「ふふ、こんなところに来るとは。迷子にでもなったか、それとも冒険にでも来たのかな」
蝉を探して入り込んだ山道の奥にあった、大きな和風のお屋敷。
そこの縁側の奥の座敷で、一人のお姉さんがゆったりと足を崩して微笑んでいた。
臙脂色の浴衣を纏った、背の高いお姉さんだ。
「どれ、こっちにおいで。こんな天気だ、ここまで来るのも暑かっただろう。冷たい茶でも出してやろう」
その言葉の通り暑さにうんざりしていた僕は、手招かれるままお姉さんのいる縁側に腰掛ける。
お姉さんはそんな僕を見て優しく笑うと、パンパン、と手を鳴らした。
すると、お屋敷の奥からする、と小さな足音だけを立てて群青色の着物を着たお兄さんがやってくる。
「呼んだか」
お兄さんのとても低い低い声。
お姉さんは微笑んだまま、ひたりとお兄さんの目を見つめた。
客人まろうどだ」
短くそれだけ言っただけで、お兄さんは軽く頷いて奥へと戻っていく。
それを見送って、お姉さんは僕の方へ目を向ける。
「君の名前は?」
「僕の名前?」
「そうさ」
頷く優しそうなお姉さんの表情に、声。
それに見惚れながら、僕は特に何も考えずに名前を名乗る。
その時どうしてお姉さんがとても綺麗な──そしてどこか怖いと思うようか笑みを浮かべたのかを、僕はまだ知らなかった。
「お姉ちゃんは、どうして外に出ないの?」
ずっと前から不思議に思っていたことだった。
それなりの回数お姉ちゃんの家に遊びに来たが、お姉ちゃんはいつも縁側の奥の座敷にいる。
こんにちは、と声を掛ければ縁側の傍までは出てきてくれるが、それでもお姉ちゃんはずっと座敷の中にいる。
だからついつい気になってそう聞けば、お姉ちゃんは少しだけ目を見開いて、それからふわ、と優しく笑った。
「私はあまり陽射しに強くない。陽の下に行くのはどうも辛くてね」
しゅる、とお姉ちゃんが崩していた足を伸ばす。
その時見えた肌に、思わず心臓がどきっと跳ねた。
薄暗い座敷の中で、ぼんやりと光って見えるほどに白い肌。
クラスの女の子にも白い肌の子はいるが、お姉ちゃんの白さとはまるで比べ物にならない。
言うなら、まるで──。
(人間の肌じゃ、ないみたいだ)
──そう思った時、またお姉ちゃんが笑う。
優しく、優しく、でもどこかぞわぞわするような表情で。
きらきらと光るお姉ちゃんの赤い目が、僕を見て、僕を、じっと、見て──。
「おい、ボン
ふと、誰かに呼び掛けられた。
見れば、お兄ちゃんがじっと目を細めて立っている。
「お、兄ちゃ、ん?」
「魚捕りの用意できたぞ。天気が崩れねえうちにさっさと行っちまおう」
「魚、捕り」
「何だ、忘れたのか?この前沢に遊びに行った時に泳いでるヤマメ見てあれが捕りたいって言ってたろ」
やれやれ、と言いたげなお兄ちゃんの言葉に、僕はああ、と頷いた。
そういえばそんな話をしていたんだ、あの綺麗な魚を捕まえてみたいって言ってたんだ。
そうと思い出せばぼうっとしてはいられない、僕は急いで縁側から庭へ降りるとサンダルを履き、お兄ちゃん早く行こう、と呼びかける。
お兄ちゃんはやれやれ、と言うように肩を竦め、靴を履くためか一度奥へと消える。
その寸前、お兄ちゃんの低い声で聞こえた
「加減してやれよ」
という言葉の意味を、その時の僕はまだ分かっていなかった。
「坊、それは」
お姉ちゃんの引きつった声が聞こえる。
お姉ちゃんの視線が、僕の体に忙しく注がれる。
そう、僕はケガをしていた。
昨日降った夕立のせいか山道が崩れやすくなっていたことに気づかずにいつものように走ってきた時、崖のようになっているところに僕が乗った瞬間に一気に崩れ、そのまま下へと落ちてしまったのだ。
運の良いことにすぐにお兄ちゃんが見つけてくれてここに連れてきてくれたから、体のあちこちが痛いこと以外は大したことはなかった。
でもお姉ちゃんはわなわなと唇を震わせると、僕を自分のいる座敷に上げてくれてお兄ちゃんにい草で編んだ枕と薄手のタオルケットを持ってこさせた。
「少し横になるといい。体をあちこち打った時は後から痛くなるときもあるから、無理をしてはいけないよ」
「ちょっと痛いだけだよ、それにほら……」
「駄目だ。休みなさい。お昼寝だと思って、さぁ」
不意にお姉ちゃんが怖い顔で睨んでくる。
今までニコニコしている顔しか見ていなかったから怖くなって、僕は大人しく畳の上に横になった。
お姉ちゃんがタオルケットを掛けてくれて、そろりと頭を撫でてくれる。
「大丈夫、大丈夫だから。こんな傷程度、すぐに良くなる。大丈夫、さぁ、良い子で、お休み……」
お姉ちゃんがそう言って撫でてくれる度、くらくらとするくらいの眠気が湧いてくる。
そうして僕は5分と起きていることができず、そのままぱったりと眠ってしまった。
目を覚ませば、いつの間にか夕方になっていた。
空がうっすらとオレンジ色になり、あちこちからヒグラシの鳴く声が聞こえてくる。
「起きたか」
声のした方を見れば、お姉ちゃんがうちわを手に柔らかく笑っていた。
どうやらずっと僕が暑くないようにうちわで扇いでいてくれていたらしい。
と、そこで僕は変なことに気づいた。
「……あれ、体、痛くない?」
体を起こしてみれば、いつの間にか肘や膝、顔にあった擦り傷や切り傷が綺麗になくなっている。
さっきまであったはずなのに、ときょろきょろ体を見回していると、お姉ちゃんがうちわを持っていない方の手でさっきのように僕の頭を撫でた。
「坊が寝ている間に体についている泥土を落とさせてもらったのだが、どうやら殆ど怪我はしていなかったようだな。本当に良かったよ」
お姉ちゃんはそう言ってそっと僕のおでこにキスをする。
一瞬後、何をされたか気づいて真っ赤になった僕に、お姉ちゃんの真っ赤な目が向けられた。
「これからはよく気をつけるんだよ。君に何かあれば、私はとても悲しくなってしまうから」
ある日の暑い昼下がり。
僕を預かってくれているホイルジャックおじさんのところに、一本の電話がかかってきた。
僕が冷蔵庫に麦茶をしまうのに手間取っている間に、ホイルジャックおじさんは電話に出て何かを喋っていたようだったがやがてこっちに顔を覗かせてにいっと笑った。
「お母さんから電話やよ」
「お母さん!」
電話に飛びつき、弾んだ声を出せば、よく聞き馴染んだ声が聞こえる。
“もう、そんな大きい声出さなくても聞こえてるわよ”
ふふふ、と電話の向こうで笑うお母さん。
“元気にしてる?最近ずっと暑いから、体調を崩していないか心配になったの”
「大丈夫!元気にしてるよ!」
久しぶりのお母さんとお話ができる、何を話そう、どんなことを話そう。
迷ってえぇと、うぅんとね、と口ごもっていた、その時。
“元気そうで良かったわ。じゃあ今はちょっと忙しいから電話切るわね。また時間のある時に掛け直すから”
その言葉を聞いた瞬間、胸がひやりと冷えた気がした。
「ぇ、と、」
“体には気を付けるのよ。暑いからってアイスばっかり食べたりしたらダメだからね。じゃあ”
ぷつ、と電話が切れる。
つー、つー、と鳴る電話を暫く聞いていた僕は、そのままガチャリと電話を置いた。
「お、電話終わったかい。お母さんは何か言っとったかね?」
ひょいとホイルジャックおじさんの顔が覗く。
僕は咄嗟に口の端を持ち上げると、とびきりの笑顔を作ってみせた。
「うん!あんまりアイス食べ過ぎちゃダメだってさ!」
そのまま僕はホイルジャックおじさんの横を走り抜け、サンダルを足に引っ掛けると外へと走り出した。
田んぼの間を駆け抜け、山道へと入り、ただ走り続ける。
やがて少しずつ周りが明るくなり、かと思えば目の前に大きなお屋敷が飛び込んできた。
玄関の前を箒で掃いていたお兄ちゃんが「坊?」と声を掛けてくるが、答えるだけの余裕はなかった。
痛くなってきた足を無理矢理動かして、僕は何とか辿り着いた。
「……どうした坊、そんなに息を切らして」
いつものように縁側の奥の座敷に座る、お姉ちゃんのところに。
お姉ちゃんの周りには、たくさんの本や巻物のようなものが散らばっていた。
「坊、どうした?何かあったのか?」
不思議そうな顔をしてじっと僕の方を見ていたお姉ちゃんはそう問いかけてくる。
と、お姉ちゃんは僕の顔を見て微かに目を見開くと本を脇にどけ、するりと両腕を広げてこちらへ差し出してきた。
「坊、こっちへおいで」
優しい優しい声。
それに僕はぎゅっと息を止めて、拳を握りしめて立ち尽くす。
お姉ちゃんはそんな僕を見て、ふわりといつもと変わらない優しい笑みを浮かべた。
「おいで、坊」
その瞬間、耳の奥、頭の中で何かが弾けた。
“元気そうで良かったわ。じゃあ今はちょっと忙しいから電話切るわね。また時間のある時に掛け直すから”
さっきのお母さんの言葉と一緒に、熱い熱い塊から喉元からこみ上げ、気づけば僕はサンダルを放り捨てるように脱ぎ捨て、お姉ちゃんの腕の中に飛び込んでいた。
ふわふわと香る、お姉ちゃんの花のようないい匂い。
その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ時、気づけば僕は泣いていた。
「どうして」
「どうして」
「どうしておかあさんは、ぼくのはなしをきいてくれないの」
「いつも、いつも、いそがしいって」
「なんで、どうして」
「ぼくのはなしも、きいてよ」
「おねがいだから、おかあさん」
「ぼくを、おいていかないで」
むちゃくちゃに胸の中にある言葉を全部吐き出す。
お姉ちゃんは、そんなぼくの言葉をずっと聞いていた。
そうして僕の中から言葉がすっかりなくなり、僕がしゃくり上げることしかできなくなった時、お姉ちゃんは僕の背中を擦りながらそっと一つ、頭にキスをくれる。
「私は聞いているよ。私は坊のお母さんではないが……それでもずっと、坊の言葉を聞いている」
優しい声だった。
僕を包んでくれるような、そんな優しい声だった。
僕はそんな声にすべてを預けるかのように、ずっとずっとお姉ちゃんにしがみついてしゃくり上げていた。
すっかり日が落ちてしまうまで、ずっとそうして泣いていた。
「ひとつ、頼み事をしてもいいかな」
お姉ちゃんのお屋敷の縁側でよく冷えた瓜を食べていると、ふとお姉ちゃんが顔を近づけてきた。
「頼みごと?」
「ああ。ほら、この屋敷の庭の隅に石が置いてあるだろう?」
すい、とお姉ちゃんが指差す先には、確かに苔のついた細長い石が草の中に立っている。
「あの置物、ずっと置いてあるから取り換えようと思ったんだが動かしてみてもどうにも目についてね。だから君に、あの置物を目立たなくなるように半分にしてほしいんだ」
それを聞いて思わずお姉ちゃんの顔をじっと見てしまった僕はきっと悪くないだろう。
「……僕が、やるの?あれ石だよね?」
お兄ちゃんとかに頼めば、と言いかけた僕の口に、お姉ちゃんの細い指がふにりと当たる。
「大丈夫。あれはもう脆くなっているから君の力でも簡単に割れるよ」
ハンマーとタガネを持って、僕は石の近くに立つ。
かさかさと草がすねやふくらはぎに当たる感覚にむず痒さを覚えた僕は、そこで早く終わらせてしまおうと石に足を掛けて蹴倒した。
どさん、と重い音を立てて転がる石。
と、その時僕は石の表面に何かが刻んであることに気づいた。
薄れて見にくくなっているが、それは確かに人のようだった。
この大きさの石に刻まれた、人。
頭の中にお地蔵様やお墓によく立ててある仏様の像がちらりと浮かび、ほんの少しの怖さがふわりと生まれてくる。
でも。
(お姉ちゃんが、やってほしいって言ったんだ)
まるで言い訳のようにそんな考えが浮かび、僕は石の上にしゃがみ込むと、タガネをごつりと石に当て、重いハンマーを振り上げ、振り下ろした。
ばかっ、という音。
人のようなものが刻まれた石は、びっくりするほど呆気なく割れた。
そして、石が綺麗に割れた、その瞬間。
低い音を立て、大地がぐらぐらと揺れ始めた。
ドドドドド……!!という音が聞こえるが早いか、足元がぶるぶると震えるように揺れ始める。
地震だ、と怖さに喉がぎゅうっと締め付けられる。
しゃがみ込んでいたせいでバランスを上手く取れず、地面に転がるように倒れ込んだ。
小さな石が掌や膝小僧に食い込んでくる。
痛い、と思うよりもどうしようもない怖さの方が勝って、ただぐらぐらと揺さぶられながら必死に草を掴んで耐えていた。
と。
ズンッ!!という凄まじい勢いで地面から突き上げられた。
冗談などではなく、体がふわっと浮き上がる。
「えっ……」
驚いたのも束の間、あっという間に体は地面に落ちる。
肘やふくらはぎに、小さな擦り傷がたくさんできた。
でも、これだけじゃ終わらない。
ズン!!ともう一度突き上げられた。
続いて、もう一度。
全部で三回、下から突き上げられて僕は散々地面を転がった。
ようやく揺れが収まっていった頃には、手足からはすっかり力が抜けて立てなくなっていた。
自分が割った石の横にばったりと横になり、僕ははあはあと大きく息を吸う。
怖かった。
とても怖かった。
何が起きているか分からなくて、痛い思いをして、とても怖かった。
そうして僕が何度も息を吸って、吐いて、胸から飛び出しそうなほどに跳ね回っている心臓を何とか宥めようとしていると──。
「……よく、やってくれた」
りん、とした声が聞こえてくる。
それと一緒に、ふ、と顔にかかってくる影。
地面に転がったまま視線を上げれば、そこには草履を履いたお姉ちゃんがいつもと変わらない笑みを浮かべて立っていた。
お姉ちゃんの後ろでは、お兄ちゃんが僕の腕を広げたのと同じくらいありそうな大きな和傘を、背中からお姉ちゃんの方に差し掛けていた。
「お姉、ちゃん、」
「こんな暑い日に働かせてしまってすまなかったな。それにいきなり地震が起こるなんて……怖かったろう」
お姉ちゃんの真っ白な腕が伸ばされて、そっと僕を起こしてくれる。
「さあ、擦りむいたところは早く拭ってしまおう。菌が入ると事だからな」
僕と手を繋ぎ、お姉ちゃんは笑う。
そんなお姉ちゃんの手を握り返しながら、僕は聞いた。
「お姉ちゃん、いいの?まだ、日、差してるよ……?」
その問いかけに返ってきたのは、いつものあの、どこか背中がぞわぞわとするような優しいお姉ちゃんの笑みだった。
「もう、いいんだ」
ボン。坊は、私のことはどう思っている?」
いつものように笑いながら、お姉ちゃんは僕に聞いた。
辺りはじわじわと日が暮れてきて、ヒグラシがかなかなと鳴き始めている。
「どう思って……ええと……?」
「坊は、私のことは好きかな?」
「……うん、大好きだよ?どうしたの、いきなりそんなこと聞いて」
「ううん。ただ、聞いてみたくなっただけなんだ」
ゆるりと首を振るお姉ちゃん。
そんなお姉ちゃんの顔を変なの、と見ていると、すうっと細くなった赤い目がじっとこちらを見つめてきた。
「ねえ、坊。坊はもしも、私や彼が迎えに行ったら、来てくれる?」
よく分からない問いかけだ。
でも、きっと迎えに来てくれるということは、またきっとたくさん遊んでくれるんだろ。
そう思って、僕はうん、と頷いた。
瞬間、お姉ちゃんは笑った。
笑って、僕を抱きしめた。
お姉ちゃんからしてくる花のようないい香りを胸いっぱいに吸い込んで、思わず顔がかっと熱くなる。
「あはは、そうか。来てくれるのか」
嬉しい、嬉しいと繰り返すお姉ちゃん。
そんなに嬉しいことなんだろうか、と思いながら抱きしめられていると、お姉ちゃんはそっと腕を緩め、僕のおでこにキスをして、優しく頭を撫でてくれる。
「嬉しいよ、坊。また近く迎えを寄越そう。たくさん、たくさん、楽しく遊ぼう」
「たくさん遊べるの?」
「遊べるとも。虫捕りも、魚捕りも、隠れんぼも、鬼ごっこも。思いつく限り、楽しく遊ぼう。だから、坊──」
どうか、もう少し。
迎えに行けるまで、もう少しだけ待っていておくれ。
お姉ちゃんのその言葉に、僕はうん、ともう一回頷いていた。
あれから三日ほどが経った、ある日。
その日もお姉ちゃん達と遊んで、日が暮れたから帰ろうと僕は山道を歩いていた。
そうして山道の入り口まで来た時、ブーン、というよく聞いた音がすると思ったらバイクに乗ったホイルジャックおじさんが僕の目の前で止まった。
「こんなところに居った!駄目だよ、ここはそう近づいちゃならん山やからね」
たしなめるように言うホイルジャックおじさんに、僕はごめんなさい、と頭を下げる。
ホイルジャックおじさんはそんな僕にええよええよ今度から気をつけてね、と言ってヘルメットを渡してくれて、ぽんぽんと自分が座っているところの後ろを叩く。
送っていってくれるみたいだ。
僕はヘルメットを被ると、よいしょ、と言いながらホイルジャックおじさんの後ろに座る。
と、その時だった。
──チリン、チリン。
シャン、シャン。
ガラン、ガランガラガラガラチリチリシャンシャンシャンヂリヂリヂリガンガンガンガラン!!
まるで夏の昼真っ盛りに鳴く蝉のような。
そんな勢いで、辺りの林の中から一斉に鈴の音が聞こえ始めた。
いきなり鳴り始めたそんな騒がしい音に、僕はひっと息を呑んでホイルジャックおじさんの背中にしがみつく。
でもそれからすぐに僕は気づいた。
よくよく見れば、辺りの木の幹には大きいのから小さいのまで、様々な大きさの鈴がぐるぐるとくくり付けてあるのだ。
(何だ、あれが鳴っただけか)
ほっと息を吐く。
怖がって損した、とほんの少し自分の臆病さに腹を立てる。
そんな僕が事のおかしさに気づくのは、そのままふと目の前のホイルジャックおじさんの顔に目をやった時だった。
「…………嘘やろ」
ホイルジャックおじさんは真ん丸に目を見開いて、山道の奥をじっと見つめている。
それと同時に、過ぎていったはずの恐怖がまたぞわっ、と背中を走り抜けた。
だって、何故なら──。
(……鈴、風もないのに何であんなに鳴ったの?)
全てを紐で結び合わされているわけでもない、そもそもよく目を凝らさないと分からないくらいに錆びて括り付けてある紐も真っ黒になるくらい古びてそう簡単には動かないだろうに、どうして鈴が一斉に鳴り始めたのか。
そのことに気がついてざあっと顔が青ざめそうになった時、ホイルジャックおじさんが鋭く叫ぶ。
「掴まっとってなぁ!!」
言うが早いか、ホイルジャックおじさんは一気にバイクを急発進させた。
ぐんっと体が後ろに倒れそうになり、慌ててホイルジャックおじさんの服を掴む。
そうして周りの風景があっという間に流れていく中、僕の視界を一瞬何かが掠める。
僕はそれを見た瞬間、あ、と小さな声を上げていた。
「お兄ちゃんだ」
山道の奥、遠くに小さくあった人影を見てそう言えば、ホイルジャックおじさんから「見ちゃならん!!」と声が飛ぶ。
その剣幕に僕は黙り込み、ただ猛スピードで家に連れ帰られることしかできなかった。
家の近くについた僕は、そのままホイルジャックおじさんに抱き抱えられるようにして三軒隣のアイアンハイドおじさんのところに連れてこられた。
「おいどうしたホイルジャック、そんな慌てて」
「慌てても何も、この子が魅入られたんよ!!」
言うとる場合か、ともはや怒鳴りつけるような勢いでアイアンハイドおじさんに言葉を返せば、アイアンハイドおじさんもざあっと顔色を変えてズボンのポケットから携帯を引っ張り出す。
「ラチェット!!違う飯の話じゃない!!魅入られた奴が出た!!そうだ、声掛けられる奴全員声掛けて集めてくれ!!」
普段とはまるで違う剣幕のアイアンハイドおじさん、そして僕をアイアンハイドおじさんの家の仏間の真ん中に座らせて扉や窓を片っ端から閉めているホイルジャックおじさんを見て、どうしようもない不安がぐるぐると胸の中に湧いてくる。
そんな僕を置き去りにするように、アイアンハイドおじさんの家には続々と集落の皆が集まってきた。
ラチェットおじさんも、ハウンドお兄ちゃんも、プロールおじさんも、ジャズお兄さんも、クリフジャンパーくんも。
皆が集まってきて、僕に大丈夫だからなと声を掛けながら仏間に集まり、ある人は廊下に出てずっと怖い顔をしている。
僕は遂に怖くなって、そっと隣に座っていたクリフジャンパーくんに耳打ちをした。
「ね、何でこれこんなことになってるの……?」
何も分からない、どうしてこうなっているんだろうと隣りにいたクリフジャンパーくんに打ち明ければ、クリフジャンパーくんは僕の頭をくしゃくしゃと撫でてきた。
「お前はな、魅入られちゃったんだ。それでこのままだと連れてかれちまうからそうならないように守ってるんだ」
「魅入、られ……?」
聞き馴染みのない言葉が上げられ、僕は首を傾げる。
「魅入られるって、誰に……?拐われるって、どうして……?」
クリフジャンパーくんの目を見ながら、僕はそう口に出す。
分からない、何も分からないことだらけだ。
「大丈夫だ。この家の扉も窓も全部閉めてあるから変なものは入ってこられないし、入ろうとしても基本的に中から誰かが招かないと入ってこれねえから……」
と。
クリフジャンパーくんの声を遮るように、とんとん、と玄関の扉が叩かれる。
「あ?誰だ!オプティマスか!?」
「いやオプティマスはあと三十分くらいかかるって言ってたぞ。プロールんとこの誰かじゃないのか」
アイアンハイドおじさんとラチェットおじさんがそう言いながら、ふい、と玄関に視線を向けている。
すると──。
「……お迎えに、上がりまして」
──低く、静かな声がした。
僕にとっては、とっても聞き馴染みのある声。
その声に引っ張られるように、僕が仏間から駆け出して玄関の方を覗けば、そこには。
「お兄、ちゃん」
玄関先で胡座をかき、拳を膝の前について深々と頭を下げるお兄ちゃんが扉の摺りガラス越しに見えた。
「お兄ちゃ、」
「ダメだ入ってろ!!」
クリフジャンパーくんが怒ったように手を引いて仏間に僕を戻そうとする。
でも僕はお兄ちゃんがどうしてそこにいるのか分からなくて、何が起きているのか聞きたくて、お兄ちゃんの元へ駆け寄ろうとした。
しかし。
クリフジャンパーくんに加えてアイアンハイドおじさんやプロールおじさんまでもが「来ちゃいけない」と口々に言いながら僕を仏間へ戻そうとする。
すると。
「坊!!」
声が響いた。
「あいつから聞いているだろう、呼べ!!」
よく響くお兄ちゃんのその声に誘われるように、ふと、僕の頭の中にちょっと前のやり取りが浮かんでくる。
“いいか、坊”
“もしかしたらこの先、困ったことが起こって私達の力が必要になるかもしれない”
“どうしようもなく心細くなって、誰かに傍にいてほしいと願うかもしれない”
“そんな時に私達の力を借りられる、とっておきのおまじないを教えてあげよう”
“なに、難しいことじゃないさ。方法はとても簡単だ──”
“──助けてほしい時、私達の名前を。そして「来てくれ」と叫べばいい”
まるで雷が閃くように頭の中に蘇ったその言葉を、僕はほんの少し頭の中で繰り返す。
そして仏間に押し込まれる寸前、僕はぐっとお腹に力を籠めて、喉が痛くなるくらいの声で叫んだ。
「──ドロップキック!!こっちに来て!!」
瞬間。
玄関の扉が吹き飛んだ。
そしてとっ、と小さい音がしたかと思えば、まるで忍者のような服を着たドロップキックお兄ちゃんがまるで猫のように軽やかに飛び込んできた。
そしてまるでお姫様抱っこをするように優しく僕を抱え上げ、懐から大きな着物のようなものを取り出す。
それを僕にばさりと被せると、一気に床を蹴った。
一瞬、ふわっと浮くような感覚が体を包む。
かと思えばガシャン!!という甲高い音が響いた。
被せられた着物でよく見えないけれど、恐らく庭に面した窓を体当たりで割ったんだろう。
そのままふわり、ふわりと二、三回体が浮くような感覚があった後、とん、と地面に着地したらしいドロップキックお兄ちゃんはすごい勢いで走り始める。
僕はその脚の速さに驚きながら、落ちないようにドロップキックお兄ちゃんの着物の胸元をぎゅっと掴んだ。
“この家の扉も窓も全部閉めてあるから変なものは入ってこられないし、入ろうとしても基本的に中から誰かが招かないと入ってこれねえから……”
──ふと。
クリフジャンパーくんが言っていた言葉が、ぼんやりと頭に浮かぶ。
その言葉と、先程僕が叫んだ言葉。
二つが合わさって、何か気づいてはいけないことに気づいてしまいそうになって、僕はぎゅっと目を閉じた。
ドロップキックお兄ちゃんに抱えられて連れてきてもらったお屋敷の庭は、あちこちに置いてある灯籠に灯りが点されていてとても綺麗だった。
いつもよく見ていた昼間のお屋敷とはまるで違う雰囲気に暫くぼうっとしていると、ドロップキックお兄ちゃんがそっと僕を玄関の前に下ろす。
「上がれ。奥で、あいつが待ってる」
初めて上がらせてもらったお屋敷の中には、蛍光灯なんかの電気で点く灯りが全くなかった。
その代わりにあるのは、鉄製の背の高いろうそく立てだ。
一定の間隔で両横に置かれているそれには、花や金魚の絵が描かれた大きなろうそくが立てられていて橙色の穏やかな炎を揺らしている。
それに導かれるように、僕は奥へと進む。
板張りの廊下が、微かにキ、キ、と鳴る音がした。
と。
奥の方まで来た時、それまでずっと両横に均等に並べられていたろうそく立てが途切れた。
あれ、と思って真っ黒な暗闇に沈んだ廊下の奥を見ていれば、バッ!という音を立てて横にあった火のついていないろうそく立てに火が灯る。
「っ!?」
驚いて後退る。
火が灯ったろうそく立ては、大きな襖を挟むようにして置かれていた。
まるでここに入れ、と促しているようで、僕はただ息を呑んでその場に立ちすくむ。
すると、襖の向こうから、静かな声がかかった。
“────おいで、坊”
お姉ちゃんの声だった。
その声に引っ張られるように、僕はするりと襖を開ける。
廊下の奥にじっとりと広がる暗闇から逃げ出すように。
入った部屋は、いつも縁側から入らせてもらっていた座敷が丸ごと二つは軽く入ってしまいそうなほどに広いお座敷だった。
ここならきっと二、三人で鬼ごっこをしても、余裕を持って逃げ回れるだろう。
部屋のあちこちにはここまで置かれてきたものと同じようなろうそく立てが置かれ、ぼうっと部屋を橙色に照らしている。
そんな中で、僕はある一点にすうっと視線が吸い寄せられていた。
それは、部屋の奥。
部屋の奥の一段高くなっているところが、すだれのようなもので仕切られている。
その奥にお姉ちゃんとおぼしき影があるのだが、だが。
「……お姉、ちゃん?」
“何かな、坊”
「そこにいるの、お姉ちゃん?」
“そうさ”
「……ねえ、お姉ちゃん」
“うん?”
「お姉ちゃん、そんなに大きかったっけ?」
確かにお姉ちゃんの声はしていた。
だからきっとあのすだれの向こう側にいるのはお姉ちゃんなのだろう。
でも、それにしては。
それにしては、あまりにも影が大きすぎた。
確かに元からお姉ちゃんは背が高かった。
学校の先生よりも、近所のお姉さんよりも背が高かった。
でも、だからといってホイルジャックおじさんが持っている軽トラよりも大きな影がゆらゆらと映るなんて、どう考えてもおかしい。
「お姉ちゃん、ほんとにそこにいるのお姉ちゃんなの……?」
ぽつり、と聞く。
すると、一瞬辺りが静まり返った後にしゅる、とすだれが上がり始めた。
“あぁ、そうさ”
“ここにいるのは、ここに座しているのは”
“紛れもない”
「私だとも」
お姉ちゃんが最後の言葉を言ったのとほとんど同時に、すだれが上まで上がりきる。
でも僕は、何も言えなかった。
本当だったらお姉ちゃんの姿を見てああよかったお姉ちゃんだ、と安心するべきなんだろうけど、ちっとも安心なんて──それどころか、目の前にあるものをきちんと理解することも、できなかった。
そこにいたのは、お姉ちゃんであってお姉ちゃんではなかった。
腰から上の大まかな形は確かにお姉ちゃんだった。
形は、と言ったのは大きさがどう考えても普通ではなかったからだ。
僕がよく知っているお姉ちゃんは、少し背が高い女の人だった。
でも今目の前にいるお姉ちゃんは、腰から胸元だけで既に僕の身長と同じくらいの長さがある。
手なんて僕の頭を丸ごと包んでしまえそうなほどに大きい。
でも、そんな大きさなんて大した問題じゃないと思ってしまうほどに、その他の姿はおかしかった。
まず一番目を引いたのは、お姉ちゃんの腰から下だった。
お姉ちゃんの腰から下は、脚なんて影も形もなくなっていて、その代わりに化け物がくっついていた。
大きな大きな、胴回りが家の近くの杉の木くらいありそうな、蛇の体。
暗い中できらきら光っているような、一枚が僕の小指くらいありそうな巨大な赤色の鱗に包まれた蛇の体が、ぐるりととぐろを巻いていたのだ。
そして、お姉ちゃんの真っ白な肌。
あの人間じゃないような肌には、ずらりと鱗が張り付いていた。
首筋から肩、腕の表面、ちらりと見える背中から腰にまで。
腰から下の蛇の体と同じ色の鱗が、びっしりと張り付いていた。
「坊……」
お姉ちゃんが、僕がよく知っていてそして全然知らないお姉ちゃんが、背中の翼──トンビのような先の羽が僅かに開いた翼を広げてよく聞いたお姉ちゃんの声で僕を呼ぶ。
「ようやく、ようやくだ……ようやくお前を──れるんだ……」
ジジ、とどこからか入った蛾がろうそくの炎に焼かれて落ちる。
お姉ちゃんはそれには目もくれず、ずるり、とこちらに近づきながらじっとこちらを見つめてきた。
「坊」
呼ばれる。
その声に何も返事を返さずにいると、お姉ちゃんは少し寂しそうな顔をした。
「坊。私のこの姿は、怖いか」
静かな声で、お姉ちゃんが言う。
「いいや、聞くまでもないな。きっとこの姿は、坊にとっては恐ろしいだろう。こんな、ひととはもはや呼べない姿など」
だが、
「これが、これこそが私の本当の姿だ。化け物に食われて化け物を食った女の姿だ。南の山の主、シャッターの真の姿だ。この姿になれば、この姿であれば、私は、私はようやく────」
────君を、何者からも守れるんだ。
そう言った瞬間の、お姉ちゃんの表情。
その切なそうな、悲しそうな、でも嬉しそうな表情を、僕はきっと一生忘れることはないだろう。
「坊……」
か細い声で、お姉ちゃん────シャッターお姉ちゃんが、僕を呼ぶ。
「どうか、どうかこちらへ来ておくれ。私を拒まないで、どうか、拒まれたら最後、きっと私はこの手で君を縊ってしまう……」
シャッターお姉ちゃんの腕が伸びる。
腕の先にある鋭い爪の生えたその手に僕は僅かに身震いをしながら────でも、無我夢中になってその腕の中に飛び込んだ。
は、とシャッターお姉ちゃんが息を詰まらせる。
僕はそんなお姉ちゃんの目をじいっと下から見上げた。
「シャッターお姉ちゃん。僕、来たよ。怖くなんてないよ。どんな格好になっても、お姉ちゃんが大好きだよ。だからそんな顔しないでよ。悲しい顔してると、良いこととか、楽しいことがみんな逃げていっちゃうよ」
喉の奥から、押し出すようにして出した言葉。
ほんとは怖い、怖くないわけがない。
でも、お姉ちゃんが大好きだっていうのは本当だった。
だから、大好きなお姉ちゃんに悲しい顔なんてしてほしくなかった。
それに僕は知っていた。
どれだけ姿が恐ろしくても、その正体は優しい優しいお姉ちゃんに変わりないということを。
だから僕はじっとお姉ちゃんを見つめて、ぎゅうっとお姉ちゃんを抱きしめる。
この姿になると着物が着られないのかシャッターお姉ちゃんは何にも着てなかったから抱きしめる度にお姉ちゃんの花のような良い匂いがしてきてとても恥ずかしかったが、それでもぎゅうっと抱きしめ続ける。
ただ、僕はここにいるよ、怖くないよ、と伝えるために。
すると。
「……あぁ」
小さな溜め息のような声と一緒に、シャッターお姉ちゃんの腕がぐるりと回ってくる。
ほんの少し抱きしめられただけで、すごい力だってことが分かった。
きっと僕の背骨なんて、少し太い木の枝を折ってしまうような感覚で折ってしまえるんだろう。
でも、シャッターお姉ちゃんはそんなことは全然しなかった。
ただ、僕をしっかりと抱きしめて、背中の翼でふわりと包んでくれていた。
「もう離さない。離せない。ずっと一緒にいよう。絶対に寂しい思いなんてさせない、苦しい思いも、痛い思いもさせない。ずっとずっと、私と、ドロップキックと、坊で、楽しく楽しく遊ぼう」
ずるり、ずるりとシャッターお姉ちゃんの腰から下────大蛇の体が僕を取り巻いていく。
僕はもう皆のところには帰れないんだな、と思いながら、それでもぎゅうっとシャッターお姉ちゃんを抱きしめた。
(お母さん、それに村のみんな。心配かけてごめんね。でも、僕は、ずっと、ここにいるよ。ここに、いたいんだ)
とある夏の日。
小さな集落から、男の子が一人姿を消した。
ここで一旦締めます、見ていただいてありがとうございました!
カット
Latest / 30:54
カットモードOFF