モルヒネを打つ手が震えていた。
薬瓶を受け取った私は何くわぬ風を装い、その腕に銀の針を突き立てる。褐色の肌は乾き、土埃に汚れ傷ついて、かつての瑞々しさをもはや失われていた。
「傷を見せてください」
「いや。いい」
鼻で笑って、鯉登大尉(★階級は仮★)が言葉を継ぐ。
「もう痛みなどないと言ったら取り上げるのか、お前」
一瞬、その目に中毒者の暗い輝きを見た。とっさに視線を逸らし、何か言葉を探す。しかし、冗談だ、と肩を叩いた顔は、平時と変わらずまっすぐな光を宿していた。私は密かに安堵する。
シベリアの夜明けは遅く、起床時刻が迫っているにも関わらず、外は完全なる闇夜であった。原野を渡った寒風がはげしく天幕を揺らす。ランプの火がたよりなく揺らぎ、彼の横顔にその苦悩の輪郭を浮かび上がらせた。
「……鶴見どん」
鯉登大尉の口唇がわななき、もはや失われた救い主の名が滑り落ちる。ああ、今夜もそうなのだ。真綿で絞められるような絶望感が忍び寄り、私の身体を取り囲んだ。
この人の横顔に思いがけない苦悩を見て虚をつかれたのは、もう何年前のことだろうか。
──苦悩!
私は汚れたシャツ(★シャツ?)の内側でその言葉を繰り返す。
飛翔せる竜の如き輝きはくすんでしまった。兵が傷を受けるたびに彼の鱗は剥がれ落ち、屍の重みでもはや飛ぶことは叶わない。苦悩。そして、──と、無意識下で止めていた呼吸を思い出し、息を吐く。……そして、鶴見中尉殿。貴方が抱いた苦しみなど、貴方を苛んだ悩みなど、私はついぞ目にしなかった。傍観者の仮面で自らを押し留めておきながら、本当に見るべきものなど何ひとつ。そう。私は傍観者でした。傍観者を決め込んでいた。舞台裏を見てしまったら、俺はこのままではいられない。動物的直感でそう理解していた。
「つるみ……」
熱に浮かされたような細い声で、鯉登大尉がその名を呼ぶ。冷たい汗にまみれた顔には髪が落ちかかり、血の気が引いているのがわかる。やがてうなだれ、彼は祈りの形にもなりきらない、いびつに組んだ両の手で顔を覆い隠した。
こんなところまで見るつもりはなかった。舞台裏。あの時殺せと叫んだ哀れな子供のまま、彼は肋骨服(?★)に身を包んでうなだれている。私は知っていました。この人が人間であるのと同じように、鶴見中尉殿、あなたもまた人間であることを、私は、知っていた。神の声が聞こえるふりをしたその耳はもはや戦場の轟音に侵され、ただ一人静寂の中に佇んでいただろうことでさえ。けれど認めはしなかった。見なかった。夢を見ていた。見ていたかった。夢見る間は眠りつつ駆けた。いつかどこかへ辿り着くことを信じたかった。
ウラジオから北へと延びた鉄路はアムール川にぶつかって西へと進路を変える。いつかあの人とともに辿った行程をなぞり、夢から覚めた重い身体で私たちは進軍する。
幻を見るのだ、と大尉は言った。幻を見るのだ、あの方の幻を、と。
「うぬぼれですか」
力ない腕が私の胸元をたぐり、すがりつくようにして額を預けられる。
「今になって貴方の苦しみがわかるなどと、うぬぼれでしょうか。あの言葉の意味が、いつかあなたはおっしゃった、」
ウウ、と呻いたきり、大尉は言葉を発さなかった。力の抜けたその身体を抱きしめる。分厚い外套に阻まれた体温は伝わることはない。傷つき、地に伏した大きな生き物をいたわるようにして、その背中を撫でる。呼吸は浅く、首筋には汗がにじんでいる。けれどほんの僅かな時間ののち、彼はまた兵士たちの前に立ち竜の勇猛さで清廉なる声を張り上げるのだ。
「つきしま、……月島」
「はい」
盲人のようにさまよった手を、一度は避け、しかし、手のひらに受ける。かつて感じたのと同じ、子どもの体温だった。
朝が来る。過去にも未来にも道はなく、外にも内にも光はない。すべてのものは潰えてしまった。海を探しても見つかるものは何もなく、荒野をさすらっても同じことだ。愛する人間を地獄へと送り届けるのが自分の役目なのかと、震えるのをやめた掌を握り返して自嘲する。笑ったつもりが、どうだ、いびつに頬に皺が寄っただけかもしれなかった。卑屈なのは腹が減ったからか。眠らないからか。いや。俺は。
ランプの火が大きくゆらめき、ふっと消える。獣が身を寄せる穴蔵のような暗闇の中で、どうしてか今、樺太アイヌの少女の目を思い出していた。
国がある前に山野があり、民である前にまず人であることを許されたなら、俺たちは。考えることをやめたかった。しかし、あの人に授けられた知恵が、今の俺に獣に落ちることを許さなかった。
パチン、とかすかな音が鳴る。懐中時計を開く音だ。大尉の体が離れていく。
「お前には見苦しいところばかりだな、月島」
「……それは昔からですよ」
苦々しい笑いが耳に届く。故郷のなまりを失った彼の声は、冷たく乾いていた。
朝が来る。朝が来る。朝が来る。
おわり
ありがとうございました!暗くてすみません