初めて見る表情だった。
 少し宙を彷徨う虚ろな目。薄く開いた唇。だらしなく崩した表情。
 そして、滝のようにという比喩が的確なほど流れている汗。
「燈子……」
「……ごめん」
 呆れが口から溜め息となった出ると、ぐったりとベッドで横たわってる燈子は恥ずかしそうに目を逸らす。
「別に謝らなくていいから」
「ごめ……あ、うん」
 だいぶ朦朧としているらしい。声の艶張りもなくなってしまってる。
 もう一度吐いた溜め息は、ごうごうと音を立てながら急ピッチで部屋を冷やしているエアコンの音に呑み込まれた。
 暦ももう文月となった。未だ梅雨と夏が曖昧な時期。とはいえ例年気温が急上昇してくるのもこの辺りだ。
 いつものようにチャイムを鳴らしても返事のない宿主。予定があったという話は聞いていないし、連絡もなかった。SNSの既読も付かない。電話も出ない。
 もしかして、と合鍵を使って無断で侵入。2DKあるいいとこマンションの奥にある寝室へとズカズカ押し入ると、むわっとした熱気と外で猛威を揮っていた太陽光、そしてベッドで汗だくになって寝ていた先輩の姿があった。
 慌てて揺さぶり意識の有無を確認。一応ほんとに寝てはいたようで、自分がどういう状況に陥っていたのか気付いていなかった。とにかく横になるよう命じてからコップに水を注いで差し出し、エアコンを付けて扇風機をベッドの前で回しカーテンを閉め、近くのドラックストアに駆け込んで氷枕と冷感タオルなどの対策セット、それと冷蔵庫になかった経口補水液を購入。
 戻ってきてそれらの対策を全部施し終えて、少し体力が戻ってきたようだったので、当然の如く事情聴取が始まる。
 曰く、
「昨日の夜涼しかったから扇風機もエアコンもいいかなって思って……」
 曰く、
「今日の気温確認してなかった……」
 曰く、
「侑が来るの楽しみで寝付けなくて、寝る前にチューハイ呑んでた……」
 見事な役満。そりゃあ心配も引っ込んで呆れ顔の一つや二つもしたくなる。
 詰まるところ、軽度の熱中症。早期発見できたからそれで済んだようなものだろう。
「ひとまずそれ飲んでて。飲める?」
 手渡した経口補水液があまり減っていないのを見咎めると、燈子は横になったままペットボトルに口を付ける。飲み慣れない姿勢だからだろう、口の端から零れた水が肌を伝い、汗と混じっていく。
 もう一度溜め息を吐く。今度は安堵のものだった。今日偶々来る日だったからよかったものを。
「とりあえず今日は一日安静ね」
「えー」
「えーじゃない。自業自得」
 全く、とぶつくさ言いながら、リビングからクッションを持ってきてベッドの傍に居座る。ついでに置きっ放しにしてた積み本を読むことにする。
 ふざけてごねてたとはいえ、それ以降燈子はなにを喋るでもなく、しばらくすると吐息が規則正しくなってきた。いくら軽度とはいえ熱中症だ、体力を消耗してるはずだし当然だろう。
 折角だし、ご飯は精の付く物を作ってあげよう。軽く献立の目途を立てながら、本を読む。
 /
 燈子が目を覚ましたのは、すっかり陽も昇り切り、少しずつ落ちてきていた頃だった。
「わ」
 開口一番、時間を見た燈子がそう驚きの声を上げる。続いて寝る前のことも思い出したようで、また頭を下げてきた。
「ご飯どうする?」
「今はあんまり。夜はちゃんと食べる……、あ」
 倦怠感とかはいくらか残ってるようだけど、声の張りはすっかり戻っていた。
「ねぇ侑、アイスあったよね?」
「あったけど」
「食べていいかな」
「そりゃ別にいいけど」
 元気っぽいけども一応病人なので、わたしが取りに行く。すっかり体が冷えてしまっていたから、冷房の付いていないリビングの空気が焼き付けそうになる。冷凍庫の中にはさっき買ったばかりの対策グッズと何種類かのアイスが詰まっていた。
 食べるのが比較的楽そうな棒アイスをチョイスして寝室に戻ると、燈子はベッドの縁に座っていて、わたしを見るなりぽんぽんと隣を示した。
 溜め息を吐きながら、言われたままに隣に座ると、燈子は私の太腿に寝転がる。
「どっちがいい?」
「じゃあオレンジで」
「零さないでよ」
 包装を破いて手渡すと、燈子は嬉しそうにアイスを口にした。
 わたしも一口。美味しさや冷たさの快感よりも先に、肌寒さを感じてしまった。ちょっとエアコンの温度を上げる。
「昔さ」
 ふと、燈子が言葉を発した。
「アイスとかあんまり食べちゃだめって言われてて。食べられたのは風邪引いた時とかだったから、特別感あったんだ」
「そうなんだ?」
「中学入ったら普通に食べてもいいことになってさ、今思うとなんでなんだろってなるけどね。昔はそれと、お姉ちゃんがこっそり買ってくれたりって時くらい。だから、懐かしくなっちゃって」
「そっか」
「うん。やっぱり昔みたいな感じはないなぁ。懐かしいけど」
 燈子の頭が動く度に、しゃり、しゃり、と小さな音が聞こえる。少しずつ太腿が冷えてきてるのが不思議と面白かった。
「ウチは特にそんなことはなかったかな。アイスはファミリーパックで置いてた」
「へー」
「あーでもお盆とかで親戚の人が来た時はハーゲンダッツ食べれたから、特別感あったのだったらそれかなぁ」
 確かに思い出すと懐かしい気分になる。今では食べたければ帰るから、そういう特別感は薄れてしまってるけれど。思い出補正という奴なのだろう。
「あれ、なかったっけ?」
「あったけど、今日はいいの」
 アイスを食べるのを中断して見上げてくる燈子に、わたしはそう言った。
 燈子はきょとんとするように一度二度、まばたきをして。
 ふ、と表情を緩めた。
「なーに? やらしい想像でもしてた?」
 懐かしい、表情。懐かしい、言葉。
 棒アイスと扇風機の音に紐付けられ、懐古の念が香る。
「……今日は一日安静。オーケー?」
「あ、うん。分かってます。はい」
 真面目に返されると思わなかったのか、燈子はたじたじだった。
 全くもう。
「ただ、その、なんて言うか」
「うん?」
「キスだけでもいいんだけど……だめ?」
 ねだるように、上目遣いで訊ねてきた。
「溶けてるよ」
 指摘すると、燈子は慌ててアイスにかぶり付く。わたしも同じようにして、頭を冷ました。
「また熱中症なられても困るんだけどなぁ」
「それなら大丈夫」
「なにが?」
「侑とキスする時、いっつもそうなるから」
 甘味ににじみ出た唾液を、こくりと呑み込んだ。
「貧血?」
「そうかも?」
 からかってみても、燈子は緊張こそしてる様子だけれど怖気付いてはいない。むしろ、挑発するような目でわたしを見ている。
 ……全く、この人は。
「キスだけですよ」
「うん」
 仰向けに居直った燈子の顔が、視界に広がっていく。
 静かに、音をなくして、わたしは唇を落とす。
 グレープの味に、オレンジの味が雑ざる――それ以外の味も。
 どれくらいそうしていただろう。わたしは顔を持ち上げる。
 燈子の頬が赤らんでいるのは、熱中症だけが理由ではないはずだ。
「……冷たい」
 静寂に沁み込むようにわたしが小さく笑うと、燈子も声を出さずに微笑んだ。
「侑、手慣れてたね」
「一応、元運動部だったからさ。対策は一通り知ってる」
「中一の時は初心者だったから半分マネージャーみたいな感じで、倒れた部員の世話も何回かしてたしね。菜月も何回倒れたんだか」
 燈子は暑いのがあまり好きではないらしい。
 基礎体温が高いからなのかなんなのか、とにかく暑いのはいやだの一点張り。
 それを知ったのは付き合い始めてから初めての夏の時だった。夏休みの間、いつだか燈子が言っていたアウトドア的なことをやる中で、それまで見たことのない表情の崩れっぷりをさらしたのだ。
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やが君ワンライ⑦
初公開日: 2021年07月27日
最終更新日: 2021年07月03日
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