玄関が開く音がして、キッチンから顔を出すと朝のランニングを終えた蒼斗と目が合う。
「ただいま」
「おかえり」
蒼斗はいつも俺が起きるより前に起きて外へ走りに行く。天気と気温とやる気次第でコースを伸ばしたり短縮したりして調節しているが、今日は春の心地いい涼やかな空気の中で走ることが出来たようでどことなくへとへとになっているような。最長コースかな。
「卵はどうする?」
「オムレツで」
俺はと言うと蒼斗が出てしばらく経ってから起き、シャワーを浴びて朝食を用意する。弁当が必要な時はもう少し早く起きるが、今日は休日で少しだけのんびり起きる事が出来た。頼まれた通りにオムレツを作るべく、卵をボウルにあけて掻き混ぜる。蒼斗は簡単にシャワーで汗を流してから着替えに寝室に戻って行った。
溶いた卵を熱いフライパンにあけ、数回混ぜて熱を通し手首のスナップを使って形成し皿に乗せた。うん、上手く焼けたな。
「蒼斗、焼けたぞ」
そんなに広い家ではないから普通に声をかけるだけで聞こえる筈で。なのに着替えに行った蒼斗から反応がない。
「蒼斗?」
今日は長いコースを走ったようだから、もしかして。廊下でも一度声をかけ、反応がないのを確認して寝室を覗くとベッドに上体を預けて行き倒れのように寝ている蒼斗の姿があった。
「ん、ぶ、ふふっ」
かわいい。服も半脱げだ。一枚だけそれをスマホで撮ってから蒼斗、と声をかけて背を揺さぶる。
「んん……」
「蒼斗、オムレツ冷めるぞ」
「…ごめ………」
一、二ヶ月に一度くらいある蒼斗の貴重な寝落ちだ。朝に強くしゃきっと起きれるが、張り切ってランニングするとシャワー浴びてさっぱりした気分と疲労でこうして二度寝に入ってしまう。行き倒れのさまは色々種類があるが、前回のようにお尻が半分見えている状態じゃないだけまだましだろうか。あれはかわいすぎた。
「蒼斗、ほら起きろ」
「あと…ごふん…」
「だーめ、冷めるだろう」
「ごふんだけ………たかにぃ……」
寝惚けてる。かわいい間違いだ。
「人違いだ」
くす、と笑って頬をつつき、仕方なく五分だけ許すことにした。今のはずるいな、かわいすぎる。まさか崇さんと間違われるとは……
「ふふ、……ん"ふふふ」
気味の悪い笑いが漏れてる自覚はある。五分だけ、たか兄、だって。俺を崇さんと間違えたのか。口元を押さえて寝室を出てキッチンに戻り朝のコーヒーの支度をするためにお湯を沸かし、
「いまっ!のは!違う…」
「お?」
「まち…間違えました。すんません」
どたたた、と騒がしい足音がしたかと思えば変な寝跡をつけた蒼斗が飛び込んできた。
「起きたのか?」
「なんか…すげー、目、覚めました」
心做しか顔色が悪いような。座れば良いのに、ソワソワと右往左往している。どうやら俺を崇さんと間違えたのを物凄く気にしているようだった。別に気にしないが…
「五分だけ、たか兄…だって」
「いや…あの、寝惚けて…俺、たか兄に起こして貰った事なんて一度もないのに…なんで…」
学生だった頃、芹と一緒にくっつりやに何度か通った。ある時、「マスターってちょっと雰囲気がアンタに似てるわよね」と言われて面食らった事がある。当時はよく老け顔をいじられていたのもあってその延長線上の話だと思ったのだが、芹曰く、落ち着いた話声や佇まい、そしてちょっと抜けたところが似ているのだ、と。年齢の割に落ち着いているとよく言われるし、マスターとしての大人の佇まいに似ていると思われるのは光栄ではあったが、俺は崇さんのようにおろしたシャツに値札がついたまま気付かないなんて事は無いだろう。……その数日前にインナーを後ろ前に着ていたと夜制服を脱いだ時にやっと気付いたという経験もあってなにも言い返せなかった。話が逸れたが昔芹にそう言われたのを覚えていたから人違いされて悲しいだとか、嫉妬するとかはない。考えてもいなかった。まあ……知らない異性や別の男の名前を出されたら……わからないが。少し想像して嫌な気分だ。
「……怒ってる」
「うん?……ああ、違う違う。怒っていない」
被害妄想しているだけだ。気まずそうにしている蒼斗はとてもかわいいが可哀想でもある。焼けたトーストを出してやってようやく蒼斗がダイニングテーブルにつく。少し俺の表情を伺っているようだったが本当になにも気にしていないとやっと理解したらしくさくりとトーストを齧った。
「昔、高校生だった時」
「三年?」
「そう。何度かくっつりやに行っただろう」
「はい。他の先輩も一緒に」
「芹に、俺はマスターに雰囲気が少し似てると言われた事がある」
「了と、たか兄が?」
恋人としての蒼斗にだけ許している呼び名で俺の言葉を繰り返した蒼斗が不思議そうにひとつ首を傾げた。親族としては異議があるのかもしれないな。
「芹にそう言われて、思ったんだ」
「なに?」
「もしかしたら蒼斗の初恋は崇さんだったんじゃないかって」
「え」
もちろん初めて口にする。あの時ふとそう思って、ほんの少しの時間嫉妬に身を焦がした。敵わないじゃないか。俺の知らない蒼斗を山ほど知っている。生まれた時から俺の知る蒼斗に至るまでの長い時間を知っている、なんて。けどそう考えると色々なものに納得がいったのだ。俺の目から見ても蒼斗の最も信頼する大人はあの人であり、こうなりたい、というのが伝わってくる。誰より近くにあって、羨望、敬愛した相手と近い空気を持つ年上の同性に特別な感情を抱くのは自然に近いものだったんじゃないかと。異性相手よりも当たり前のように、自然に。そうでなければ選択肢として俺を挙げる事も……
「ない……ないっす。全然」
「ん?」
「叔父なんで…そんな、特別に思うなんてこと」
切羽詰まった蒼斗の声に思考に耽って下を向いてた目線を上げると、真っ青な顔で目を泳がせていた。
「俺が好きなのは了で、」
「蒼斗?」
「えと、だから…なんか、誤解させたならほんとに」
「蒼斗」
しまったな、そんな顔させるつもりはなかった。俺が崇さんが初恋か、だなんて言うから蒼斗は俺が二人の関係を疑われているのではと焦っている。
「絶対…絶対、なくて」
「蒼斗。ほら、俺を見ろ」
言い方が悪かったのだろうな。俺はなんの心配もしていないし、なにも疑っていない。青い顔を上げて俺を見る目と重なってふ、と笑う。一言で簡単に「初恋」とおさめるのが丁度良くて使っただけだが、そういうものではないだろうに。
「すまない、俺の言い方がおかしかったな」
「……了」
「そんな顔させるつもりはなかったんだ。ごめん」
「いや……」
「俺は何も怒っていないし、疑ってない。叔父と甥で仲が良いのが微笑ましくてかわいい」
「かわ……え?」
俺にも叔父は叔母はいるがそこまで仲良くはない。微笑ましくてかわいいというのは本心だ。ずっとそのままでいて欲しいから俺の言葉で何か変えて欲しいなんて事ももちろん無いのだ。
「それにもし万が一、本当に蒼斗の初恋が崇さんだとしても」
今更蒼斗がやめたいと言っても。逆に、崇さんが蒼斗を返せと言ったとしてもだ。
「絶対に、かえしてやらない」
譲る気などこれっぽっちもない。だから初恋が誰相手であれ、正直言うとどうでもいい。ふん、と笑うと俺を見ていた蒼斗の瞳が瞬く。数回瞬きを繰り返して両手で顔を覆った。
「狡い………せんぱい、好きです」
「ええ……なんで…」
何かおかしな事を言っただろうか。自分の言葉を思い返してもそんな変な言葉ではないと思うが。
「何年経っても蒼斗のツボがわからない」
「…了には絶対言われたくないんすけど。ほんと、絶対言われたくない」
「そんなに?」