同じクラスである灰原哀の欠席が続いているので、彼女の幼馴染ともいえる光彦がプリントを届けていく事となった。
夏服への衣替えが行われる前の季節。蒸し暑さのなかで、男子生徒の大半が学ランを脱ぎ棄てている。品行方正な光彦も気温の上昇に伴う不快感には勝てず、白いシャツのボタンを一つだけ外し、だけどだらしなくならないようにシャツの裾はきちんとズボンの中に入れて、学校指定の鞄を肩にかけて昇降口で靴を履き替えた。
外に出ると西陽が強く校舎を射し、グラウンドからは野球部の掛け声が聞こえる。小学生の頃から仲のいい元太は柔道部に所属していて、きっと今日も自主トレに励んでいるに違いない。そんな事を考えながら、哀に渡すプリントの存在を忘れないように光彦は正門を出た。
灰原哀は家庭の事情により阿笠博士の家で暮らしている。それは七年前に転校してきた頃から変わらない。小学生の頃こそ少年探偵団と呼ばれた仲間で阿笠邸に集まって、博士の発明したもので遊んだり宿題をしたり悪だくみを考えたりしたものだが、いつの間にかそんな日々も遠くなっていった。五人で集まらなくなった理由の一つに、少年探偵団の中心にいた江戸川コナンの不在がある。
車もほとんど通らない道を歩き、門の前に立つ。慣れた手つきでチャイムを押すと、玄関のドアから哀が顔を覗かせた。
「あら、円谷君。どうしたの?」
白い短パンに七分そでの紺色のニットを着る彼女は、とても中学生には見えない雰囲気を醸し出している。それも昔から変わらない。不思議そうな表情を浮かべた哀はドアを開け、光彦に中に入るか促すが、「どうしたの?」はこちらのセリフだ。一応病欠となっているはずの彼女がその嘘を隠そうとしないあたり、光彦を信用してくれているという事だろうか。
あまり哀と話す事のない他のクラスメイトに対して小さく身勝手な優越感に浸っていると、
「誰か来たのか?」
奥にあるリビングから男の声が響き、光彦はソファーに目を向けた。
見覚えのある姿がこちらを向いて怪訝な顔をしていたと思えば、光彦を認識してから表情を変えた。
「ああ、光彦か。久しぶりだな」
「……こんばんは」
書類を手にしながらソファーで優雅にコーヒーを飲んでいる彼は、工藤新一というちょっとした有名人だ。新一の住む豪邸は阿笠邸のすぐ隣にあり、阿笠博士とも親しいので、ここにいることは何ら不思議ではない。不思議ではないのだが、頭をかすめる違和感を振り払うように、光彦は鞄からプリントを取り出した。
「灰原さん。学校のプリント、テーブルに置いておきますね」
キッチンに入った哀に声をかけると、コーヒーを淹れながら哀は振り返り、ありがとう、と小さく微笑んだ。いつも無表情で過ごしている彼女の微笑みはとても特別なもので、光彦の心を揺さぶった頃もあったが、今はもうそんな事はない。というより、彼女を欲しても傷つくだけだと本能的に察知してしまったのだ。だから今もただの幼馴染として、ただのクラスメイトとして、二人の距離は変わる事ないし、変えるつもりもない。
哀はマグカップを光彦に渡し、ソファーに座るように言った。新一がいる手前、なんとなく居心地が悪かったが、新一から離れた場所に座り、コーヒーを口に含む。コーヒーを飲むようになったのは中学生になってからだった。子供の頃から興味はあったが、厳しい両親がそれを許さなかった。大人の飲み物であると教えられたコーヒーに憧れた理由は、今はもうここにはいないコナンがよく飲んでいたからだった。
光彦は、難しい顔をしながら資料に目を通す新一をこっそりと盗み見る。工藤新一と少年探偵団の関係はそれほど近いものでもない。小学生の頃に世話になった毛利探偵の一人娘と幼馴染だという事、そして江戸川コナンと遠い親戚だという事。そのくらいの繋がりなので、むしろ彼が光彦の名前を覚えている事に感心を覚えたほどだ。さすが世間を賑わす、有名な名探偵だ。
「博士はどこですか?」
テレビもついていない静かなリビングの空気の中。想像していた居心地の悪さは予想通りで、それを誤魔化すように哀に声をかけると、意外な答えが返ってきた。
「ああ、博士は数日間出張に行ってるの。だから朝起きられなくて、学校を休んでしまって。手間をかけて悪かったわね」
哀が肩をすくめて自分の分のコーヒーも持って新一の前に座る。
光彦は呆気にとられた。哀が堂々と学校をズル休みしている事に対してではなく、博士の不在にだ。阿笠博士がいないということは、新一は何の為にここにいるのだろうか。
「灰原、ちょっとこの資料を見てくれ」
ふと顔をあげた新一が、目の前に座る哀に資料を渡した。
「被害者の死亡時刻と、死亡する前に飲んだと思われる薬物入りのジュース。その時間差、おかしくねーか? この薬の半減期はどの程度だ?」
淡々と述べられた新一の言葉に、懐かしさを覚えた。飲み込んだコーヒーがゆっくりと胃壁に沁みていく。
少年探偵団は一時期、殺人事件に巻き込まれるほど活動を重ねていた。それらのほとんどは偶然だったが、探偵団が解決した事件は数知れない。解決したのは主にコナンの活躍によるものだった。
血生臭い現場に遭遇した事も、大人同士の因縁や理不尽な争いを間近で見てしまった事も、それらは混沌と黒い感情をもって光彦達の心を呪いそうなものだったが、コナンと、そして哀のおかげで大したトラウマにならずに済んでいる。
哀はいつもコナンの隣にいた。いつだってコナンを支えていた。それに気付き、光彦は子供ながらに実り始めた恋心を封印する事にしたのだ。
「確かに、工藤君の言う通りね」
資料の内容を確かめ合う二人の光景に、光彦は目を見張った。
彼らはそんなに親しかっただろうか。光彦は灰原哀と工藤新一の関係を考える。これまでの記憶を辿っても、二人がこのような話をしているところを見た事ないし、二人が親しいと聞いた事もない。二人が醸し出す雰囲気はただの隣人には思えず、年齢差があるにも関わらず対等な彼らを見て、光彦は生唾を飲み込んだ。
まるでコナン君と灰原さんみたいだ、と思った。
例えば小学校からの帰り道、事件に遭遇した時、二人は肩を寄せ合って他の仲間には分からないような話をしていた。時には眉をしかめて何かに追いつめられている表情を浮かべている事もあった。二人の信頼関係は他人には測れ知れないものだっただろう。
――今の二人のように。
「灰原さん、コーヒーご馳走様でした」
光彦が席を立つと、哀は顔をあげた。
「わざわざ来てくれたのに、大したお構いもできずごめんなさいね」
「いえ……」
かぶりを振りながら、光彦はちらりと新一を見る。すると視線に気付いたのか新一もソファーに座ったまま光彦を見上げ、目を細めた。
「またな、光彦。気をつけて帰れよ」
姿も声も違うのに、遠い記憶の中にいる元幼馴染のような笑顔に、光彦は目を逸らしながらうなずき、阿笠邸を後にした。
不穏さが胸を広がる。日頃は引きずり出される事もない記憶が光彦を襲う。少年探偵団が活動しなくなった理由。突然いなくなった江戸川コナンの姿が、脳裏を揺るがす。蒸し暑い空気が、鼻腔に触れた。
今コナンはどこにいて、どんな暮らしを送っているのだろうか。一度浮かんだ姿は消えず、無性に彼に会いたくなった。