リビングの扉を開く。パジャマ姿の伊奈帆はそこで一旦立ち止まり、室内をぐるりと見渡した。土曜日の朝。壁掛け時計の時刻は七時二分。カーテンは窓の端にまとめられ、朝日の淡い黄色い光がフローリングに窓枠の十字の線を描いている。
「ああ、起きたのか。おはよう」
キッチンの声と、そこから漂う良い香り。伊奈帆はパチクリと数度瞬きを繰り返し、彼にとことこ近づいた。
「おはよう。スレイン」
オープンキッチンの内側で、エプロン姿のスレインがパチリと片目を瞑ってみせた。口元には笑みも浮かび、とても機嫌が良さそうだ。伊奈帆はキッチンカウンター越しに、コンロのあたりを覗き見た。ボウルとお玉と、フライ返しとフライパン。卵とバターの焼る香りが甘く漂う。どことなく懐かしい、優しい香りの正体は。
「ホットケーキ?」
「当たり」
スレインはフライパンを数度揺すり、フライ返しで生地を裏返した。危なげのない手つきで、焼き色も綺麗な狐色。伊奈帆はキッチン前のダイニングテーブル席につき、机に頬杖をつき体をスレインの方に向けた。
「君、何時に起きたの?」
伊奈帆が聞くと、スレインはレードルを傾けつつ首を傾げた。
「何時だったかな…。目が醒めて、空が明るくなりだしたから、そのまま日の出を見てたんだ」
本を読んだりしてたんだけど、ホットケーキを作る気分になったから、とスレインは視線を生地に落として言った。
「最近は、ホットケーキ・ミックスなんてのがあるんだな」
「ああ。場所、よく分かったね」
キッチン戸棚の買い置きだ。粉物や缶詰なんかがまとめてある。
「整頓してあるから、すぐ分かった」
朝起きて朝ご飯の支度をする。伊奈帆にとって、自分が誰かにしたことは多々あれど、されたことはあまりない。新鮮で、なんだか少しむず痒い感じだ。身の置き場のない落ち着かなさ。しかし、それも悪くない。
あのスレインが、おそらく伊奈帆のために自主的に料理を振る舞うなんて、数ヶ月前までは全く想像できなかった事態なのだ。
「そろそろいいかな」
スレインがターナーで出来上がりを皿によそった。バターをひいて、次の生地を流し入れる。流れるような動作を、伊奈帆は意外に思って眺める。一緒に暮らし始めて約三ヶ月、スレインの料理の腕前は散々なものだと思い知っていたところだったので。
「ホットケーキは上手だね」
つい、思ったことをそのまま口に出してしまった。言った後にこの言い方は無かったな、と伊奈帆は自分でもまずいと思ったのだが、スレインはそれに対して小さく笑ってこう言った。
「ホットケーキだけ、はな。これだけは小さい頃から、飽きるくらい作って一人で食べたから」
スレインが気泡が浮かぶ生地に目線を落とし、肩をすくめて息を吐く。
「一人で?」
伊奈帆はそれを聞いて、かつて作った料理や部屋の匂いがぼんやり脳裏に浮かんできた。一人で、自分の食事を作って食べたこと。味はあまり覚えていない。多分当時の自分には、それはどうでも良かったことなのだろうと思う。
「ああ、でも一度だけ、お父さんに作ってあげたことがあったな」
スレインは生地をひっくり返してコンロの火加減を調節した。伊奈帆の位置から、少し屈んだ彼の胸の辺りで銀の鎖が朝日を受けて光るのが見える。
ホットケーキの焼ける匂い。甘くて、少し香ばしい。
「でも、失敗した。いつもの通りに作ったつもりが、全部焦がしてしまったんだ」
なぜだか分かるか?とスレインが伊奈帆に視線を向けた。伊奈帆は頷き、こう答える。
「砂糖を入れすぎたんでしょ?」
伊奈帆も身に覚えがある。砂糖を入れすぎて焦げて黒くなっただし巻き卵を食べたこと。
「当たり。せっかくだから、甘くて美味しいホットケーキを食べてもらおうと思ったんだけど。失敗した」
スレインがフライパンをリズミカルに揺らし、大きく前に突き出した。慣性の法則で生地はフライパンのカーブに沿って上へ向かい、宙返りして皿の上に着地。
「お見事」
伊奈帆がぱちぱち拍手をすると、スレインは照れ臭そうに八重歯を見せて笑った。
「真っ黒焦げのホットケーキを、お父さんは美味い美味いって食べてくれたんだけど」
スレインが次の生地を広げ、僕が誰かにホットケーキを焼いたのは、と独白のように呟いた。
「後にも先にも、あの一回きりなんだ」
明るい朝のキッチンに、バターと光が黄色く溶ける。ダイニング・テーブルの木目と傷を伊奈帆は見、そこにこれから並ぶであろう黄金色のホットケーキの意味を思う。
本当は、父親に食べさせたかったのだろう。また作る、と約束したのかもしれない。彼の無数の、心残りの一つだろう。
「僕、ホットケーキが好きだよ」
伊奈帆は言って、スレインを見る。俯き加減で目だけでちらりと上目見て、スレインはフライ返しを手に持った。
「そんなに甘くないぞ、これ」
照れているのだろう。伊奈帆は床から足裏を浮かせて、前後に足をぶらぶら降った。行儀は悪いが、たまにはこういう子どもっぽいこともしてみたい。
「甘さは、十分だよ」
スレインがホットケーキをまた空中でひっくり返し、寝癖頭の観客からブラボーの声がキッチンに飛んだ。