すんと鼻を鳴らすと、塩素のにおいが鼻腔を擽った。
 私の体にすっかり染み付いてしまったのだろう。さっきまでの体育の授業は水泳だったから。
 ウチの女子制服は、デザインこそ生徒の間でも評判だけれど、夏に限っては不満が出る。というのも、ブラウスの上のジャンパースカートが問題なのだ。通年使えるからなのか生地が同じなため、重ね着すると非常に暑い。おまけにベルトもあるから蒸れるのなんの。
 私もそんな不満を抱える一人だ。
 ただ、そういう不満こそあれ、ほんの少しだけそれを気持ちいいのだと知ったのは、今だった。
 開けた屋上で吹き付けた、一陣の風。
 むっとしている熱気をさらうかのような風は、まだ辛うじて水分が潤っていた体に触れて、わずかな間であれひんやりとした心地をもたらしてくれる。
 最近は暑いばかりの夏服も、この一瞬はそれが心地よく感じられたのだ。ブラウスと普通のスカートだと、ちょっと肌寒いかもしれない。
 ドアを開けたまま、しばらくその風を堪能する。
 遠見東高校は山を切り開くようにして建てられた学校だ。距離も角度もそう大したことはなくとも、登校の際にはいくらかの勾配を登らないといけない。文化部の自転車通学者にとっては中々の鬼門である。
 その分、建物に挟まれることもないため風通しはよく、夏の熱気は麓よりも幾分マシになる。とはいえ冬は寒風が吹き付けてくるので一長一短だ。坂道を考えると短所の方が多い。
 でも、プールのあとのこの気持ちよさを知ってしまったら、夏模様の制服も、高所にある学校も、ちょっとだけ好きになれる気がする。
 もう一度、深く息を吸い込む。
 濃い塩素のにおいにさっきは気付かなかったけれど、周りが緑に覆われているからか、夏の青臭さも雑じっているのが分かる。
 ちょっとだけノスタルジックな気分だ。まだ高校生、それも一年目だというのに。
 さて、と仕事も終わったので階段を下りていく。ウチは昼休みには屋上が解放される。その鍵は生徒会が管理していて、今日は私の当番だった。
 歩きながら欠伸と背伸びをする。ちょっとばかり体育での疲れを感じる。
 このあとどうしようか。今日朱里はバスケ部の友達と食べるみたいだし、こよみは相変わらずリボンの件で先生から呼び出しを受けてる。
 教室で一人で食べるかなぁ。学食の方は混むだろうしわざわざ一人で行かなくても……。
「侑ーっ」
 ぼんやりと考えながら教室に戻っていると、不意によく通る声が私を呼び止めた。
 振り返るまでもない。七海先輩だ。
「なんです?」
「今日、お昼一緒に食べない?」
 私の隣にまで追い付いてきた先輩はそう言って、笑顔で誘ってくる。
 ん-、と意味もなく視線を泳がし、考える素振りをする。
「別に、いいですよ」
 他に特に誰かと食べたいというのもなかったので、仕方がないと淡々と頷く。時々、この人は狙ってるんじゃないかってタイミングで現れてくるなぁ。
 ……私は選ばない。ただ、ちょうど悩んでいた時にそう誘われたから、それに付き合うだけ。
 それは別に先輩じゃなくてもいい。槙くんだって、堂島くんだって、佐伯先輩……はちょっと怖いけれど、きっと同じように頷く。
 でも。
 素っ気ない私の態度にも、こんなに嬉しそうにする先輩を見て、私も嬉しくならないと言ったら噓になる。
 だから、先輩のことを意識しないようにしてるわけじゃない。そのはずだ。
「どこで食べる?」
「……屋上とかどうです?」
「え? いいけど、暑くない?」
「日陰に入ったら大丈夫じゃないですか。風は案外吹いてますから」
 折角だから、先輩にもあそこの心地よさを知って欲しかった。
 プールの直後じゃないと、また感じ方は違うんだろうけれど、それでも。
 ……ふと、塩素のにおいがした。さっきよりも濃いにおい。
「水泳だったんですか?」
「うん、三時間目にね。侑も?」
「私はさっきです」
 ちらりと横目で先輩を窺う。
 まだ少しだけ濡れている黒髪と、立て襟の隙間からうなじが見える。
 汗が、つ、と肌を伝っている。
 それを見て訳もなく、夏服も悪くないなぁ、とまた思った。
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