「傘を忘れたんだ」
放課後。上履きを持つ右手を下駄箱に突っ込んだ状態でスレインは動きを停止し、唐突な一言を発した相手に顔を向けた。クラスメイトの界塚伊奈帆が、常からの無表情で学生鞄をリュック背負いこちらを見ている。
「そうですか」
スレインは伊奈帆の反対側に顔を向け、昇降口の向こうの天気を確認する。そして首を巡らせ伊奈帆に再び顔を向ける。
「あの、だからなんですか?」
「君の傘に入れてくれない?」
間髪入れずに伊奈帆が言って、上履きを脱ぎ外履きに履き替えた。スレインは靴を持つ手もそのままに、外の景色を再び眺める。十一月の冬空を、渡り鳥が横切った。
「でも、雨なんて降ってませんけど」
からっからの晴天には程遠いが、寒々しい曇天からは雨のほんの一雫さえも落ちていない。
雨が降っているのなら、傘に入れてと言うのも分かる。たとえそれが、男二人の相合傘でも。しかし今、雨は全く降っていない。日ごろから変わり者だと思っていたが、先程の一言も例に漏れず難解である。
伊奈帆は、はあ、と大袈裟に溜め息を吐き出し、仁王立ちで腕を組んだ。実に堂々とした立ち姿。こっちが何か、変なことを言ったような気分になる。
「天気予報では、午後の降水確率は八〇%。今は確かに雨は降ってないけれど、そのうち降り出すかもしれない」
だから、と伊奈帆は視線を玄関手前の傘立てに向けた。疎らな傘の立ち絵の中に、一際大きな蝙蝠傘が一つある。
「君の傘に入れてくれない?」
傘を忘れて、傘の間借りを申し出る者の態度としては天晴れな図々しさである。
「別に、構いませんけれど…」
スレインは疑問符を頭上にポンポン発生させつつ、ひとまず靴を履き替える。ローファーの爪先をコンコン床に打ち付けて、伊奈帆の近くに歩み寄る。数センチの身長差から、大きな橙色の瞳を見下ろしスレインは小首を傾げた。
「でも、天気予報を見たのに、どうして傘を忘れるんです?」
スレインにしては鋭く、そして的を得た一言だった。それを聞いた伊奈帆は無言で一度外を見て、数秒の後、スレインに向け口を開く。
「そんな日もあるよ」
そらっとぼけた台詞をいけしゃあしゃあと吐き出して、伊奈帆はそれで、と言葉を続ける。
「傘に入れてくれるの?くれないの?」
スレインは伊奈帆の顔と傘と空へと順繰りに視線を送り、肩を竦ませ息を吐く。こうなっては、何を言っても無駄だと言うのは短い付き合いだが骨身に沁みて知っている。傘立てに近づき、自分の傘を抜き取った。他の傘より大きく丈夫なこの傘は、二人分には少し狭いが事足りる。
「雨が降ったら、入れてあげます」
昇降口から足を踏み出すスレインに、伊奈帆が小走りに駆け寄り隣に並ぶ。
「サンキュ」
同じ歩幅で校門に向け歩きつつ、スレインは何度も空を見上げてみる。
「でも、雨なんて降らないんじゃないですか」
降り出す気配は全くない。
「それならそれで、濡れずに済んでいいじゃない」
肘が触れ合うくらいの距離で、足取りも歩く伊奈帆が言った。