僕の家の隣には、同い年の女の子が住んでいる。幼稚園に通う前、同じ公園で遊んでいた頃からの幼なじみで、家族どうしも僕達どうしも、とっても仲が良かった。どのくらい仲が良かったのかというと、お互いの部屋を直接行き来するくらいだ。
この、直接、というのは文字通りの意味で、二階にある僕の部屋の窓から、同じくやっぱり二階にあるその女の子――リョーコちゃんの部屋の窓まで、なんと渡り廊下かつながっていたのだ。
この渡り廊下は、お互いの家のお父さんが日曜大工で作ったもので、二人で張り切って作るうちに、「よさん」を使いすぎてお母さんたちにしこたま怒られた、と、お酒を飲んでゴキゲンになったときに二人が笑っていたのを覚えている。
とにかくその渡り廊下のおかげで、僕とリョーコちゃんは毎日一緒に遊んでいたし、毎日、正確に言えば一日ずつ交代で、欠かさずやっていることがあった。
「えーっと……『今日は、プラネタリウムに行きました』と」
分厚い表紙の日記帳に、日付と、今日あったことを書いていく。今日書くのはもちろん、リョーコちゃんのお父さんに連れて行ってもらった、プラネタリウムのこと。
真っ暗なプラネタリウムはちょっぴり怖かったけど、たくさん星が見えて、すごくきれいでワクワクした。星座の名前だって覚えられたんだ。
「きせつごとに見える星がちがうそうなので、またこんど、いっしょに行きたいです」
とっても楽しかった。リョーコちゃんも、とっても楽しそうだった。今回は夏の星座を覚えたから、今度は秋の星座を覚えてみたいな。
そんなふうに、鉛筆で日記に文字を書いていく。一ページ書ききったら、今日はここまで。日記帳を閉じて、窓を開けて、スリッパを履いて渡り廊下を進む。もちろん、今書いたばかりの日記帳を持って。
こんこんこん、と、三回ノックするのが僕たちの決まりだった。そうすると、いつもすぐにリョーコちゃんがカーテンと窓を開けて、にこにこしながら日記帳を、僕達の交換日記を受け取ってくれる。
ところが、この日はちょっと変わっていた。
「かずくん……」
カーテンと窓を開ける速さが、いつもよりゆっくりだった。それに、いっつもにこにこしているリョーコちゃんが、今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「どうしたの!?」
僕はびっくりして、いつもだったらすぐに渡す日記帳を抱えたまま、そう質問していた。
「わたし……」
「うん」
「なつやすみに、引っ越すんだって……」
そのときリョーコちゃんが言ったことは、まるで知らない国の言葉みたいに聞こえていた。
*
「任務完了、っと」
学校帰りに卵買ってきて! 今日特売で安いから! 2パックね! ……と、昼休みに送られてきていたメッセージに返信をつけて、俺はスマホをポケットにしまった。自転車を車庫の脇に停めて、カゴから鞄とレジ袋を取り出す。
それから玄関扉に向かう……前に、必ず門の郵便受けを確認するのが、俺の日課だった。
「さて、今日は――」
来てるかな。来てるといいな。
毎日繰り返している行為なのに、どうしても鼓動が早くなる。ちょっと手汗もかいてしまう。何度やっても、なかなか慣れる気がしなかった。
とにかくなるべく平静を保つように努めながら、郵便受けの内扉を開ければ、そこに分厚い茶封筒が見えた。
「――来てる!」
急いで、でも決して落としたりしないように封筒を掴んで、すぐさま家の中に入る。鞄とレジ袋はひとまず玄関に置いておき、一目散に二階の自室へと向かった。
俺の部屋は、小学生の頃と何も変わらない。ただ、部屋の窓の外にあった、渡り廊下が無くなっているだけ。
アイツとの交換日記だって、ちゃんと変わらず続いている。郵送になったから、毎日とはいかないけれど。
「へへ……」
何度繰り返しても、この瞬間が嬉しくてたまらない。一人で部屋の中でニヤニヤしてるのはちょっと気持ち悪いかな、と思って表情を抑えようかと試みたこともあったけれど、すぐに諦めた。
上がってしまう口角はそのままに、茶封筒を丁寧に開いていく。中から出てきたのは、おなじみのハードカバーの日記帳。表紙に俺とアイツの名前が書かれた交換日記は、こいつでもう七代目になる。
中学生どころか、小学生だってスマホを持ってる時代だ。俺の連絡先にも、ちゃんとアイツの名前がある。だけど、この交換日記はやめることができなかった。
アイツの引っ越しで、物理的な距離はどうしようもなく離れてしまったけれど、だからこそ、俺たちだけの絆の象徴をなくすなんて、考えられなかったから。
「さて、と……」
ページをめくる。今回は、いったい何が書いてあるんだろう。
*
文字を認識した瞬間に、すっと心が冷えたのを感じた。
白い紙面に刻まれた黒いインク。最近ますます上手くなったあいつの字で『今年は遊びに行けそうにありません』と、そう書かれていた。
「……」
ページの最後までしっかりと読み切ってから、俺は背もたれに体を預けて、意味もなく天井を見上げた。何も変わっていない俺の部屋。俺は、何も変わっていない。だけど、あいつはもう、いつまでも子供じゃないらしい。
最近、ピアノのコンクールで有名な先生に目をかけてもらったそうだ。おかげでいろいろと忙しくなったようで、泊りがけで出かける機会も増えたらしい。そのあたりは全部、交換日記を通して知っていた。
その交換日記は、めっきり頻度が減っていた。小学生のころは毎日交互に書いていたのが、今では週に一往復できないことがほとんどだ。
寂しい、と、思う。だけど……同時に、どこか諦めと共に、受け入れてしまっている自分がいる。
そもそも、無邪気な小学生の時分に、家が隣同士だったからこそできていたわけであって。
今更この時代に、高校生にもなって交換日記だなんて、続くわけがないのだ、と。
冷静に、終わりが近付いていることを感じている自分がいた。
だって、変わるのはあいつだけじゃない。俺だって、高校を出て大学に入ったら、この家を出るつもりなのだから。
十年以上を過ごしてきた俺の部屋。あと何度ここで眠る機会があるのだろうか、と、天井を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
*
大学入学を機に、俺はアパートを借りて上京していた。
初めての一人暮らし。俺の生活はがらりと変わった。何もかも変わった。苦労することも多くなったが、それ以上に、楽しいことも増えた。
そして、やはりというべきか。高校生当時の予感の通りに、涼子との交換日記はあっけなく終わっていた。
夜八時。机に向かっていた俺の耳に、スマホのアラーム音が響く。課題は一度切り上げて、俺はアパートのベランダに出た。からから、と、窓のサッシが音を立てる。遅れて、もうひとつ。
東京の空は、星が見えない。いや、正確に言えばいくつかは見えるのだが、二等星以下は軒並み地上の明かりにかき消されてしまっている。
今日も夜空に見えるのは、片手で数えられる程度の光だけ。
「……今、まっすぐ南に見えてるのが、たぶんスピカだよ」
小学生の頃に行ったプラネタリウムは、俺に星空への好奇心を与えてくれた。おかげで、主要な明るい星の名前と位置は、だいたいわかるようになっていた。
「だから本当は、あのへんにおとめ座があるはずなんだ。ここじゃあ、あんまり良く見えないけど」
「たしかに、あんまりよく見えないね」
ベランダの手すりに身を預けた俺の耳に届く、聞き慣れた声。顔を向ければ、隣部屋のベランダから、同じように空を見上げる女がいた。
「でも私は、かずくんと見る星空が、一番好きだよ」
「……俺も、そうだよ」
あの交換日記は、今も俺の部屋にある。たまに、二人で読み返したりもする。
俺と涼子は、小学生のころから何も変わっていない。隣の部屋に住んでいて、今もとっても仲が良い。
ただ、大人になった俺たちは、交換日記を使わずに、お互いの気持ちを交換する方法を知っている。
それだけのことだ。
「死んでもいいわ、って言ってくれないの?」
「その翻訳、実はあんまり好きじゃないんだなぁ」
おわり。
一時間で無理やり書き切ろうとするとやっぱりいろいろと粗が目立つなぁ。
今回はネタだけ考えてきたけど、ちゃんとしたものを、このくらいの長さで一時間で書こうと思ったら、プロットくらいは必須かもしれない。
なにはともあれ、とりあえず書ききれてよかったです。