幻覚です
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海から吹き上がる風が彼の髪をはためかせる。岬の突端に向かってゆっくりと車椅子を押していく。見下ろす肩は痩せて、まだ五十に届かないと言うのに死の床の老人のようだ。反面、上機嫌に歌う鼻歌は無垢な幼な子そのものである。
「つきしま?」
と彼が振り返る。透き通るように笑う。つるりとひかる前歯が俺の心を無邪気に噛み砕いた。
【神経衰弱】
俺を地獄へ道連れにするよりも早く、鶴見中尉はひとりで楽園に逃げ込んでしまった。もう知性が戻ることはないだろうという診断に、彼が救われることを願ったのは不義理かもしれない。琺瑯の額当てを見た医者は「お手当をもらって早く引っ込めばこうはならなかったろうに、だが奇跡的だよ」と呆れたように言った。
「つきしま、鳥だ」
「……鳥?」
見れば崖の端に白い小鳥が群れていた。
西の端へと逃れてきた私たちは季節外れの渡り鳥のようにさびしく、寒村に身を寄せた。入り組んだ峻険な海岸線と塗ったように濃い青はこれまでに見たどんな風景とも違っているが、けれど彼の目には北の海の紺碧がうつっているのだろう。
「ほら。鳥だよ。鳥さんがとんでいるよ、オリガ」
道が途切れ、車輪がくぼみにつまずいた。帰りましょうか、と尋ねるとまだもっと近くで鳥を見たいと言うので、痩せた身体をおぶって枯れ野を進んだ。かさかさと鳴る草の両脇に海が見える。力の衰えた冬の日差しに、雪も降らないのではかえって虚しく物悲しいと思う。
耳元ででたらめな歌がたよりなく続く。鶴見中尉は、あの頃の彼はもうどこにも失われてしまった。今や自分で歩くことも排泄することすらままならず、記憶は混濁し、いつもどこか違う世界で幸せそうに微笑んでいる。俺は彼の聡明さを愛したが、この人が芯から優しい人だったのだと知るのがもう自分だけになると思ったら、暗い喜びが忍び寄ってきた。
「あの鳥はどこからきたんだろうなぁ」
「さあ。海じゃないですか」
「ふーん」
淵に立つ。しぶきを含んだ風が顔を撫でる。近づいて見ると、白い鳥が群れていると見えたのは、泡だった。断崖に打ち寄せた波が砕け、泡になって風に舞い上がっているのだ。
またあとでつづきかく