タイトル 神様に認められた画家
《big》《b》プロローグ 努力は才能を凌駕しない《/b》《/big》
天才が嫌いだ。
あいつらは凡人の十年を一秒で凌駕していく。
天才が嫌いだ。
あいつらは一生懸命な凡才を努力することなく踏み越えていく。
天才が嫌いだ。
あいつらは、なんでもできる癖して、何もできない風を装う。
天才が嫌いだっ。
あいつらはっ、神様に愛されている癖にそれの価値を分かってないっ。
天才が嫌いだっ!
あいつらはっ!私の欲しいモノを全部持ってるのにそれを躊躇なく投げ捨てるっ!
天才が嫌いだ。
天才が嫌いだ。
私は、天才が──────大嫌いだ。
《big》《b》第一章 水面に映る月を掬う方法《/big》
東雲絵名は夜空に瞬く星々の美しさに憧れて画家を目指した。
けれど、絵名も本当は分かっていた。
星に手は届かない。それは触れられないからこその美しさ。宇宙に羽撃くことができるのはほんの一握りの宇宙飛行士だけ。そんな彼ら彼女らでさえ、宇宙に辿り着くことすらできずに死ぬことがあるのだと。
それでも焦がれて手を伸ばした。
欲しい、欲しい、欲しいと、ただ只管に走り続けた。息ができなくなるまで、息ができなくなっても。
(わたしには才能がない)
それは分かっていたことだ。それこそ、コンクールに絵を出す前から、いや二年前から、いいや、本当はそれ以前からずっと。
取るに足らない、誰も注目していないような小さなコンクールですらグランプリを取れない程度の絵では頂に指を掛けることすらもできないだなんて。
そんなの、誰に言われるまでもなく理解していた。
だから、その凡人は自分自身に言い聞かせるように呟く。
「わたしには、才能がない」
思い出すのは、過去の怒り。正論は時にどうしようもなく人を傷つけるモノだから。
『冗談ではない。お前に絵の才能はない』
唐突に今まで歩んできた道のりの全てを否定された。それが悔しくて、反射的に反発した。『そんなことない』と、『私には絵の才能がある』と、『私はプロの画家になる』のだと。そう、ただ無意識に反論した。
画家としての誇りがあったわけでも、
絵師としての覚悟があったわけでもない。
ただの下らない、反抗期。
『私の未来を、勝手に決めないでよ!!』
あの時の絵名は、ただ怖かっただけだ。費やした時間の全てが無意味だと認めるのが。
絵を、描いていた。
何年も何年もずっと。
絵を描くのが、好きだった。
たぶん、この世の何よりも強く。
父親のような画家になりたいと思っていた。
それを実の父親に本気で否定されるのが、本当に辛かった。
『私は私の力で、あんたよりすごい画家になってみせる!』
結局、あの時の絵名はただ恐ろしかったのだ。
仮に、もしも仮にプロの画家になれなかったとしたら、今まで絵を描いていた時間は何だったのだろうかと。画家になりたくて絵を描いていた。友達と遊ぶ時間を削って、指が痛くなってもペンを動かし続けていた。その全てが、ただの徒労で、無意味で無価値な所業であるだなんて間違っても思いたくなかった。
父親のようなプロの画家になりたかったのだ。
誓って、趣味で絵を描き続けていたいわけではない。
職業にしたかったのだ。絵を描くことを生業にしたかった。
画家の辛さも、
絵を描くことの苦労も、
自分の才能の無さも、
何も知らなかった癖に。
あの時の絵名はただそうなるのが当然だと思っていた。
子供のころから心血を注いだ夢ならば叶うのが当然だと。そう、無根拠に思っていた。
「でも、そういう風には……、ならなかった」
努力をリセットするのが怖かった。進んできた道のりが謝りだなんて認めたくなかった。その蝋の翼で羽搏けるのだと思っていた。
そして、すぐに思い知らされた。
己の菲才を。
「わたしに、才能は……、なかった」
だから、本当は分かってる。
それがただの代償行為であることぐらい。
『絵名の描く絵は好きだよ。だから、頑張って』
奏に褒められたから嬉しかったわけじゃない。奏に認めてもらえたから嬉しかったわけじゃない。
本当は、分かってる。
それがただの代替行為であることぐらい。
『絵名の絵が、ニーゴには必要だよ』
結局、誰でもよかったのだ。条件に当てはまるのであれば、誰でも。
絵名は天才ではなかった。
だから、《《天才に認められることが嬉しかった》》。
天才でない自分が『本物』の天才に認められたら、それは自分自身も天才であるかのように錯覚できたから。
本当に、なんて──────無様。
「それでも、」
始まりは最高に下らない自己欺瞞だったかもしれない。
けれど、もう今はそれだけではないはずだ。
誰も、認めてくれやしない。
だからせめて、それだけは認めないといけない。
絵名の絵は――――――塵だ。
全部、無駄。絵具も、絵筆も、パソコンも、ペイントソフト。何もかもが無駄で無為。
誰も認めてくれやしない。絵描きの絵名は、たった独り、孤独に大地で哭き叫んでいる。
分かっている。
「それでも、」
問いかける。
下を向いて泣いていれば、誰か助けてくれるのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『誰にでも絵を描く自由はある』
自問自答。自縄自縛。自殺未遂。
立ち止まって待っていれば、いつか誰かが手を引っ張ってくれるのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『誰よりも消えたがってるくせに』
犬に論語を教えるような無常な無才さ。
蹲って頭を抱えていれば、いつか誰かが頭を撫でてくれるのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『今のお前に、可能性はない』
フィンセント・ファン・ゴッホ程の画家でも生前に売れた絵はたった一枚だけだったという。
傷つくのを恐れて病院のベッドで永遠に眠ることを選択すればそれでいいのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『描いてる人はどうでもいいや』
坂道を転がりおちて、崖の先に身を差し出す。
派手なパフォーマンスで目立ちさえすればそれいいのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『──ああ、落選したのか』
隣の芝生は青くて、そこに咲く花は赤くて、無い物ばかりを強請っていた。
身一つで裏路地をふらふらと夢遊病患者のように歩いていれば、いつか誰かが見つけてくれるのか?
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
『お前は、お前が目指すような画家にはなれない』
借り物の器、空っぽの絵、絡繰りの姿。
『25時、ナイトコードで。』の絵師として評価されれば、
あんたはそれで満足なのか?
そう、問いかける。
「違う……、だってそれじゃ意味が……、ない」
最後の問いかけに対する答えは、二年前から決まっていた。
四十六億年前から、決まっていた。
画家になりたかった。
絵を、見てほしかった。
何時の間にか、逆転していた。
「──────成長してやる」
呟く。
世界は終わる。簡単に、他愛も無く、易々と。
世界は崩れる。今までのアタリマエなんて、たった一秒で粉微塵に粉砕される。ミキサーで掻き混ぜられたのは最低最悪の驕りだ。思い知らせられたのは自分自身のレベルと『お前程度の才能なんて有り触れている』という現実。
凍えるほどに冷たくて、寒い、現実。
だけどそれでも、と凡人は笑った。
「アンタたちになんて取るに足らないって、わたしが上から見下してやる」
空に向かって手を伸ばした。星の輝きをその掌で包もうとした。そんな夢を見ていた。
誰かが、敵う適う叶うはずがないと嗤った。
甘っちょろい幻想と綿菓子よりも甘い夢想。
現の中で生きるなら誰もが捨て去る禁断の果実。
空は飛べない。海には潜れない。宇宙人はいない。遠くの人と話す手段はない。音楽で世界は救えない。
だけど、そうじゃないと叫んだ人たちがいた。
その人たちは皆、存在しないモノを手に入れてみせた。
青い薔薇の花言葉が『不可能』から『夢叶う』へ変わったように。
「わたしは、」
声は、いつも聞こえている。
その声はまだ、届いている。
『少なくともボクは、絵名の絵が好きだよ』
『絵名の絵が、ニーゴには必要だよ』
『認められるまで描けばいいじゃない』
癒えない傷を抱えている。
一生言えるはずのない瑕も抱えている。
けれどもしも夢を見ることが子供の特権だと嘯くのならば、もう少しだけ目指してみても良いのではないのだろうか?
しわくちゃの、ドロドロの、グチャグチャの感傷を『何てことない』と強がって生き進んでも良いのではないだろうか?
だって、絵名は、
「絵を描くのが、好きだから」
クリエイターに必須の才能は二つある。
どんなになっても描き続ける継続力と、
自分自身の作品を心の底から認められる自己承認。
絵名は凡人の絵描きではあったが、その二つを持っていた。
確かに、持っていた。
◆
筆を置く。
ようやく、完成した。
「できた……」
雨雲から射す一筋の太陽光が無能少女を照らす。そんな絵画。
タイトルをつけるとすれば『見上げる少女』、だろうか。
何をとも、誰をとも、どうしてとも示さない。そんな絵。それは観てくれればきっとわかるはずのモノだから。
そんな、驕り。
それもまた、プロには必要不可欠の要素の一つだ。
「ふふっ、……なんだ、描けるじゃん、わたし……」
描けないなんて嘘だ。やっぱり、楽しかった。天職にしたいと思えるほどに、楽しかった。
才能なんてなくても、天才じゃなくても、この絵を求めてくれる人がいると、
やっぱり自分は絵を描くことが大好きなんだと、これで生きていきたいんだと、
そんな当たり前に気づくのに、どれだけの時間がかかったのか。
「ふわぁーっ!あれ?もう朝か……。流石に眠くなってきたかな…………」
何時の間にか夜が明け、窓から光が射していた。その光景は皮肉にもたった今仕上げた絵と似ていた。
カーテンの隙間から射す一筋の太陽光が才能の無い少女を照らしている。そんな光景。
その相似に凡愚が気付かなかったのは当然と言うべきか、幸運と表するべきか。
「んー!」
椅子から立ち上がり、軽く伸びをする。流石に疲れがたまっていた。
「そういえば、八つ当たりしちゃったし彰人に謝ろうと思ってたんだ。それに廊下に置いてくれたジュースとチーズケーキのお礼も」
絵を描いている途中、廊下で物音がした。気になって廊下に出てみれば、意外なことにそこにはコンビニのレジ袋が置かれていた。
中に入っていたのは大好きなジュースとチーズケーキ。こんなことをするヤツなんて一人しかいない。きっと彰人が気づかって置いてくれたのだろう。何時間も絵を描き続けて疲れ果てた頭で彼女はそう判断した。
「まぁ、レシートまで入ってたのはどうかと思うけど?今回ぐらいは見逃してあげてもいいかな」
鞄の中から可愛らしい財布を取り出し、何枚かの硬貨を手に取る。お礼も含めてまぁ、千円くらいでいいだろう。
「今なら学校行く前だろうし、話せるかな」
部屋の扉を開け、階段を降り、リビングに行く。リビングには想定通り彰人の姿があった。
「あっ、……彰人、おはよう」
「ん、はよ」
「……その」
僅かな躊躇を飲み込んで、頭を下げる。
「昨日はごめん、当たったりして」
「は、別に気にしてねえよ。いつものことだろ?」
「はあっ!?ちょっと!いつものことってどういうことよ!」
「別に、言葉通りの意味だっての。……で、どうすんだ?」
「──────」
息を、呑む。
だけどそれは躊躇があったからではなく、自分の意志を再確認するためだ。
『お前は本当にそれでいいのか』、と。
「…………絵は描き続けることにしたから」
「……そうかよ。ま、頑張れよな」
ほんの少しだけ彰人が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。
いや、きっと気のせいだろう。そんなはずはない。
そう、思うことにした。
「あっ、ちょっと!これ!」
「ん?何だよその千円?」
朝食を片付けて学校に行こうとする彰人を呼び止めて、あくまでもプロの画家を志す少女は持っていた千円札を差し出す。
普段ならば支払うこともなくスルーしていただろうが、今は素直にお礼をしてもいいと思うくらいには彰人に感謝していた。
その純粋さを父親にもぶつけることができれば、きっとここまで拗れることもなかったであろうに。
「何って、お礼よ。昨日の」
「お礼……?何のことだよ?」
「何のことって、アンタ昨日わたしの部屋のドアの前にジュースとチーズケーキ置いていったでしょ!ご丁寧にレシートまで!……だから、そのお礼よ」
顔を横に向けて、ぶっきらぼうに答える。
やはりひねくれているのだ。感謝しているとはいえ、純粋に感謝を示すことはできない。口から出る言葉はどうしても素っ気なくなってしまう。
最も、そうでなければ画家で在り続けることなどとてもできなかっただろうが。
理解しているだろう。強い言葉で他者を威嚇するのは自分自身の弱さを覆い隠すためだと。
《《だが彰人の答えは想定外のモノだった》》。
「はぁ?何の話だよ、絵名?」
「え?それ、どういう……」
惚けているわけじゃないのは目を見ればわかった。家族なのだ。その繋がりは深い。
だから余計に混乱した。彰人の真意が分からない。まさか、忘れている訳でもあるまい。一か月とか一年とか前の話ではない。つい数時間前の話なのだから。
そして、真実が判明する。
絵名にとって、都合の悪い真実が。
現実はいつだって、こんなはずじゃなかったということばかりで、
現実はいつだって、絵名のことを地獄の底まで叩き落して、
「俺じゃねーぞ、それ」
「は?」
「だから、それを置いたのは俺じゃない。俺は寝てたし、第一、いつも俺がなんか買ってきてやった時はレシートなんて入れてねえだろ?」
「……だったら、誰が…………」
ひくり、と喉が引き攣った。全身が硬直し、脈拍が上がった。
頭がガンガンと痛み、指先が震え、焦点が定まらなくなる。
一瞬のうちに最悪の想像が頭の中をよぎり、慌ててそれを否定する。
そんなわけない。
そんなはずがない。
だって、
だったら、
「………………分かってんだろ、そんなの」
「──────」
「そんな深夜にわざわざ絵名の好みの食べ物と飲み物を廊下に置いてくヤツなんか、一人しかいねえだろ」
「──────」
違う。
あり得ない。
違う。
起こり得ない。
違う。
そんなことあるはずがない。
「俺じゃねえなら」
「嘘よッッッ!!!」
髪を搔き乱すように左手で頭を抱え、全力で叫んだ。
心の底からの、否定を。
「アイツが、アイツがそんなことするわけない。だって、だって、だったら──────」
なんだ、それは?
どうして今更そんなことを?
否定は混乱を生み、混乱は混沌を生み、混沌が透明な雫を生んだ。
伝うほどに熱くなり、自然、言葉は細くなる。
「だったら、どうして……どうして…………」
疑問はきっと、誰かに対するモノではなく。
それ故に解答はきっと、誰にも求めていなくて。
けれど最悪なことに、よりにもよって彰人が正答を返した。
望まない、解答速報を。
「……昨日、親父と話したんだけどよ」
重い口調で彰人は慎重に言葉を紡いだ。ここが正念場。選択を間違えれば全てが終わってしまうことなんて、誰にだって分かりきっていた。
彰人は絵名の気持ちも、父親の気持ちも、理解できるから。
天賦の才能に対する劣等感も、努力が評価されないことの辛さも、才能がある人間の苦悩も、プロという立場の後悔も、
全て、共有はできなくても、
共感ならできるから。
「親父に悪気はねえんだよ。親父は親父なりに絵名のことを心配してるだけなんだ。……でも、あの言い方は俺もどうかと思った。だから言ったんだ。『もっと単純に……あいつの絵を見てやれよ』ってな。たぶん、理由はそれだろ」
「それで、……。アンタ……が、……」
何だ、それは。
そんな理由で、
そんな理由で?
分からない。
理解できない。
どうして、今更、
だったらなんで、もっと早く、
『今のお前に、可能性はない』
欲しかった言葉とは正反対の言葉を言われたことが、ショックだった。
「……親父にも、なんか心境の変化があったんじゃねえのか?」
「だったら何……?だから許せって、アンタはそういうのッ!?わたしが、わたしがどれだけアイツにっ、アイツがどれだけわたしのことをッ!」
「別に許せとは言わねえ」
二人の間にできてしまった溝がそう簡単に埋まるモノではないことは彰人も理解している。
成功してしまった父親は本当の意味で絵名のことを理解することはできないだろうし、
失墜してしまった絵名は本当の意味で父親のことを理解することはできないだろう。
でも、それでもその溝を小さくすることはできるはずだ。
城の周りにある堀を少しずつ埋めていくように。
「ただ、俺は知ってほしかっただけだ。絵名に、親父のことを──────もっと、な」
「ッ!」
何だ、それは?
『もっと知ってほしかった』?
だから、扉の前にジュースとチーズケーキがあった?
何だ、それは?
心配しているとでも言っているつもりか?
気づかっているとでも言っているつもりか?
『お前に絵の才能はない』
そう言って、全てを否定した癖に、
『お前は、お前が目指すような画家にはなれない』
そう言って、何もかもを全否定した癖に、
『……覚悟に足る才能があれば、違うのかもしれないがな』
そう言ってっ、馬鹿にした癖にっ!
「少しは素直になってもいいんじゃねえのか、……絵名も、親父も」
今更ッ!
「──────うるさいっ!今更、今更そんなこと……っ!彰人も余計なことしないでよ!これはわたしの、わたしだけの──────ッッッ!!!!!」
「っ、絵名!」
会話を打ち切って、階段を駆け上がる。これ以上彰人と会話することは、もう一秒だって耐えられなかった。
「心配してるから……?だったら何だって言うのよ……っ!だったらどうして、あの時……っ!」
あの時、欲しかった言葉をくれなかったのか。
あの時、あんなにも絵名のことを全否定したのか。
確かに絵名には才能がない。だけど、だからと言ってあんな風に直接的に言うことはないだろうが。もっと、もっと、もっと、
ただもっと、絵名は──────。
怒りとも哀しみともつかない、全てがごちゃまぜになった表情のまま、凡人は自らの部屋に帰った。
そこに、先ほど仕上げたばかりの絵を無言で観ている父親がいた。
「……なっ!ちょっと、」
予想外の登場人物に画家気取りの落書き屋は思わず声を荒げた。
それは、どうしてだろうか。
無自覚でこそあるが、プロの画家に己の絵を晒すことを恥と感じた。
程度の低い、塵作品を。
――――――無論、そんなことはなく。
「アンタ、何勝手にわたしの絵見てんの!?出てっ」
「よく描けてる」
「は?」
妄想の外にすらない言葉を投げかけられて思考が止まった。
想像だにさえしなかった言葉。
プロの画家の、褒め言葉。
「雨雲から差す光が、良いコントラストになっているな。この少女の迷いは晴れそうだ」
「……っ、な……」
「《《それだけだ》》」
そんな褒め言葉を吐いて、『本物』は絵名の部屋を出て行こうとした。
それを慌てて引き止める。
聞きたいことが、確認しなくてはならないことがあった。
「っ、待ちなさいよ!」
「ん?」
声に、歩みが止まる。
それはきっと、いやもしかしたら、比喩的ではないのかもしれない。
「……アンタでしょ。昨日、わたしの部屋の前にこれ……置いていったの」
部屋のゴミ箱から空のペットボトルとチーズケーキの包装フィルムを持ってきて、見せる。
「どういうつもりなの?今までこんなことしなかった癖に、わたしのことを放っておいたくせに」
それはきっと、彼女なりの歩み寄り。『強く』なければ絵を描き続けられなかった彼女からの、精一杯の気遣い。
それを知らずして、けれど彼は答えた。
彼なりの誠意をもって。
「絵名」
「っ、何よ!」
「父親が娘を心配することは、そんなにも不自然か?」
「…………な」
言葉が、
止まった。
「お前はよく徹夜で絵を描いているようだからな、手軽に食べられるモノを置いた。食べたのならば、よかった」
「……なに、それ」
凡人の絵描きは、
父親の言葉の裏にある真意に、気づいてしまった。
気づかなくていいことに、気づいてしまった。
「さっきの言葉は、父親としての言葉……?」
「……そうだ」
「だったら」
あぁ、ダメだ。分かってる。その先を言うべきじゃない。
その先にあるのは地獄だ。今はただ、微温湯に浸かっていればいいだろう?あり得ないことが起きたのだから。あの時以来断絶していた関係性の父親から久しぶりに褒め言葉をもらえたのだから。それで悦に浸っていればいいだろう?
言うべきじゃない。
言うべきじゃない。
言うべきじゃない。
でも、言わなきゃ、
(わたしはもう、永遠に画家を名乗れない)
きっと、気づいていた。
だから、その禁忌に踏み込んだ。
楽園の果実は呆れるほどに甘美で、
でも知恵を得た人間は堕落した。
「だったらっ、……だったらッ!画家としてのアンタは、この絵をどういう評価するのッ!?」
「────────────それは」
沈黙が、痛いほどに肌を突き刺す。
それだけで、あぁそれだけで分かってしまう。
分かってる。
分かってる。
分かってる。
だから、言えよ。
言えよ!
「答えなさいよ。……黙ってないで、答えろっ!」
「………………………………………………………………………………………」
誠意とは、何だろうか。
嘘を吐くことだろうか?
甘い言葉で甘やかせば、それでいいと?
プロを目指す人間を夢幻の『セカイ』に浸らせることが正しいと?
……きっと、分かっていた。
だから、その画家は、答えた。
父親としてではなく、プロの画家として。
「その絵に」
聞きたくない。
聞きたくない。
聞きたくない。
けれど、彼女は、
「俺が言うべきことは何もない。…………それだけだ」
それだけ言って、日本でもトップレベルの画家は絵名の部屋を出た。
その背に投げかけるべき言葉など、何もない。
それが唯一の絶対解。
「ッ!……うぅうぅううぅうぅぅぅ、あああああああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!」
分かっていた。
分かっていた。
分かっていた、はずだった。
けれど、
だけど、
覚悟をしていたつもりでも、それでも、
「畜生……」
それでも、こんなにも辛く。
「ちくしょう……っ」
完璧な絵だと思っていた。──────嘘だけど。
修正するところなんて何もないと思っていた。──────嘘だけど。
コンクールに送ればグランプリを受賞できるレベルの絵だと思っていた。──────嘘だけど。
「くそっ、ちくしょう……、ちくしょうっ……」
皮肉気な自己洗脳はプロの画家の一言によって那由多の果てに吹き飛ばされた。
分かっていた。
分かっていたよ。そんなことは。
もしもこの絵を、同じ構図、同じ色遣いで、同じ時間をかけて父親が描けば、こんなものではすまないのだろうと。
こんな出来では終わらないだろうと。
そんなこと、知っていたよ。生まれた時から、生まれる前から、ずっと。
「見返してやる……っ!」
空虚な強がりが口から漏れ出た。
いつも、何時だって、そうだった。
絵名の絵は、誰にも認められず。
一番認めてほしい人にさえ、認められず。
『その絵に、俺が言うべきことは何もない。…………それだけだ』
つまり、コメントする価値もない、と、そういうことだ。
この最高傑作はプロの画家から見れば十把一絡げの塵に過ぎないということだ。
絵名の魂は、千円の価値すら生まない塵に過ぎないという。
「絶対に、見返してやる……っ!」
もう一度、絵を観た。今度は観察するように、一ドットの粗すらも見逃さないように。
けれど、分からない。理解できない。この絵のどこが悪いのかなんて、全く。
完璧に、思える。
完璧に、思えた。
そんなことは絶対にないはずなのに。
「絶対、アンタに、」
惨めな決意を、今、此処に。
「わたしの絵をすごいって言わせてやるんだから!!!」
その覚悟は、空虚に響く。
届くはずのない頂を見上げることは楽だった。
叶うはずのない夢を見ることは楽だった。
とても、
とても、
楽だった。
「わたしに絵を教えてほしい」
「二百万、それが東京美術大学がニ時間の特別公演で俺に払った額だ」
「お前はプロの画家に絵を教えてほしいのか?それとも父親に絵を教えてほしいのか?」
「彰人は黙ってて!」
「わたしの絵は、その人にとって、それだけの価値があった」
「期待してるよ、えななん」
《big》《b》第二章 それでも描き続けたのは《/b》《/big》
描いて、描いて、描いて、
描いて、描いて、描き続けた。
それで辿り着いた境地がこれか。
分かっている。これが頂、これが限界、これが終着点。
『雨雲から射す一筋の太陽光が無能少女を照らす』という絵画が、今の絵名の最高傑作。
「っ、何処が悪いって言うのよ……っ」
まるで分からなかった。この絵の悪いところが、たったの一つも。
『その絵に、俺が言うべきことは何もない。…………それだけだ』
ムカつくが、非常にイラつくが、あの画家の言っていることは正しいはずだ。あの画家は、絵名よりも遥かに優れた絵描きだ。個展も何十回と開いているし、海外からオファーを受けたこともある。日本でも有数の画家。
それが『言うべきことは何もない』と言ったのだ。明らかに見下されている。『俺が評価する価値がない』と告げられている。
だから、この絵は欠点だらけのはずだ。むしろ、そうでなければおかしい。
「配色?陰影?直線?曲線?バランス?構図?題材?視点?」
分からない。全部、完璧に思える。
色使いも、構図も、影の付け方も、人体のバランスも、『雨雲から射す一筋の太陽光が無能少女を照らす』という題材も、可笑しくなんてないはずだ。
凡才が見れば、完璧な絵。
つまり、一般人が見ればこの絵は素晴らしいモノのはずで、
けれどきっと、この絵でグランプリを取ることはできないのだろう。これはその程度の絵なのだろう。
「……ダメ、分からない。……くっ、…………こういう時は、昔の絵を引っ張り出して」
パソコンを立ち上げ、過去に作成した絵を観る。先ほど描いた絵と見比べる。何か、手掛かりはないか?何も、手掛かりはないのか。何でもいい。ヒントがほしい。プロの画家を認めさせるために、何か、何か……。
「っ、何で、何もないの!」
違う。何もないなんてことは無いんだ。
分かってる。気づけないだけ。無能で無価値な凡人が気づけないだけ。
才能がある人が見れば、きっと気づける。天才ならきっと一目瞭然。
だけど、できない。
絵名は凡人だから。天才じゃないから。
「はぁ、はぁーっ!っ、この絵のどこが、悪いって言うのよッ」
眠気なんて既に吹き飛んでいた。意識はとっくに覚醒していた。脳内でずっと、『本物』の言葉がリフレインしている。
『その絵に、俺が言うべきことは何もない。…………それだけだ』
余計なことを言わなければ、きっと気持ちの良いままでいられた。
だけど、飾った言葉で褒められて喜んでしまうだけのヤツに画家を名乗る資格はない。プロを目指すなら、本物になりたいなら、下らないお世辞で絶頂なんてしちゃダメだ。
向き合わなければならないのだ。
辛くても、現実と。
無視してはいけないのだ。
痛くても、現実を。
「くそっ、く、そ……なんで、わたしは、いつもいつもこんなッ!」
『』
「そうだ、……」
「まふゆ、なら……」
手が止まる。
『本当にそれでいいのか?』、と、
自分自身が問いかけていた。
「────────────」
きっと、まふゆに聞けばすらすらと答えてくれるだろう。この最高傑作の欠如を。
まふゆは神様に愛された天才だから、絵を描くことはできずとも、絵を評することはできる。
まふゆの今までの評価も、全て正しいモノだった。
あの時も、
『』
あの時も、
『』
あの時も、
『』
まふゆの正論は銃弾のように絵名に突き刺さり、貫いた。
「わたしに絵を教えてほしい」
「二百万」
「は?」
「二百万、それが東京美術大学がニ時間の特別公演で俺に払った額だ」
「それが、どうしたって言うのよ」
目の前の画家の発言の意図が読めなかった。
「プロの画家としての俺を二時間拘束するための、東京美術大学はそれだけの金を出した」
「…………」
「お前はどっちの俺に絵を教えてほしいんだ?画家としての俺か、父親としての俺か」
「それ、は……」
「もう一度聞く、お前はプロの画家に絵を教えてほしいのか?それとも父親に絵を教えてほしいのか?」
「っ!」
「二百万、あるわ。これでわたしに二時間、絵を教えてほしい」
「彰人、プロの画家を目指す者が決して少なくない金額で私を雇おうとしているんだ。口を挟むんじゃない」
「絵名、これは父親としての言葉だが、……これだけの金をどうやって集めた?お前に集められる額ではないはずだが」
「売ったのよ」
「何を?」
「わたしの、……絵を」
「お前の……?」
「お前の絵が、こんな金額で売れるとは思えないが」
「別に個展を開いたり、画商を通したりするだけが絵を売る方法じゃないでしょ。価値を感じた人がいて、活用する手段があれば、誰でも絵を買うことはある」
「…………」
「わたしの絵は、その人にとって、それだけの価値があった」
「二百万の価値があったのよ!」
◆
「これは投資だよ、えななん」
「っ、……K」
「期待してるよ、えななん」