ある日のことだ。
私の暮らしていた里の近くに、巨大な黒い蛇が現れた。
それこそ今の私ほどに大きい、大きな大きな年経た蛇だ。
その蛇は来て早々里の者にこう言った。
“次の満月の晩までに国司の娘を寄越せ。あれを寄越せば、己はこのまま立ち去ろう。だが寄越さぬなら、この里の年頃の子を一人残らずもらう”
と。
里の者は恐れ慄き、我先に私の母の元へ駆け込んだ。
貴女ならあれしきの蛇、すぐにでも斬り伏せてしまえるだろうと、そう口々に言っていた。
だが蛇は狡猾だった。
その時ちょうど母は月に一度ある、力を失う期間の真っ最中だった。
母は果てない強さを持つ代わりに、月に一度、数日に渡って力を失う。
その間は悪しきものを狩るどころか、起き上がることすら億劫になる有様だった。
そして折悪く……いや、恐らく蛇は狙っていたのだろうが、母の力が戻るのは蛇の指定した満月の晩という刻限の直前だった。
だがそれでも母は言っていた、“私が必ずその蛇を斬り伏せる、だから皆は決して蛇に近づかないように、そして蛇の言うことに耳を貸さないように”と。
勿論、里の者はそれに従った。
でもね、坊。
人の心というのは時にとても脆くなる。
自分の大切なものが危機に晒されるとなれば、尚更。
母が里の者に言いつけを出してから数日。
黒い蛇は田畑を耕しに行く里の者達に頻りに声を掛けていたようだった。
勿論、皆は蛇の言葉を聞きはしない。
そのまま知らないふりをして田畑に向かっていた。
でも二日経ち、三日経つうちに、一人、二人、と足を止める者が現れてしまった。
……ん?蛇がなんと言っていたのかって?
あぁ、奴は頻りにこう言っていたんだ。
“お前達が頼りにしているあの女は、俺の力に臆している”“他のあやかし狩りでも敵わぬ俺を倒せぬと踏んだあの女は、我が子を助けるためにお前達の娘を見殺しにしようとしている”と。
勿論、母は臆してなどいなかった。
力を失い、床に臥せりながらも静かに闘志を燃やしていたさ。
でも里の者達はそんな母の様子を知ることなんてできなかった。
加えて、蛇の体には数々の霊剣霊刀の破片が突き刺さっていた。
そんなものを突き刺されてまだ生きているのだから、本当にこの蛇は強い蛇だと里の者達は思ったのだろう。
そうして日が経つにつれて、徐々に蛇の言うことは本当なのでは、このまま自分の家の可愛い我が子は国司の娘の命と引き換えにされてしまうのでは、と思う者が出始めた。
一度出始めてしまえば後は早い。
里の者達は蛇が現れてからずっと怯えていた。
そこにそんな煽情的な噂が流れれば、火が点くのはあっという間だったさ。
それにその時蛇に言われたことを問い詰めようと屋敷に押し掛けてきた連中もいてな、あまりの剣幕に父が警備の者を呼んで半ば無理やり屋敷から出させたのもまずかった。
これによってやましいことがあるのでは、という里の者達の疑念はあっという間に膨らんだようだった。
……うん、ここまで言えば、坊にも何となく察しはついただろう。
そう、私は里の者に拐われた。
満月の直前、あと数刻で母が力を取り戻すという時に、ほんの一瞬庭に出たところをあっという間に拐われた。
そしてそのまま、村の外れで待っていた黒い蛇の下へ連れていかれ、その大きな口に放り込まれたのさ。
蛇の腹の中は地獄だった。
そこに放り込まれた人間は、ゆっくりと体を溶かされながらも死ぬことはできず、全身の外側を失った状態でいつまでもいつまでも精気や霊気といったものを搾り取られ続ける。
私もその例に漏れなかった。
何せ私の父方は海の向こうの化け物と婚儀を交わした家系、母方は代々鬼道を用いる巫覡の一族の末だ。
そりゃあ精気や霊気を得るのには事欠かなかっただろう。
……恐らく、蛇もこれが目当てだったのだろう。
私一人がいれば当分危ない獲物探しをせずに人の来ぬ深山に籠もることができる。
事実私を食ってからその後百年ほどは、その蛇は誰も食ってない。
それだけ良質な餌だったんだ、私は。
だから策を弄し、里の者を言いくるめて見事私を腹に収めた。
……収められた私にとっては、最悪以外の何物でもなかったが。
坊は想像できるだろうか、全身の皮を溶かされ、そこへ隙間なく針を突き立てられ続けているような激痛を。
加えて息ができず、何とか空気を吸おう、叫ぼうと口を開ければどぶりと辛い液体が入ってきてまた喉を、腹を焼く。
目なんてまるで見えなくて、手足を動かすことすらできなくて、でも、そんな状況でも死ねないんだ。
死にたいと思った。
ずっと、ずぅっと思ってた。
こんなに痛い思いをするなら誰かに殺してほしいとすら思った。
……でも、何度そう思ったときだったかな。
激痛の中で、ふと昔の光景が脳裏に浮かんだ。
何でもない日常、かかさまとととさまがいて、私がいて、たくさん笑っているだけの光景。
それだけの光景だけど、私の苦痛を遠ざけてくれるには十分だった。
その光景を見た瞬間、私はどうしようもなく帰りたくなったんだ。
あの里へ、大好きなかかさまとととさまのところへ。
でも帰りたいと思っても、私は帰り方なんて知らなかった。
そりゃあそうだ、十になるかどうかというような女童が大蛇に呑まれて帰る方法を知っていたらそれこそ驚きだ。
だからどうしたかというと……どうしたと思う?
分からないか、まあそうだな。
正解はな、齧ったんだ。
そう、中から。
大蛇の腹を。
いつか齧り続ければ大蛇の腹に穴が開いて、そこから出られると思ったんだ。
子供らしい、よく分からない発想だろう?
でも、あの時の私にとってはそれだけが心の支えだった。
だから芋虫のように這いずり、蛇の腹に体が当たると、とにもかくにも噛み付いて、少しずつでもいいから肉を齧ったんだ。
いつか、外に出られることを夢見て。
長い、長い時間、私は蛇の腹を齧り続けた。
齧って、齧って、そのうち齧ったところが癒えていることに気づいて絶望して。
それでも帰りたくて、こんな場所にいたくなくて、ひたすら齧り続けた。
そうしていると、少しずつ私の体に変化が起き始めた。
痛みが少しずつではあるが引いていき、指先がよく動くようになり、そして溶けて何も見えなくなってしまったはずの目に、ぼんやりとした光が見えるようになった。
私も最初不思議だったよ、でも今なら何となく分かる。
私の中に流れる父祖の血……そこに混じっている化け物の血は、世代を重ねる毎に人の血に押さえ込まれるようにして眠りに就いていた。
そこに突然人ならざるものの血と肉が大量にやってくれば、それを呼び水として励起したとしても不思議ではない。
言うなればあの時の私は、遠い先祖の化け物の血を呼び起こされて少しずつ人間ではなくなっていたんだろうな。
でも当時の私はそんなことなど露知らず、ただ以前よりはましになったがそれでも全身を苛む苦痛から逃れるようにして辺りを齧り散らしていた。
そうしてぼんやりと見えていた、光の塊を齧った時。
確かに私を呑んだ蛇が、苦痛を感じ取ったことに気づいたんだ。
最初はわけが分からなかったが、確かめてみたくてもう一度光の塊を齧った時、確かに蛇は呻いた。
同時に、私の視界がいつもよりもう少し開けた。
その時私の目に飛び込んで来たのは、私に齧られてぼたぼたと血を流す蛇の臓腑だった。
苦痛の声を零すのもさもありなん、臓腑を齧られて逆に平然としている方が気味が悪い。
私は暫く惚けていたが、その時、ふと自分の胸の内には『帰りたい』という感情の他に、何かもう一つ別の、果てしなく大きな感情があることに気づいた。
正体は分からない、でも今にも胸から噴き出しそうなそれ。
それの正体は、蛇の臓腑をもう一噛みした時にはっきりした。
“……っ痛い、痛いぃ……!頼む、やめて、やめてくれ……”
その声を聞いた瞬間、私の中を『それ』は突き抜けた。 突き抜けて、爆発して、全身に染み渡った。
……『それ』の正体は、どうしようもないほどの『憤怒』だった。
平和な暮らしを、優しい両親との暮らしを奪った蛇への怒りだった。
そう自覚した瞬間、私は目の前の臓腑に食らいつき、食い千切った。
蛇が悲鳴を上げるのも構わず、目についたすべての臓腑を、肉を、私は噛んで食らった。
家に帰して、殺してやる、そんなことを思いながら、私はひたすら蛇を体の内側から食い続けた。
そのうち蛇の命乞いの声のようなものが聞こえ始めたが、それでも構わず食らい続けた。
そして、どれほどの時間が経った頃だろうかな。
気づけば私は、蛇の体の中を全て食らい尽くして、内側から喉を食い破って外界へと転げ出ていた。
蛇はもちろん死んでいたよ、内臓をすべてなくして、哀れな皮だけの姿になっていた。
そして私の姿も、元の姿とは大きく異なっていた。
体の肉の大半が蕩けていた状態でずっと蛇の肉を食い続けたせいか、私の半身は蛇になっていた。
そして父祖の血のせいか、蛇にはなかった翼が、私の背中ではためいていた。
そうだな、あの時の私は大きさが違うだけで姿形は今と殆ど変わらない姿だったよ。
でもこんな姿でもきっと両親は私を迎えてくれるはずだ。
そう思って、私はその場を離れた。
大好きな両親の下へ、帰るために。
そこからの旅路もそこそこ長かったのだが、如何せんその頃から私はだいぶ強くてな。ただの獣には負けなかったし、人ならざるものも私を見れば逃げるようなものが大半だった。
そうして、地面を慣れぬ蛇体で這いずること半年。
私は何とか故郷に帰り着いた。
でも、私は絶句した。
私が知る故郷は、秋には一面が黄金の稲穂で覆われる、豊葦原ここにありとばかりに恵み豊かな地だった。
だが、私の目の前に広がるのは腐ったような泥土と枯れた草木が風に微かに揺れるだけの光景。
地獄もかくやもばかりに荒れ果てた風景が、そこにはあった。
訳が分からなかった私は、里の方へ向かった。
こんな有様では税の前に里の者達が食う分があるかも怪しい。
そうなれば一体何人が飢えで命を落とすか。
そう思って里を覗きに行った私が、見たのは。
……一面。
一面焼けて、落ちた、里の残骸だった。
本当に、自分の頭がおかしくなったのだと思った。
田畑は腐り、里は燃え落ちていて、私の知る里はどこにもない。
一体何が、と辺りを見回していたその時、ふと私の目に里の残骸の上に座る一人の老婆が飛び込んできた。
真っ白な髪の、今にも風に吹かれて消えてしまいそうなその老婆は、だが私の家で下働きをしていた少女の面影があった。
意を決してその少女の名を呼べば、老婆はハッとして私の方の方を向き、悲鳴を上げたかと思えばぽかんと呆けていた。
ひめさまですか、と何度も歯の抜けた口で繰り返していた。
私がそれに頷けば、老婆はわっと泣き出した。
そして私の足元に身を投げ出し、泣きじゃくりながら、事の顛末を語ってくれたよ。
あの日、私が拐われた後。
母は力を取り戻し、いざ蛇を退治せんと用意を整えていた時に私がいないことに気づいたらしい。
そして直に蛇の高笑い混じりの言葉で事の次第を知り、怒りに我を忘れて蛇を追った。
だが、蛇は手練だった。
とはいえそこまで強かったわけではない。
あの黒い蛇は、逃げ隠れするのが誰より、何より上手かった。
だから私を食い、力を得て、怒り狂う母の追撃すら振り切った。
母は蛇の姿が見えなくなった後、三日四晩天地が裂けそうな声で泣き叫んだらしい。
そして四日目に、母は里へ帰ってきた。
……里の者は、私を拐った下手人のことはみんなで伏せておこうと示し合わせていたらしい。
下手人は皆のために危険を犯したのだし、それに全員が黙っていればとてもではないが疑わしいもの全てを罰することはできないだろうと。
確かにそれは当たっている、疑わしいもの全てを罰するなんて狂った行い、普通はやるものはいない。
だからこれも上手くいくはずだった。
──相手が自分の言葉を信じなかった里の者達に我が子を奪われ、身も心も鬼神と成り果てた母でなければ。
その日、里に帰って来てから日が暮れるまで、母は待っていたらしい。
下手人が名乗り出るのを、或いは、下手人を誰かが引っ立ててくるのを。
だが誰も来なかった。
この瞬間、母は本物の鬼になった。
日が暮れ、闇が辺りを覆うと同時、火を纏った巨大な矢が里の者の家の柱を打ち砕く勢いで突き立った。
一本だけではなく、次々に。
そうして大半の家が火矢に家を壊されて人々が外に出てきた時、一騎の鎧を纏った鬼神がその場にいた全員を斬り殺した。
男も女も、老いも若きも、一切合切の区別なく。
たちまち辺りは恐慌状態に陥ったが、鬼神はそんなものは一向に意に介さず、丁寧に一つずつ、命を潰していった。
農具を持って立ち向かってくる者も、逃げる者も、怪我をした子を抱えて何卒この子だけはと願う者も。
その全てを、ただ「娘を返せ」と吼えながら殺し、焼き払った。
そうして最後は「お前にすべての業を負わせるものか」と言った夫に腹を刺され、自身も夫を斬り、娘を奪った全てへの呪詛の言葉を吐いて、事切れたと。
……笑える話だろう。
私が帰りたいと願う遥か前に、私が帰りたい場所はなくなっていた。
私を愛してくれたかかさまとととさまは、私を愛していたが故に狂って、全てを壊して死んでしまった。
まったく、笑える話だ。
ああ、そうだよ。
ここまでが、私が怪異になったわけだよ、坊。
カット
Latest / 124:00
カットモードOFF
01:39
アイザリス
いらっしゃいませ(∪˘ω˘)
15:39
妖光キリオ
お邪魔してます(o_ _)o
16:01
アイザリス
どうぞどうぞ、ごゆっくり(U'ω')
45:22
アイザリス
今書いてるのは下書きみたいなやつなのでそのうちまたどっか書き直します(U'ω')
122:54
アイザリス
とりあえず書きたいとこ書けたので今日はここまでにします!
チャットコメント