今日はエスプレッソの日だそうなのでエスプレッソの話を書きます。エスプレッソおいしいよねエスプレッソ。
百貨店にアーケード、飲み屋街にオフィス街に、専門学校、大学、予備校……。駅前の喧騒は今日も変わらず、大通りにはたくさんの人と車とためいきの列。右に左に行き交う靴とタイヤの群れからはぐれて、私は一本外れた裏通りへ。
ふしぎなことに、一本道が変わるだけで、びっくりするほど人の量が変わる。重要なのは駅からの距離ではなく、駅からの「流れ」があるかどうか、ということらしい。そんなわけで、駅からわずか徒歩三分のこの喫茶店は、人通りの少ない影のような道のすみっこに、静かにたたずんでいる。
ここ最近、毎週通っている私のお気に入り。いつもの駅でいつもの電車から降りて、いつもの信号といつもの歩道を越えた先。今日も変わらず開いている、いつもの店。
黒くて重厚な見た目のわりには、意外と軽い扉を押し開く。カウベルの音を耳にして、カウンターの向こうにいた人影が顔を上げた。
すっかり顔なじみになった……というのは私だけの主観かもしれない。向こうにしてみれば、私は客の一人でしかないのだ。まあ、とにかくすっかり顔を見慣れた店員が、静かに「いらっしゃいませ」と声をあげる。私はちいさく会釈しながら店内に足を踏み入れて、まっすぐカウンターへと向かう。
「エスプレッソ、デミタスで」
メニューを見ないで注文するのは、いつものコーヒー。小さなカップでいただく、わずか30ccのエスプレッソ。はじめて頼んでみたときは、その小ささに本当にびっくりしたものだ。なにしろ表通りの別の店なら、ドリップコーヒーが同じ値段で十倍は飲めてしまうのだから。
デミタスカップに注がれた飲む宝石の上では、繊細な泡が小さく揺れている。そこにスティックシュガーとひとくちサイズのチョコレートを添えたプレートを受け取って、まばらに座っている他の客を横目に、床板にきっかりいつも通りの足音を落としながら、店の一番奥にあるテーブルを、いつもの席を目指す。
ここで味わうエスプレッソが、ここ最近の週末の、ささやかな楽しみになっていた。席について、荷物を下ろして、ちょっとだけ顔を近づけて、カップから立ち昇る香りを堪能する。
「んふふ」
つい、笑みがこぼれる。豊かな香りに誘われて、思わず唾をのんでいた。このまま見ていたってただ冷めてしまうだけだから、さっそく味わうことにしよう。
だけどその前に……まずは、ステッィクシュガーの口を切る。それから、カップの中の泡の上に、静かに、すこしずつ砂糖を注いでいく。
三グラム分の砂糖が、気泡と混ざってふつふつと震えながら、静かにコーヒーの中に沈んでいく。この様子を眺めるのも、いつの間にか好きになっていた。最初はこんな小さなカップに一本丸々砂糖を入れるなんて正気の沙汰じゃないと思っていたものだけれど、今ではいやむしろもう一本淹れてもいいんじゃないか、なんて思うくらいだ。
「さて、と……」
砂糖が沈んだら、いよいよ舌で楽しむ番だ。小さなスプーンの先で、少しだけかき混ぜてから――ここで混ぜすぎてはいけない。本当に、ほんの少し混ぜるだけでいい。全部台無しになってしまう――カップを持ち上げ、まずは一口。
「んー」
苦い。
あたりまえだけど、砂糖を上から沈めただけで、しっかり混ぜていないから、ほとんど甘くない。泡のコクでいくらか中和されているとはいえ、濃厚なエスプレッソの苦味が、ダイレクトに舌に乗っかってくる。
……最近では、それもまたエスプレッソの良さだと思えるようになってきたのだが。
濃厚な後味を口の中で転がしてから、もう一口。これでもうカップの中身はほとんどカラになってしまう。至福の時間もこれでおしまい……と、いうわけではない。むしろここからが本番なのだ。
あたりまえだけど、砂糖を上から沈めただけでは、ほとんど溶けることはない。なら、その溶けなかった砂糖がどこに行ったのかと言えば……答えは、今私の目の前にある。
デミタスカップの底。濃厚なエスプレッソを吸収して、琥珀色に染まった砂糖が、エスプレッソの醍醐味が、私を待っていた。
スプーンの先を、カップの底に滑らせる。くるりと手首をひねれば、スプーンの丸みの中には、とろとろの琥珀色の宝石が収まっていた。
これだ。これこそが、エスプレッソの醍醐味なのだ。濃厚なコーヒーの苦味に染まった舌で味わう砂糖の塊! ……はじめてこの飲み方を編み出した人は、本当に天才だと思う。
スプーンを持ち上げて、照明に照らし出されてきらきたと輝く砂糖の塊を、ゆっくりと口に運ぶ。
「あーん」
そう。私の対面に座って、口を開けている相手の――。
「――って、こら」
「あれ? ……だめ?」
「だめ」
いつの間にか、待ち合わせの相手が来ていたらしい。どさくさに紛れて私のエスプレッソの一番肝心要の最後の一口を奪おうとしていた外道は、こてんと首を傾げて言った。
「えー。でもそこが一番おいしいのに」
「だからだよ。私のエスプレッソだぞ」
「でもさ、でもさ。けーちゃんはコーヒーが好きで、私は甘いものが好きでしょ?」
「私はコーヒー“も”好きなんだ」
「まあまあ、固いこと言わないでよ。ほら、もう一杯あるからさ」
そう言った彼女の手元には、たしかに私と同じくデミタスカップが乗ったプレートがあった。
「それで結局、そっちも砂糖だけ食べる気だろう? コーヒーは私に飲ませて」
「あーん」
都合の悪いことには答えずに、無邪気に口を開けている。まったく、仕方のないやつだとは思うが――一番どうしようもないのは、ついつい彼女を甘やかしてしまう自分の方なのかもしれない。
親に甘える雛鳥のような彼女の仕草は、私にはどうしても突っぱねることができないのだ。
スプーンをそっと差し出すと、彼女はぱくりと食いついた。そうして次の瞬間には、頬がふにゃりと緩んでいる。
「んひひ……おいひ」
「……それは良かったよ」
その幸せそうな表情を見るだけで、こちらもほっこりしてしまうのだから……惚れた弱みというのは、ほんとうにどうしようもないものだと、つくづく思う。
我がことながら、バカだと思うのだ。なにしろ私たちは、このやり取りを毎週やっているのだから。
我がことながら本当に……どうしようもなく、幸せだ。
オチをなんとかしてぇ。しかしそろそろ時間切れである。寝る。