香織の名字は山内から池上になった。本当は私と同じ宮野になるか、私が山内の名字を貰いたかったが、それを叶えるには障害がありすぎる。香織の名字だけが第三者のものになることにも大きな障害がいくつかあったが、そんなものは、二人が異性同士であるというだけで、当人たちの問題として扱われる程度のものでしかなかった。
しかし、そこに大いに関係している私は、当初、かなりの反発を示した。香織の目的を果たすには、他にも手段はある。別に、池上に頼る必要はないし、池上を介入させなければならない理由もない。職場には休職を申し出て、一緒に海外へ行くことだってできるのだし、日本の制度だけに頼る必要もない。思いつく限りの理由を述べ立てて香織の思惑を阻止しようと試みたが、香織は一切引こうとしなかった。
「私、きっと琴音と出会ってなかったら、あの人と付き合ってたと思う。だからあの人がいい」
結局、香織が選んだのは池上で、池上が求めたのも香織だった。
そうして香織は、出産するまでという条件で、池上と結婚した。よく池上が承諾したものだ。だって、どう考えてもおかしい話じゃないか。離婚を前提として結婚するなんて、普通じゃない。香織と事実婚状態にあった私が〝普通〟についてとやかく言うのはお門違いかもしれないが、池上は所謂〝そういう人〟ではないのだ。
では、どうして池上がそんな〝普通〟ではない結婚に承諾したのかというと、彼の愛した香織が〝普通〟から外れた人間だったからに他ならない。
度重なる話し合いの中で、香織は言った。
「勇二くんとはさ、香織と付き合うまでの間に色々あって。私、あの頃かなり悩んでたのよ。その悩みをずっと親身になって聞いてくれてたのが勇二くんで、そのお陰で私たちは今も一緒にいるの」
香織は大学に入って間もなく仲良くなった同級生で、私はすぐに好意を自覚した。地元から遠く離れたことが清々しくて、同じように清々しい顔をしていた香織に引き寄せられ、その芯のある強さに何度か当てられたら、もう止まらなかった。強いだけではないことも、時折自信をなくしそうになることも、芯が通っているせいで周囲と衝突してしまうことも、一緒にいればいた分だけ知ることができたし、いいことも悪いことも平等に見ていたから、そのどちらも愛しくて仕方が無くなった。
そんな同級生同士であった私と香織の交遊関係の中に、池上勇二という年上の人物はいたのだ。私はほとんど面識がないまま池上たちの代の卒業を見届けたが、香織と池上はサークルが同じで、一緒に過ごした時間もそれなりに長かったらしい。池上が香織に好意を抱くには十分過ぎるほどの時間を、二人で共有していたはずだ。だって、普通とは掛け離れた結婚をするという決断をしたほどなのだから。
「琴音には悪いと思ってる。でも私、どうしても自分で子どもを産みたい。その子どもを、あなたと育てたい。我が儘なのはわかってる。それでも、その我が儘を叶えてくれるって言ってくれる人がいるんだよ」
最後はほとんど香織の泣き落としだった。香織の心が決まっている以上、私が折れなければ衝突は免れられない。しかし、香織の心が決まっている以上、結婚の条件が年月の経過によって曲げられてしまうこともない。
だから私は、香織を信じて子作りのための結婚を承諾したのだった。
池上が出した条件は二つだった。一つ、一度きちんと籍を入れること。二つ、出産までは二人の結婚生活を送ること。私も香織も、池上の条件を飲んだ。
三者が納得してしまえば事はトントン拍子に進み、私は友人という立場で香織のウエディングドレス姿を見、二人の新居を見、大きくなっていく香織の腹を定期的に撫で、時には産婦人科への送り迎えをし、産院への見舞いへ行った。正直、私は香織ほど子育てに執着がなかった。私にとっては香織が一番で、全てで、香織がいるだけで満足だったからだ。でも香織は、そんな私と子育てをしたいと強く願ってくれた。その思いの強さを、約十月十日の間に実感していき、香織の腹から出てきたばかりの新生児を恐る恐る抱く頃には、何があっても香織とこの子を守っていくのだという使命感に突き動かされていた。
「この子の名前、結局まだ決められてないね」
産院のベッドに横たわる香織の薬指には、まだ結婚指輪が光っていて、だいぶ見慣れて気にならなくなっていたそれももうじき外すのだと思うと、急に鬱陶しいもののように感じられた。早くむしり取って自分の元へ帰ってきてほしいと思う反面、香織はこのまま池上と一緒にいた方がいいのではないかとも思う。わざわざシングルマザーになってまで私と一緒にいることはないし、友人の皮を被っていれば既婚者である香織にいつでも会うことができる。何より、香織を私の元へ連れ戻すことが、腕の中に収まってしまう柔らかな新生児のためにならないと思えて仕方が無いのだ。香織をこちら側へ引き込むことを恐れた大学生時代、踏みとどまってさえいれば、池上の人生を狂わすこともなかったし、新しい命を巻き込んでしまうこともなかった。
初めて抱いた小さな命に恐怖を感じていることに、香織はすぐに気づいて、私の膝に手を伸ばした。
「琴音の後悔は私の後悔だし、私の後悔は勇二くんの後悔でもあるんだよ。私たちは三人で一緒にいることはできそうにないけど、この子の親は三人もいる。だから大丈夫」
香織は強く、覚悟の重さも私とは桁違いだ。きっと、私よりも早く責任ある決断を下した池上も、重い覚悟を背負っているに違いない。結局私だけが、まだ親になりきれていない。そう思うと悔しくて、胸の中に沈殿していた後悔を涙と一緒に飲み下した。
池上が出した条件のうちの片方、籍を入れるというものは、香織と新生児の戸籍に自分の名を刻むためだった。異性である池上だけが行えるその主張に、私は嫉妬するばかりだったのだが、それが香織への愛情の証明であったと気付くために、私は実際に新生児を抱かなければいけなかった。子どもとはこんなにも愛されて生まれてくるものなのか。バスタオルにくるまれて眠る小さな命を、壊さないようにそっと抱きしめた。
「出生届を出さなきゃだし、早めに名前決めなきゃだね。候補はいくつもあるのに、どれも良くて迷っちゃう。早く決めてよって言いたくて、予定日よりも早く出てきたのかな?」
いたずらっぽい笑顔を向けてくる香織につられて、私の口角も持ち上がった。
「この子が考えてることはわからないけど、名前は決めたよ」
「なあに?」
「愛」
「候補に挙げた中で一番シンプルな名前じゃない」
「いいでしょ。山内愛でも、宮野愛でも、池上愛でも、語感がいい」
「姓名判断も考慮してよ」
「関係ないよ。だって、こんなにも望まれて生まれてきてる」
香織の横に愛を寝かせ、代わりに、まだ指輪の光っている手を取った。そうして薬指の根元に唇を寄せて、近々外される指輪に敬意を示した。