ざあざあ。じゃぶじゃぶ。ごうごうと。洗面ボウルの白いカーブを透明な水流が渦を描いて排水溝へと吸い込まれる。
「…ぅ、が、…はぁっ、…ぁ」
擦る背は汗でびっしょり濡れたシャツが張り付いて、背骨の凹凸の硬い感触は不気味な熱さを帯びている。伊奈帆は、見下ろす項の脊椎の在り処と浮き出た青い血管に眉を寄せた。
「…はあ、はぁ、…もう、大丈夫、…だから」
途切れ途切れのか細い声は、とても大丈夫だとは思えない。しかし、背をさすり憐れむような行動が、きっと彼には耐え難いのだとはよく分かる。だから伊奈帆は、スレインの背から手を離し、プラスチックの収納ケースの引き出しから、乾いたタオルを取り出した。
「はい」
できる限りそっけなく、片手でタオルを差し出すと、スレインは肩で息をしつつそれを受け取り口を拭った。蛇口は、激しく音を立てて今だに水を放出している。排水溝に吸い込まれていった水と、栄養になり損ねた野菜と肉と穀物の成れの果て。
「…悪いな」
スレインがタオルで顔を覆ったまま、ぽつりと小さく呟いた。音声のほとんどはタオルの生地に吸い込まれたが、現れ出た彼の心情だけははっきり伊奈帆に届いた。
「せっかく、作ってくれるのに。いつも」
くぐもった声を聞き、身体を支える彼の手の、洗面台に食い込むほどに力を込めた白い指先を見る。込められているのは憤り。思うようにいかない自分の身体への、不甲斐なさと怒りだろう。気にするな、無理をするな、謝らなくていい。そんな気休めの言葉は、一層彼を追い詰めてしまうに違いない。だから伊奈帆は何も言わない。青褪めた頬の薄さ、落ち窪んだ目の隈の黒、白いばかりの骨が透ける手首の形。
食べるということ。
眠るということ。
ただ呼吸を繰り返し、今ここにいるという
こと。
ただ、生きること。
全ての命あるものの本能が、彼には、人には、これほどまでに難しい。未来を想像する力を持ってしまった人間のうち、明日を失い未来を奪われた人間の業だ。
救いとは、救うとは、言葉で言うほど簡単じゃない。死んだら終わりだ。しかし、生きることが死を上回る苦痛なら、生きる意味などあるのだろうか。
「いっそ、死んでしまいたいと思ってる?」
ついて出たのはそんな問いで、伊奈帆は自分の発言をまるで他者の言葉のように茫然と聞いた。
蛇口の水音が遠ざかる。
換気扇が唸りを上げて時を刻む。
蛍光灯が一切の容赦無しに照らし暴く。
色彩がくすみ、白と黒の世界に落ちる。
色を失い時が止まる沈黙が続く。
「…伊奈帆」
やがてスレインが伊奈帆の名を呼び、ゆっくりと伊奈帆に顔を巡らせて、二人の瞳が交錯する。
感情の凪ぐ、ガラスのような透き通る虹彩の、星のような罅割れ模様が、瞳孔の収縮で万華鏡のように鮮やかに散る。
碧玉のプリズムが織りなすのは、彼の世界の捉え方だとしたら。
なんという美しい、しかし寂しい世界だろう。
静かな呼吸を繰り返し、紫色をした唇がナイフの一閃のように薄く左右に開く。
「お前さえいなければ、僕はとっくに死んでいた」
三文役者の泣き笑いのような不自然に歪む表情で、スレインは言う。
「お前が生きているうちは、死に損ないも悪くない」
死に損なって、無様に生き損なうのも悪くはない、と。