「俺はとっくに死んでいて、それに気づいていないのだ」
と、そう思うことがある。
口を開くと、白石は変なものでも見るように俺の顔を見た。「尾形ちゃんなんかお話して」と言ったから話すのに、いや、それから十分は無視していた。当然か。
「……やだねえ、戦争帰りは」
俺が死んだのは戦争に行くよりずっと前のことだが、訂正はしなかった。喇叭の音と怒号と銃声が響く戦場にあっても、凍えた身体で俺は、とっくに死んでいるのかもしれないと思ったものだ。
俺が死ぬとき、母に抱かれていた。
透明な空に黄色い日がさしていた。波は白く、海と空との境界がずっと向こうに見えていた。母の腕には、もう重すぎたのだろう。ときおり波が俺の着物を濡らして、そのたびにまた重くなる。母は震えながら一歩一歩、波にぶつかりながら進んでいった。
「ごめんね」
と言った意味が、子どもの俺にはわからない。嬉しかった。久しぶりに母の胸に頬を寄せていた。母の皮膚は自分のものとも、年寄のものとも違って蝋を塗ったように湿っていた。
母は境界線をめざしているのだろうか、あんなところ女の足でたどりつけるのだろうか。
「かあさん」
目と目があった。そのときひときわ大きな波が打ち寄せて、俺の身体は海へと投げ出された。
水の中から光を見上げた光景をおぼえている。それが夢だったか本当の出来事だったかはわからないが、母と目があったのは本当のはずだ。
母の目に浮かんだ色がどんなものだったか、知るのはずっとあとになってからだった。
「やだねぇ、戦争帰りは」
と、もう一度白石が言った。
「本当やだやだ。生きてくだけでも小難しそうでさ」
黙り込んだ俺を持て余したか、そう言ってへらへら笑う。白石が言う“戦争帰り”は、俺と同じだろうか。まさか。一度死んだ男が不死身でいられるものか。あの戦場で俺は幽霊のように漂った。だから死ななかった。それだけだった。
「生きてくのなんて、そんな難しいもんかね」
「……お前の人生なら簡単そうだ」
「言うねえ。正解、そのとおり。だって自分のモノを持つなんて、大変じゃないの。ねぇ」
白石の生い立ちは聞いた。自分のものを持たず、重くなれば捨てて、また歩いていく。花をむしって歩くようなその軽薄な生き方に、俺は興味を持たなかった。
あのときの母の瞳と同じものを、そのあとになって俺は何度か見た。戦場で死ぬひとりの男の目に、拷問に耐えかねて解放を求めた男の目に。
あれは捨ててはいけないものを捨てたときの、安堵と絶望の色だった。
おわり
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