大学生活はよくも悪くも悠々自適だった。
よくも、は大きな不快も束縛もなかったこと。悪くも、は刺激がまるでないこと。
正直、あの時――高校の入学式レベルの出会いを求めてなかったと言えば嘘になる。私のなにもかもが彼女一点に定まって、時間も能力も捧げるほどの熱情を。
それほどの人がいないということを、彼女のすごさと見るべきなのか、無駄に肥えてる自分の目を恨めしく思うべきか。
かといって、軽々に彼女への熱量を上回るほどの想い人が見つけられても、それはそれでその、困る。自分の気持ちの軽さを疑ってしまいそうだから。
結局、こうしてなぁなぁに考え続けていたら、そんな人は一生現れないのでしょうけど。
それもいくらか影響してるのだろう。大学生になって初めての長期休暇。私はすっかり暇を持て余してしまっていた。
だって長い。高校時代を考えたら天国みたいな期間だ。生憎と今の私にとってはもったいないくらいに不要なものだけれど。
流石に四六時中恋愛に懸想してるわけじゃないとはいえ、こうもぽっかりと空白が連続してしまえば、人寂しさを感じてしまう。
友達と遊べば、と思ったけれど、大学の友達と共通することはそんなにない。カラオケに行っても多分趣味が違ってしまう。あちらは気にしないかもしれないけど、私が気にしてしまうのだ。そういうわけで私からは誘い辛いし、向こうは向こうで友達多いから私に構う必要もないだろう。
愛果もみどりも――燈子も、みんな別の学校だし。そもそもの交友関係の狭さに思うところも出てきてしまう。
そうなると私にとっての憩いの場所と言えば、一つしかなく。
ちりん、と小気味のいい音を鳴らして、私はEchoに入っていった。避暑目的の客もいるのだろうか、中々に繁盛している様子だ。一人きりの店員たる都さんは、私に小さく手を挙げてくれるけれど、すぐにお客さんのところに駆け寄っている。
「あら」
そうして空いた席を探すべく、ぐるりと見渡したところで、見知った頭があるのに気が付いた。
夕陽色をした髪と、元気に立つ一本のアンテナ。
これほど特徴的な頭を見間違えるはずもない。
「佐伯先輩」
ドアベルの音に振り返った彼女――小糸さんの驚いた声が耳を貫く。
別に軽く会釈するだけでもいいだろうけれど。完全に認識されてることだしと、私は彼女の席へと歩み寄った。
まだ卒業して半年も経っていないからか、あんまり変わった様子もない。いや、私服はあんまりみないからそういう意味では珍しいか。動きやすさ重視のスポーティーな軽装だ。
「ゴールデンウィーク振りね」
「あの時は挨拶もできなくてすいません」
「いいのよ。生徒会の打ち合わせしてたんでしょ」
「そうなんですが」
そんな風に挨拶を交わしてる内に、目端に捉えていた唯一空いてた席に、新規入店客が座ってしまったのに気付いた。
改めて見渡すけども他に空きもなく。逡巡したけれど、避ける理由もないのだし、折角なのだし。
「ここ、いい?」
小糸さんにそう訊ねてみると、彼女はどうしてか苦笑を浮かべて席を促した。
「どうぞ。しばらく来ないので」
座りながら「ん?」となる。
「誰か待ってる?」
「待ってますけど、遅れるみたいで」
……その言葉を聞いて胸に走った痛みは、前よりずっと鈍ってしまっていた。
「へぇ?」
小糸さんがこうして微妙に言葉を濁す時は、大抵私に気を遣う時だった。
つまり、今日はあの子――燈子と、デートする予定だったのだろう。
それへの悔しさも薄く。どうやら私の恋心は、焦がれ続けた結果、焦げ切ってしまったらしい。燃え尽き症候群と言うにはいささか不完全燃焼感が否めないけれど。
それはいいことなのか、どうか。
……にしても燈子が遅刻、か。私には想像も付かない。
「言うべきことはきちんと言いなさいよ」
そう口にしたのは、負け惜しみか、そうともお人好しな心配なのか。駆け引きしようなんて思ってないから、ぽんぽん言葉が口を衝いて出てていまいち分かりにくい。
「そうするようにしてます。でも今回は不可抗力みたいなので」
「そうなの?」
二重の疑問。不可抗力の遅刻という点と、あの子が割と遅刻してるらしい点で。
「オーディションで遠出してたんですが、帰りの電車で前の便が事故ったみたいで。足止め中とのことです」
なるほど。そういうことなのか。確かにそれは仕方ないし、あんな苦笑も浮かぶだろう。
ちらりとスマホを点けて見ると、ちょうどニュースアプリの通知でその情報が浮かんでいるところだった。
「遅くなってごめんね。ご注文をどうぞ」
と、ドタバタした様子で都さんが注文票を手にテーブルに来たので、私は視線をメニュー表に落とすことなく注文する。
「ブレンドコーヒーと、それからリンゴのタルトを」
「はい。少し時間かかるけど、いい?」
ちらりと小糸さんを見やる。どうやらオーケーらしい。
「構いません」
「以上で」と伝えると、そのまま立ち去るかと思っていた都さんは、「そうだ」と言葉を続けた。
「それとこないだのリンゴ、ありがとうね。美味しかったよ」
「こちらこそ、いい豆をありがとうございます」
短く世間話を交わして、今度こそ都さんは慌ただしく次のテーブルへと向かっていく。
「店長さんと仲いいんですね」
そんな私たちの様子を見て、後輩はアイスコーヒーのストローを口にしながら言った。
「そうね。結構お世話にもなってるし」
「そういや、お中元ありがとうございました。リンゴ美味しかったです」
「どういたしまして。こちらこそどうも」
互いに頭を下げ合う。
普段からお世話になってるし、とお中元作業を手伝わされた代わりにEchoや藤代書店の分を捻じ込んだのだ。
これまではそうしたことを考えたこともなかったけれど、こうして普段のお礼を目に見える形でやり取りし、人のつながりを維持するのは、悪いことじゃない、とも思える。面倒には違いないけど。
「それにしても、農園とかやってるんです?」
不意に小糸さんは、文脈からまるで外れたことを言い出し始めた。
思わず眉根に力が入る。まぁ、不快でも嫌でもないのだけれど。懐への入り込み方が上手いのだろうか、この子は。
それはそれとしてきっちり文句は言うけれど。
「あなたの中で私の認識ってどうなってるのかしら」
「だって佐伯先輩ですし」
しかしこの後輩、私の威圧を全く意に介することなく、さも当然かの如く言ってのけた。その強固なイメージはなんなのか。そろそろ払拭したい気もする。
「答えになってないわよ。ウチにそんなのないし。やってるのは親戚よ」
「え、結構なブランド物でしたよね、あれ」
「そうね」
「やっぱりお嬢様だ……」
どうあってもその結論は覆らないのか。手ごわい。
はぁ、と呆れて物も言えなくなっていると、店内BGMが微かに聞こえた。音を絞った曲調はよく分からないけど、歌詞は辛うじて聞き取れる。どうやら恋愛ソングらしい。
「そういえば、エデンの果実はリンゴじゃないそうよ」
私がそう口を開くと、小糸さんの視線がこちらに向き直る。どうやら彼女も聞いてたらしい。口にした疑問は唐突な私の発言に対するものではなかった。
「え、そうなんですか?」
「そうは言ってもイチジクだとかバナナだとか、諸説乱立してるみたいだから結局は分からないみたいだけど」
「へぇ」
記憶を探って中空を彷徨っていた視線を下げると、小糸さんの目がどこか笑ってるように見えた。
「なによ、その目は」
「いや、佐伯先輩がそういう話を振ってくるのが意外だなぁと」
「本当に問い質した方がいいのかしら」
「だって佐伯先輩、フィクション物買わないじゃないですか」
「まぁ、そうね」
続けようとしていた言葉が、思ったより正確な反論に引っ込んでしまう。代わりに、言い逃れをするかのような放言が出た。
「哲学の講義でそんな話が出たってだけよ。雑学の類」
「あー」
嘘ではないのだけれど。哲学――西洋哲学はキリスト教とは切って離せない関係らしいし。
小糸さんはそれで納得がいったようで、アイスコーヒーをズゴゴと啜る。
「リンゴで神話と言えば、ギリシャの方もありますね。黄金のリンゴ」
そうしてストローから口を離したかと思うと、私の言葉から連想されたのか、そんなことを言い出した。哲学もギリシャとは縁深いけれど、神話と絡めた話は多くなかった覚えがある。
「どんなの?」
「女狩人に求婚するための徒競走勝負で、女狩人の気を逸らすために黄金のリンゴを投げたとか。あとは女神三人の中で最も美しい女神を選ぶ黄金のリンゴによって戦争が起こるとか」
「ろくでもないわね」
思った以上のことに思わずばっさりと切る。なに、ギリシャじゃリンゴって不吉なものだったりするの?
「確かに」
私の言葉に小糸さんも思うところがあったようで、表情を崩した。
「そうした由来があるからか、リンゴにも花言葉があったりするんですよね」
「へぇ」
しかし折角先輩が相槌を打ったというのに、後輩の説明は続かなかった。
見れば、小糸さんは打って変わって「やっちゃった」とばかりに顔をしかめている。
「なによ、言わないの?」
「いや、その」
私の圧に押し負けたのか、抵抗を諦めたらしい小糸さんは溜め息を吐いた。相変わらず押しに弱い子だ。
「リンゴの花は選択、優先、最も美しい人へ、選ばれた恋、名声。果実の方は誘惑と、後悔」
が、それを聞いて納得する。同時に心の古傷がわずかに疼く。
「……なるほど。すごい嫌がらせね」
「言わせたのは先輩なのに……いえなんでもないです」
じろっと睨むと小糸さんはそれ以上言わなかった。
全く。私が悪いみたいじゃない。自覚してるけど。
……傷口を瘡蓋が覆ってしまっても、その内側の鈍痛まではなくなることはない。
だけど。
「一つ言っておくけど。私は知恵の果実を取ったことに後悔なんてしてないわ。それで選ばれることがなかったとしても」
その傷は、避けることもできた。そうすれば今のような惨めな負け犬にならなかったかもしれない。代わりにきっとあの時のような緊張感がずっと付きまとってたことだろう。
でも、私は確かに想いを告げた。だから負けることができたのだ。
いくら焦げ切ったといえ、諦め切れたわけでも、悔いがないわけでもない。
それでも。たとえそれが私に報いることがないとしても。
私が選んできたことへの答えは得られたから。
「……はい」
「精々長続きしてちょうだいね。そうでないと、私が負けたのがなんだったのかって、恨んじゃいそうだから」
負けてしまったのならせめて、最後まで私に負けたと納得させて欲しい。
それがどれだけ難しいことか、他でもないこの子は分かってるだろうけど。
「……ありがとうございます」
それでも彼女は、私を真っ直ぐに見据えて、いつだかのように真剣な表情で頷いた。
「なんか仲よくやってるみたいだね?」
微妙に弛緩して会話の絶えたところに、都さんの声が割り込んでくる。
そうだ、忘れてた。なんだかもう今日の目的は達成したとばかりの充足感に酔ってしまっていた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーとリンゴのタルトです。ごゆっくり」
配膳を終えた都さんは笑顔で頭を下げると、颯爽と次のお客さんのところに向かう。
さて、と向き直ると、小糸さんの目は私のタルトに注がれていた。
……あぁ、なるほど。
彼女のアイスコーヒーを見てみれば、すっかりなくなっていた。いつから来てるのか知らないし、先に食べてたのかもだけど、元々待ち合わせしてたみたいだからひょっとしたら他に頼んでないのかもしれない。
ふむ。
「……小糸さん、どう?」
そう私がタルトを指差すと、気付いた彼女はバツの悪そうにして上目に窺ってくる。
「え、その、いいんです?」
「前はポテトもらったから、お返し」
これからもお世話になるかもだし。振り返れば近くにまだいて気安く呼べそうな人、ここにいるじゃないの。
思うところがないわけではないけれど。でも、悪く思っているわけでもなく。
神話で不和の象徴らしいとはいえ、たまには仲を深める物であってもいいだろう。
「なるほど。それじゃあ一口だけいただきます」
それじゃあ、と私は切り取ったタルトをフォークで刺して、小糸さんに差し向ける。
「はい」
「えっ、え、と」
私の気まぐれに意外にも小糸さんは狼狽えてる。そうして気が引けたのか、考える素振りをしたあとに手を伸ばすけれど、私はその手を避けてからもう一度彼女に向ける。
「ほら」
「うぅー……」
ようやく観念した小糸さんが、口を開く。
……意外と口を小さく開けるのね。恥ずかしいからかしら。
からん、
「侑ー、お待た、せー……」
ぱっくん、と小糸さんがタルトを食べたところで、当の待ち人が来た。
にわかな静寂。急に冷え込む店内。硬直した私たち。
……やっぱりリンゴは不和の象徴らしい。
私と小糸さんはそれから十分もの間、弁明を余儀なくされた。