進んでるな。俺たちも頑張らねぇと」
 ショットの言葉にターちゃんは、フンと鼻を鳴らす。
「イソギンチャクが足を引っ張らなければ楽勝ネ」
「それはできる限りガンバリマス」
「せっかくならマリアとがよかったヨ」
「マリアはサテツとペアだろ。そういえばさっき後ろ姿が見えたけど、ロナルド見かけたか?」
「いや、お前らが最初だ」
「ふーん、こっちにきたと思ったんだけどな」
 ショットは一瞬怪訝そうな顔をしてまぁいいや、と肩をすくめた。
「とにかくここは先客がいたらしいぜ。同じ場所を調べても仕方ないし、別のとこ行くかターちゃん」
「言われなくてもそのつもりネ。じゃあな、ロナルド」
「あぁ、気をつけてな」
 ターちゃんはその言葉に軽く笑い、扉を閉めた。
 ロナルドは大きく伸びをする。もうだいぶ夜がふけ、早朝と呼ばれる時間帯になりそうだった。
『眠そうだね』
「まぁずっとこの格好だしな。そろそろ肩が凝ってきた」
『情けないなぁ。たまにはフォーマルな格好に慣れておかないと。君もいい歳だろ』
「こういう時だけ若造扱いやめるなよ」
 着なれないタキシードに身体が緊張しているのか、いつもより疲れるのが早い。普段のシンヨコなら、まだ走り回っている時間帯だがいまは瞼が重く身体が鉛のように重くなってきた。
『まぁこれ以上調べても今日は出てこないだろう。とりあえず明日にしてはどうだね? 森上さんも完全な解決を望んでいるわけじゃないし』
「なんつーか、中途半端だけどな」
 ふあり、とあくびが出た。ドラルクのいう通り、今日はここらへんで切り上げた方がいいかもしれない。
 
「ほかの奴らはどうしてるかな」
『明日聞けばいいさ』
 ドラルクの言葉にうなずき、図書館を後にした。
◇◆◇
 ──まったく、なんでこんなことに。
 思わず右手に力を込めると「イタイイタイイタイ」と情けない声が聞こえる。
「おいそんな強く掴む必要ないだろ」
「お前のひ弱なのが悪いヨ」
「ご機嫌ななめだな」
 ショットは困ったようにため息をついた。
 当たり前だ、機嫌も悪くなるだろう。ホールではピアノの旋律に合わせて、色とりどりの女性たちがパートナーと踊り花が咲いているようだ。そんな様子を見てもターちゃんの顔は晴れない。と、いうよりますます曇っていく。理由は明白だ。
「なんでわたしとお前がペアなのヨ」
「仕方ねぇだろ。くじなんだから」
 ターはもう一度深いため息をついた。そう、くじ。きっと今、自分は世界で一番くじ運の悪い女だ。よりにもよってこのイソギンチャクと一緒にいることになってしまったのだから。
 イソギンチャク──もとい、ショットと組んだのはこれが初めてではない。ただなんとなく息が合わないというか、噛み合わない気がする。かといって嫌いというわけではなく、どこか面倒な親戚といった具合だった。
 だから、この組み合わせは最悪なのだ。
 
「そんな仏頂面すんなよ、せっかく賑やかなとこに来たのにさ」
「お前、恥ずかしくないのか?」
「なにが」
 キョトンとした顔、こういうとこがムカつく。
 ショットとターを囲むのは、ダンスをする男女たち。こういう場所で一人でいるのは、目立ってしまう。だから、二人は今腕を組んで一緒に立っている。これは不可抗力、仕方がないと頭ではわかっていても、きっと知り合いに見られたら卒倒する自信がある。
「ほら、離れんなよ。人が多いんだから、離れるとわかんなくなるぞ」
「じゃあもっと強く握っていいか?」
「まだ握る気かよ! 俺の腕折れるぞ!」
 フン、と鼻を鳴らして力を緩める。ショットは安堵のため息をついた。こんなことをするために船に乗ったわけではないのに、と思い憂鬱になってきた。退治人の中で比較的仲の良いマリアと、買い物や写真を撮りたかったのだ。このイソギンチャクとダンスホールに来るためではない。
「なーまだ落ち込んでんのか」
 ショットが顔を覗き込んでくる。こういう的外れなところを言うから、この男はモテないのだ。
「ひ弱な男と一緒なのを嘆いてただけヨ」
「ハァー!? そりゃ、ロナルドやサテツに比べたら細いけどさ。俺だって結構鍛えてるんだぜ、ほら!」
「腕見せるな。女はそういうのあまり喜ばないヨ。それはただの自己満足よ」
「相変わらずひどいなー」
 ショットはキラリと光る何かを目から拭った。
「まぁ元気になってよかったけど」
「は?」
「お前、マリアとの旅行楽しみにしてたのに部屋荒らされて落ち込んでたろ。俺に文句が言えるくらいならもう元気だな」
「チッ」
「え」
本当に、こういうところが嫌いだ。
「まって!? いま舌打ちされる要素あったか?」
「黙れヨ。早く船の調査するネ」
「女心わからん……」
「ロナルドたちは図書館で船の歴史調べてた。ワタシたちは最近の噂を探した方がいいネ」
「ロナルドが聞いた噂と、何か変化してるところってことか?」
「わたしとマリアの部屋、荒らされた。噂にはそんな描写はないネ。いつもの怪談と違うということは、何か変化があったということ。ひいては前兆があるはず。その痕跡が見つかれば、噂の正体や部屋を荒らした奴の正体がわかるはずネ」
「なるほどな、でもそんな簡単にいくかな」
「時間、あまりない。船から降りたら犯人を見つけるのは困難ヨ。船に乗っている間に、手がかりをつかまないと」
 ターは踊っている人々を睨みつけた。この中に犯人がいると思うとはらわたが煮えくり返る思いがする。思わず手に力を込めた時、「こら」という声が頭上からした。
「まーた険しい顔になってんぞ。もっと力抜けよ」
「お前が呑気すぎるだけヨ」
「せっかくかわいい格好してるんだから、眉間にしわ寄せてちゃ損だぜ」
「……かわいいか?」
「うん?」
 ターの声が聞こえなかったのか、ショットは少しかがむ。
「わたし、かわいいか?」
 そこでやっと自分がいったことに気がついたらしい。目の前の男はあからさまにあたふたし始め、こほん、と咳払いを一つした。
「まー美容院さんの腕がいいっていうか? 普段のお前にしちゃ、ふわふわしてる感じでいいよな。ファンとか喜びそうだし! いいと思うぜ、馬子にも衣装って感じでよ」
「……二点」
「それ何点満点評価だよ」
「百点満点ヨ。やっぱり童貞に期待するの間違ってるアルな」
 ちぇっ、とショットは唇をとがらせる。こいつの「これじゃない感」はいつ直るのだろう。ずっとこのままなら、普通に友人として心配だとターは思う。
「と! ともかく、俺はスタッフの人に話聞いてみるよ。ターちゃんはそこら辺の乗客に話聞いてみてくれ」
「[[rb: 收到> 了解]]」
 ショットの髪が人々の雑踏の中に消えていく。さて、誰に話しかけようか。先ほども思ったが、客のほとんどはペアで来ていて一人で来ている客は少ない。いきなり話しかけては変だ。どう話しかけようか思案していると、後ろから「こんばんは」と声をかけられる。
 振り向けば、タキシードを着た紳士だった。年はターより少し上、といったところだ。黒い髪を撫でつけて、オールバックにしている。ショットと同じオールバックでもえらい違いだ、と思った。
「いい夜ですね」
「そうですね」
「どうですか一曲? お嬢さんもお一人なら」
「いいですね」
 当たり障りのない答えを返しておく。早速、幸先がいい。やはり今日は「かわいい」のかもしれない。
 男性はターの返事を聞いて許されたと解釈したのか、右手を差し出した。黙ってその手を取る。
「ワタシ、あまりダンスの経験ないネ」
「ご心配なく。私がリードしますから」
 紳士がターの腰に手を当てる。ターも彼の肩に手を回した。まぁこちらも吸血鬼退治人の身、アスリート並みの身体能力は持ち合わせている。見よう見まねでやってもおそらくなんとかなるだろう。
 ピアノの音が一瞬止まる。おそらく曲の切れ目なのだ。
「さて、始めましょうか」
 
 男が笑う。曲が始まる。
 ふわり、と身体が浮く気がした。まるで羽根が生えているようだ。リズムに乗って自然と身体が動く、わかる。
 次にターンだと思った時、完璧なタイミングでくるりと回された。
「お上手です」
 男がささやいた。男は確かにダンスがうまかった。経験のないターが判断したところで、どこまで信憑性があるのかはわからないが男に合わせているだけで、リズムや体重移動がスムーズにできる。実は自分はダンスができたのではないかと錯覚しそうだ。
 それでいてサポートがわざとらしくない。ターの体重を支え、リードするときは知らぬうちに手を引かれている。
 他人と組んでこんなに息が合ったのは初めてだ。そもそも吸血鬼退治人という職業柄、みんな個性が爆発していて協調するどころの話ではない。退治の時もこんな風にいけば楽なのに、とターはふと思う。この前は最悪だった。攻撃しようとした前にショットがいて、一拍呼吸が乱れてしまったのだ。そのために下等吸血鬼は逃すし、ショットは襲われて怪我をしていた。
 まったく。
 ターの眉間には、知らず知らずのうちにシワが寄る。あの憎たらしいドレッドヘアーのことを思い出していた。今日もやたらとかっこつけた衣装を着てずいぶんと得意げだった。たしかに顔は悪くないとは思うが、二枚目にはほど遠い。あれで女性人気を狙っていると考えるとますますむかつく。もう一度ため息をついた。
 やはりわたしたちは相性が悪い。
「いけませんよ、お嬢さん」
 ふわり、とターの身体がまた浮いた。操られるようにして、またステップを踏む。
 
「踊っている時に別の男性のことを考えるなんて、マナー違反ですよ」
 見上げれば男がこちらを見ていた。誤魔化すように笑いかける。
「別に、何も考えてないヨ」
「きちんと私のことを考えてください。私の眼を見て」
 男の眼は、吸い込まれるような漆黒の瞳だった。深い穴の中を覗ているような、べったりと塗りつぶした黒。ハイライトが全く入っていない。まるで死んだ魚のような眼をしていた。
 視界が上に向いた。ターの腰が支えられ、男の顔が覗き込むようにしてぐっと近づく。
 
「優しくて、腕っぷしもいいようだ。気配りも出来る。ただ、張り切ると本領を発揮できないようですね。彼はとてもいい男ですね。貴女は気に入らないようですが」
「お前――」
 手に力がこもった。
 
「お前、なぜ知ってる?」
「なぜって、ずっと見てたからですよ』
 
 この男は危険だ、吸血鬼退治人の勘がそう告げた。手を振りほどき距離を取ろうと、力をこめる。
 しかし、外れない。
 ターは吸血鬼退治人であるがゆえに、一般人より強い。もちろん体格差はあるが、毎日人間ではない生き物を相手をしているのだ。男相手だったとしても、人間であれば勝つことが出来る自信がある。だが今、指一本動かすことができない。それどころか、ターは奇妙なことに気が付いた。自分は先ほどから、この男から逃れることに必死なのに、今だ身体はリズムを刻み踊り続けている。心臓がバクバクとうるさくなってきた。
 
『いけませんよ、お嬢さん』
 はっ、と上を向く。男が焦るターを楽しそうに見つめていた。その目があまりにも無機質で、冷たかったので心臓が掴まれたような心地がした。冷や汗が背中を流れ、肌が粟立つ。男は観察しているようだった。それはまるで蜘蛛がもがく獲物を見つめるような顔で、自分の命は目の前の男が握っているということを本能的に悟った。
 ――誰か。
 素早く会場に目線を走らせる。誰かいないか、誰かこの異常事態に気が付いている者は。
 しかし誰もこちらを見ていない。陽気で場違いなピアノの音がターの心をさらに焦らせる。身体が勝手に動く。やっと気が付いた。自分はリードされているのではなく、この男に操られていたのだと。
 何とか抵抗しようと腕に力をこめる。少しでも隙があれば、勝機が見いだせるはずだ。
 その時、ツンと鼻にくる匂いがターの鼻孔に刺さった。
 これは潮の匂い――?
『わたしを見て』
 匂いが段々と強くなる。強烈な匂いで胸がむかむかし、胃の中がひっくりかえりそうだ。見てはいけない。本能的に思った。それは何か動物的な勘で感じ取った予感だった。見てはいけない。見てしまったら、もう戻れなくなる。だがなぜか首がどんどん上へ向く。ピアノの音が急かすように早くなっている。目が合う。虚空が覗く。死んだ魚の目。
 
『わたしを見て』
 声が喉の奥で詰まった。男の顔が蝋燭が溶けるように段々と崩れていく。肥大した皮膚が白く分厚くなり、べろりと剥がれ下の血管が出てきた。不思議と血はあふれてこない。ただツンとした匂いが。膿と潮が混ざったような匂いが。ターの鼻を刺激する。目が離せない。唇――もう唇というのか怪しい、もう歯が並んだ穴がパカリと開いて言葉を紡ぐ。
『一緒に行きましょう』
 身体が凍った。男の剥がれた顔が近づいてくる。頭の中で大きく警告音が鳴っているのに抵抗が出来ない。あぁ駄目だ。目の端から熱いものが流れていくのを感じた。走馬灯のように様々な出来事が頭に流れていく。実家の中華料理屋の脂っこい店内、ギルドの仲間たち、シンヨコでの楽しい日々。そういえば――、なぜかふと思い浮かぶ。この前、下等吸血鬼の退治にいったときショットが前に立って邪魔になってしまった時。あれは、邪魔をしようとした訳ではなかったのだ。やっと気が付いた。
 あれは、護ってくれたのだ。ターが怪我をしないように、身体を張って。あぁいま気が付くだなんて。ぽたり、と頬を涙が伝うのがわかる。
 こんなことになるのなら、あんなに怒鳴らなければよかった。こんな時なのにふっ、と笑ってしまう。並んだ歯が見える。垂れ下がった肉とどろりとした皮膚。
 謝りたいな、ショットに。
 静かに目を閉じる。
「さて、次は俺の番だ」
 くるり、とまたターンした。違う誰かの手の中におさまる。
「やぁきみ、ロナルドの友達だろ?」
 目を開ける。眉間にしわを寄せるター。
「お前、誰ネ」
「まずは助けたんだからお礼を言ってほしいとこなんだけど、まぁいいや。俺はヘンリー。ロナルドと船で、友達になったんだよ」
「……ロナルドは友達じゃない。仕事仲間ネ」
「どちらにしろあいつの仲間なんだろ」
 ヘンリーと名乗った青年は、肩をすくめた。金髪の男は少し疲れたように息を吐いた。どこか軽薄でいけすかない男だ。顔は整っているので女にはモテるだろう。緑の眼も印象的できれいだし、シーニャあたりは好きそうな顔かもしれない。ターのタイプではないが。
「よかった。君、わりと危なかったんだぜ。わかってるだろうけど」
「――ッ! あいつ、どこ行った⁉」
 素早く手を振りほどいて振り向く。しかしあの紳士はもういない。逃がしたのか、チッと思わず舌打ちをする。
「おーおー、血の気が多いことで」
「お前ッ! あいつのこと、何か知ってるのか! 『あれ』は何ネ!」
「急に大声出さないでくれよ。落ち着いてって」
 ヘンリーに言われ、周りを見渡すと周囲の人間がこちらを見ていた。たしかにここで大声を出すのはまずいかもしれない。と、いうわけでターはヘンリーの首根っこを掴んで壁へ引きずる。う、嘘だろ! という声が聞こえたがかまいやしない。
 壁に追い詰め、ドンとヘンリーを投げつける。
「さぁ、話せ。あれは何ネ」
「本当に血の気の多いお嬢さんだな。連れの彼もたいしたもんだぜ」
「⁉ お前もイソギンチャクのこと知ってるのか? なぜわかる。お前も『あれ』と同じように見ていたのか」
「たしかに見てたけど、あいつらとは目的が違う。君たちは狙われそうだから注意してみてたんだ。先に君の方が危なかったから、君の方を助けたんだ。わかったらあの彼も連れて、早くここを出た方がいい」
「ハァ? お前なに言ってるネ」
「わけがわからないと思うけど、従ったほうがいい。ここは混ざりすぎてる」
 ヘンリーは警戒するように目を走らせた。ターも同じように周りを見る。
 何も変わらない、平和なダンスホール。何か危険が迫っているとは思えない。
 だが、ターも見た。あの皮膚がただれた男。本能的に感じた危険。
「説明しろ。一から十まで、わかるように全部な」
「そんな時間はないと思うぜ、お嬢さん」
「誤魔化そうとしてもムダよ。船の噂と関係があるんだろ。お前、絶対何か知ってるネ。逃がさない」
「俺も万能じゃない。注意を逸らすことはできるけどこれ以上は無理だ」
 そこでヘンリーの顔が青いことに気が付いた。額から汗の玉が浮かび、頬へこぼれ落ちる。
「お前、大丈夫か? なんか顔が青いヨ」
「早く彼と合流しろ」
「ハ?」
「それからこの会場のものは食べるな、飲むのもだめだ。誰とも話すな。早く離れた方がいい。もう誰があっち側でもおかしくない」
「何の話してる? お前、おかしいネ。病院行くか?」
 ターはヘンリーの頬に手を伸ばす。そして驚いてすぐひっこめた。
 驚くほど冷たい。まるで海水に長く浸っていたように、体温が低い。
 ヘンリーと目が合う。緑の眼が涙で潤み、こちらを見つめている。ふっ、と鼻に香りが届いた。あぁこれは。
 ――潮の香りだ。
「なにしてんだターちゃん」
 びくりっ、と急に声をかけられたので跳ね上がる。
 振り向くとショットが眉を上げてこちらを見ていた。見慣れた姿に、胸に何ともいえない安堵感が広がる。いや違う、これはただ知り合いの顔を見たから安心しただけで、サテツやロナルドでも同じ想いになったはずだ。なんでこいつにこんな気持ちにならないといけないんだ。本当にむかつく。
「えっ! なんで急に顔しかめんだよ! まだ何もしてないぞ!」
「遅いねイソギンチャク。やはり役に立たないネ」
「いきなりの罵倒⁉ おいおい、なんかあったのか」
「どうしたもこうしたもないネ。ほら、こいつ捕まえるの手伝え。何か知ってるみたいヨ」
「こいつって誰だ?」
 え、と思い壁を向いた。さきほどまでいたヘンリーの姿が、煙のように消えている。
「あ、あいつ! どこに行ったアル!」
「おいおい、なんか危ないことしてたんじゃねぇだろな」
 ショットが眉を上げる。
「そんなこと言ってる場合じゃないネ! すぐ追いかけないと」
「こらこら、ちょっと待て」
 駆けだそうとしたターをショットが止める。
「行動が早いのはターちゃんのいいとこだけど。ちょっと冷静になろうぜ」
「ハ! お前には言われたくないネ」
「ショットさん一応クールを売りにしてんだけどな。そりゃターちゃんが強いのは知ってるけど、ちょっとは俺のこと頼りにしてくれたっていいだろ。俺も仲間だぜ」
 きょとん、としてショットを見上げるといつものふざけた顔ではなく真剣な目をしている。
「今回、狙われたの忘れたか。あぶねぇから出来るだけ傍にいろよ」
「……初めに別行動させたのはお前ネ」
「あ! それはちょっと効率が悪いかと思って思わず言っちゃったんだよ!」
 途端にあたふたとし始める。やっぱり最後のツメが甘い。すんごいむかつく。
「お前、この前もそうやって前に出たのか」
「いつの話だよ」
「……谢谢」
「ターちゃんて急に声小さくなるときあるよな。なんて?」
「うるさい、イソギンチャク」
「おいそれ聞こえたぞ。絶対そんなんじゃなかった。明らかに長ぇもん」
「いいから、早くここをでるヨ。何かがおかしい」
 ターは歩き出した。何となく体温が高い。おかしなめにあい過ぎて、アドレナリンが分泌されているのかもしれない。
「待ってくれよ。じゃあこれ飲みほしちゃうから」
「こんな時まで貧乏性を発揮するんじゃないネ」
 と、言いながら先ほどのヘンリーの言葉がよみがえってきた。
――「それからこの会場のものは食べるな、飲むのもだめだ。誰とも話すな。早く離れた方がいい。もう誰があっち側でもおかしくない」
「ショット! 待っ――」
 時間がゆっくりになった気がした。グラスを傾けたショットの喉ぼとけがこくり、と動く。
 パチン。
 視界が真っ暗になる。電気が消え、数センチ先のものも見えない。
 しかしそれは一瞬のことで、すぐに照明は回復した。不思議なことに周りの乗客は停電に気が付いていないようだ。相変わらず談笑する人々と、穏やかなピアノの旋律が聞こえる。
「ショット?」
 名前を呼ぶ。先ほどまで目の前にいた彼の名を。
 電気が付いた時、もう姿が消えていた。職業柄、暗い中での戦闘は慣れている。目は見えずとも、かすかな動きを察知することはできる。目の前のショットが動いた気配はなかった。
 でもいない。文字通り、ショットはきえ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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吸血鬼退治人は幽霊船にて眠れ8
初公開日: 2022年08月12日
最終更新日: 2022年08月12日
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8.図書館調査パートとショットターちゃんペア