麗子という女の噂に興味はなかったが、嫌でも耳に入ってくるほど彼女はこのバーの常連客たちから注目されていた。遊び人の代名詞のような存在で、見た目も特徴的なので、わかりやすくアイコニックなキャラクターだからという理由だけで注目されているなら可愛らしいものなのだが、注目されるきっかけとなったのが手の早さと手癖の悪さのせいで起きた派手な喧嘩だったらしく、その噂は大半が悪意によって広がっている。綺麗に遊べばいいものを、カップルを別れさせる原因を作っただけでなく、そのカップルの二人とそれぞれ浮気をしていたというのだから節操もクソもない。どちらをもどちらからも寝取った麗子は、そのカップルを修復不可能なまでに切り裂いて満足したのか、次はバーに訪れる新顔を漁っては一夜を過ごし、その後は顔を合わせても見向きもしないということを繰り返しているという。中には麗子に心を奪われる子もいたようだが、取り付く島もないほど冷たくあしらってしまうのだそうだ。
 私はというと、麗子の姿はまだ一度しか見たことがない。閉店間際に来ることが多いせいか客もまばらで、そんな時間まで飲んでいるのはいつも同じ顔だった。麗子を見たときはたまたま早い時間に足を運んだためで、待ち合わせの時間潰しをしていた私はすぐに店を出てしまったので、本当に見かけたというだけだ。それでも記憶に残っているのは、麗子があまりにも美しかったせいだった。見た目もさることながら、所作の一つひとつが美しいのだ。自分をどう見せたいのか、どうすればそう見せられるのかをきちんと理解した上で動いているようで、グラスの汗を指先ですくうという手持ち無沙汰な仕草ですら上品で見とれてしまった。普通は、暇そうだとか退屈そうだとか、そういう感想くらいしか出てこないはずなのに、その濡れた指先に唇を寄せたいと思ってしまう程度には、麗子という女は特殊な雰囲気を纏っていた。
 そんな麗子を再び見かけたのは平日の深夜で、店が閉まる三十分ほど前に一人でふらりとやってきた。店内には私とマスターしかおらず、麗子は必然的に私と一つだけ席を空けて座り、少し疲れた様子で聞き慣れないウイスキーのハイボールを注文した。棚の隅からボトルを取ったマスターと目が合い、「それは?」と訊ねれば、マスターより先に麗子が答えた。
「ラガヴーリン。スコッチよ。飲み過ぎてなければストレートで飲むのだけれど……」
「酔ってるの?」
「そうね。今日はちょっと、加減を間違えたみたい」
 マスターは炭酸の泡が弾けるグラスを麗子の前に置いた。「人がいるときにアイラウイスキーを飲むのは珍しいですね」と言葉を添えて、チーズとドライフルーツの乗った小皿も差し出す。
「ありがとう、マスター。今日はね、いいのよ。どうでもいいの」
 麗子の横顔は憂いを帯びていた。疲れた様子といい、第一印象とはだいぶ違う。噂で肉付けされた情報もあるため、麗子はもっと蠱惑的な悪女らしさを演出していると思っていたのだが、目の前にいる女はそのどちらも持ち合わせてはいない。気怠げな様子は色気があるし、見た目も所作も美しいのだが、派手な悪事のせいで注目を集めている人物と同じだとは到底信じられなかった。
 私とマスターは二人きりでいても雑談に花を咲かせるタイプではないが、麗子が混じっても店内の静けさはそのままだった。有線のジャズチャンネルが控え目な音量で流れ、マスターが明日の仕込みをする物音以外は、グラスの氷が溶けてバランスを崩す軽やかな音が鳴る程度だ。居心地は悪くない。
 バーは定時に閉店し、私と麗子は一緒に店を出た。パンプスの脚でふらついている麗子のためにタクシーまで付き添い、麗子を乗せたタクシーを見送ってから私も帰路についた。徒歩圏内に住まいがあるため、二十分ほど歩いて酔いを冷ますのが、バーに寄った日の習慣になっている。
 後日、私は深夜のバーで次の酒に迷っているとき、ふと麗子を思い出してラガヴーリンを飲んでみたいと思った。聞き慣れない酒、味わったことのないアイラウイスキーに興味があったのは勿論だが、何より麗子が飲んでいたものに興味が湧いた。きっと飲めないとマスターは出すのを渋り、まずは試飲させてもらうことになった。癖の強いウイスキーというのは既に調べてあり、バーボンの臭さも芋焼酎の臭さも好きな私は大丈夫だと思って頼んだのだが、手渡されたショットグラスを鼻先に近づけたところでテーブルに置いてしまった。バーボンとも芋焼酎とも全く違う、とてもウイスキーとは思えない香りだった。
「ピートの香りなんですよ。植物の泥炭で、麦芽を乾燥させるためにそれで燻すんです」
「これは……なかなか……」
「でしょう。でも、ラガヴーリンは飲みやすい方なんですよ。究極に臭いのだと舐めるのも大変かと。少し舐めてみては?」
 すすめられ、ショットグラスを傾けた。少しだけ唇の内側につけて口の中へ入れてみると、薬品の香りの中にチョコレートに似た微かな甘みを見つけた。おや、と思い、今度は舌先が湿る程度の量を含んでみる。つんとした臭みが鼻を突くが、舌ではやはり甘みが感じられる。不思議な感覚だった。
「麗子さんは、一人だとこれを……?」
「ええ。と言っても、彼女が一人で飲んでいることなんて、滅多にないんですけどね」
 マスターは、これ以上の詮索をかわすように作業を始めてしまった。客同士が噂話をするのは止めないが、自分からは発しない。マスターのスタンスはずっと変わらないままだ。
 私はショットグラスを傾け、残っていたラガヴーリンを全て舌の上に乗せた。薬品臭、甘み、強いアルコールで熱くなる舌。それらを全て味わいながら、次はもう少し早い時間に来てみようと決めた。それで、麗子に再び会えるまでは、ずっと早い時間にここへ来よう。人目が無いときだけ珍しいウイスキーを飲む麗子が、私の隣でそれを飲んだことに、特に大きな理由はないかもしれない。しかし、今、この口内で熱くなっている舌のことを、できれば知ってほしいと思った。あなたのお陰で新しいお酒に出会えたという感謝を、あの憂いを帯びた横顔に伝えたい。
 熱くなっていたのは舌だけではないと気付いて、マスターにショットグラスを差し出した。
「これで、ハイボールを」
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