優しく歯を立てると、柔らかいながらもコリコリとした感触がした。
「んっ……」
 小さく声が上がる。
 やわやわと甘噛みしながら含んだそれを舌でなぞると、逆に産毛が撫で上げてきた。ん、と耳に擽ったそうな吐息がかかる。
 すぅ、と息を吸えば、いっぱいの侑のにおい。
 まだ。もっと――
「もういいでしょ?」
 不意に、抗議の声が上がって肩を押さえられる。私が思わず動きを止めると、そのまま体ごと引き剥がされてしまった。
 ああ、そんな、もっと堪能したかったのに。分かっていたことだけれど、残念な気持ちは抑えられない。
「えー……」
「えー、じゃない」
「だって侑の耳たぶをこうできるの、最後かもなんだよ?!」
「わー、なんでだろ、全然嬉しくなーい」
 そんな。侑の耳たぶを甘噛みすることの素晴らしさを、他でもない侑自身が知らないなんて。
 それがどれだけの意味を持つのか、事細かく語りたかったけれど。
「遊んでないで、ほら、早く準備してよ」
 そう急かされてしまっては仕方ない。確かにこれは惜しんだ私のわがままなのだから。
 それに、ちょっとは緊張とかほぐれてるといいけど……と思いながら「はーい」と私は怜さんの指示で用意しておいた諸道具を取り出した。
 作業手順のメモ、よし。消毒液、よし。綿棒、よし。ガーゼ、よし。鏡、よし。マーキングペン、よし。ピアッサー、よし。
「オッケー。じゃ、始めるよ」
「うん。お願い」
 準備もできたので、まずは私の手と侑の耳たぶをちゃんと消毒する。
 それが終わったら侑に手鏡を渡して、私はマーキングペンを手に取った。
「それじゃあ、どの辺りがいい?」
「んー、下の方」
「ここ?」
「下過ぎるよ。そこじゃ当たっちゃう」
「そっか。じゃあこの辺?」
「ん。そこで」
 侑の指示があったところにペンで印を付ける。
 そうして取り出したるはすでにセットを終えたピアッサー。見るからに痛そうなそれを、侑の耳たぶに垂直になるよう宛がう。
「侑」
「なに?」
 私の呼びかけにも、侑の横顔は微動だにしない。
 ここにきて臆病風に吹かれてしまう。侑の体に傷を付けること、痛みを与えることに。私がお願いしたのに、ほんとに病院でじゃなくて私がやっていいの、って訊きたくなる。
 だけど。
 私は徐に侑の手を取って、自分の体へと寄せる。
「痛かったら掴んでていいから」
 私の言葉に、侑は私の服をぎゅっと握り締めて応えた。
「うん」
「……いくよ」
「うん」
 覚悟を決めた私は、ふぅと息を一つ吐いて。
 ――ばつん、
 侑の体に、孔を空けた。
「――――っ、ぃ、!」
 呻きが漏れる。
 思わず顔をしかめる。指先から血の気が引いていくのを感じる。傷付いたのは侑の方なのに。
 慎重にピアッサーを侑から離す――そこには星型の小さなファーストピアスが埋まっていた。
「大丈夫?」
「……ん、大丈夫」
 答える侑の顔も引き攣ってるけど、今のところ出血とかはそんなにない。
「ほんとに?」
「大丈夫だって。お風呂場借りるね」
 そう言ってすぐに立ち上がった侑は、しっかりとした足取りで歩いて行った。
 ……細い溜め息が零れる。
 今になって手が震えていた。さっきまではそんなことなかったのに。空ける時じゃなくてよかったけど。
 まだ指先の感覚が戻らない。
 私の方がこんなんじゃだめだな。侑はあんなにしっかりしてるのに。指を動かしながら、また溜め息が上がる。
 ……だけど。
『侑ってあんまり泣かないでしょ』
 ピアスの空け方を怜さんに教えてもらいに行った時、そんなことを言われた。
『ちっさい頃はぎゃんぎゃん泣いてたんだけどね。小学校上がったら途端に泣かなくなったよ。怪我して帰ってもあっけらかんとしてさ』
 それを聞いて少し驚いたのを覚えている。私が知ってる侑は、そんなに泣くことなかったから。
 侑が泣いたのを見たのは――それこそあの時が初めてだった。
『痛いことは痛いんだろうけど……耐えれちゃったんだろうね。ま、私が泣いてるあいつをからかったのも悪かったんだろうけど』
 あっはっは、と怜さんは笑っていた。
『多分、穴空けてもあいつは泣かないだろうからさ。燈子ちゃん頼んだよ』
 その言葉が、私にとっては嬉しくて。怜さんに頼られたというのもあって、その時は一も二もなく頷いたけれど、『頼んだよ』と言われたのにこの様だ。全くもって情けない。
 ……とにかく、自分のことは一度置いといて、まずは片付けないと。それと落ち着けるよう、ぬるいミルクを用意しとこう。
 使った道具を一通り片付けて、蜂蜜を少しだけ入れた牛乳を温め始めた頃に、お風呂場から侑が出てきた。
「今牛乳温めてるから、座ってて」
「ありがと」
 侑は大人しくリビングのソファに腰かける。ホットミルクができたので私もソファに並ぶようにして座り、侑のマグカップを手渡してから一緒に飲んだ。
「あ、甘い」
「蜂蜜入れた」
「おぉ、いいね」
 そう言って侑は何度もカップを傾ける。
「感じはどう?」
「んー、やっぱりすぐには慣れないね。なんかちょっとだけ重い感じ」
「そうなんだ」
「燈子だってイヤリングするじゃん」
「それはそうだけどさ、なんか違うかなーとか」
「そんなん言われても分かんないよ」
 からからと侑は笑うけれど、その声にはどうも張りがなかった。
 横目で様子を見ていた私は、カップを机に置いてから座り直す。
「侑」
「ん?」
「おいで」
 そう言って私は、ぽんぽんと膝を叩いた。
 まばたきをしていた侑はそれに目を丸くする。そして唇を尖らせながら一度目を逸らしたかと思うと、今度は悪戯がバレた子供みたいに笑った。
「……あー、じゃあお言葉に甘えて」
 言うや否や、侑はごろんと私の膝に頭を預ける。
 仰向けになって目を瞑る侑の表情を見るに、少しは楽になったようだ。
 ……全く、もう。
「バレてた?」
 張りのない声がそう訊ねてきた。
「なんとなくね。侑ったら」
「ごめん。思ったより気を張ってたみたい」
 そう返す声は、いつもより弱々しい。
 そんな侑に私はなにがしてあげられるだろう。どうしたらいいのか考えて――私は開きっ放しの侑の口に自身のそれを、ふ、と落とした。
「……っ」
「がんばったご褒美」
 偉い偉い、と頭を撫でる。
 すっかり目を見開いて私を見つめていた侑の顔は、少しだけ赤く染まっていた。
「もー、なにさ急に」
「だからご褒美」
「どっちのだよ全く……」
 そうは言うけれど、侑の顔は嬉しそうに緩んでいて。
「……じゃあ、もっとちょうだいよ」
 私の頬に手を伸ばしながら、熱に潤んだ瞳で侑は囀る。
「もう大丈夫なの?」
「もっとご褒美くれたら、もっと元気になるかな」
「調子がいいなぁ」
 そんな会話に二人して笑いながら、私たちは再び唇を重ね合った。
「あーあー、もっと侑の耳たぶ味わいたかったなー」
「今それ蒸し返す?」
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