――おはよう。
午前七時半。今日も机の上でスマートフォンが震えたのと同時に、スリープ画面に文字が映し出された。メッセージアプリ内の、吹き出しの中の四文字。制服のネクタイを結んだ私は、四角い画面を指で辿る。やがて表示された時間に気づき、慌ててニットカーディガンを羽織ってスマホを手に取った。
――おはよう。
忙しない朝の、他愛のない挨拶。私はスニーカーを履いて玄関のドアを開ける。五月の空が鮮やかな青色を放って世界を覆っている。ふっと息を吐いた私は、地下鉄の駅まで急ぐ。今日もきっと頑張れる。
トキオと名乗る男子高校生と挨拶を交わすようになったのは、一か月半前の事だ。好きなロックバンドの情報を得るために始めたSNSで、何気ない一言からメッセージを送り合うようになった。初めの頃こそ、バンドを好きになったきっかけや好きな曲、他によく聴く音楽アーティストの話などで盛り上がったが、そのテンションも次第に落ち着き、今はとりとめのない会話を一日に数往復やり取りするだけの日々。それでも、トキオは必ず朝の挨拶を送ってくれた。それにはきっと、トキオなりの気遣いがあった。
地下鉄の駅のホームは、人工的に作り上げられた仮想空間のようだ。ここには季節を思わせる鮮やかな色はなく、だからこそ宣伝を兼ねた派手な車両がホームに滑り込むと、色合いのギャップに目がちかちかとした。
後方から三両目のドア付近が私の定位置だ。通勤通学の乗客は暗黙の了解で、自分の乗る車両や座る座席をいつの間にか決めている気がする。まるで自分の居場所を探しているみたいに。だから、七人掛けシートに座る乗客やつり革に捕まっている乗客の顔ぶれはだいたい決まっていて、一言も話した事ないはずの彼らと顔見知りになったような錯覚さえ覚え始めていた。
私は視線を動かして、今日も定位置に立つ男子高校生を覗き見る。私の定位置と反対側のドアの横に立って壁に寄りかかり、白い大きなヘッドホンを耳に当てている彼は、私の通う高校よりさらに二駅向こうにある男子高の制服を着ている。何を聴いているのかな、という興味と共にいつの間にか私は彼の存在を認識していた。学ランの襟元が涼しげなのは、彼が長身だからか、姿勢がいいからなのか。染めていない黒髪が、車内の蛍光灯を受けて光っている。日を浴びたら別の色を反射させるのだろうか。わずか三十分、地下を走る窓に映った彼の姿を、私は息を潜めるようにして眺めている。
高校一年生、進学した先で私は入学当初から躓いてしまった。タイミング悪くインフルエンザに罹患し、入学式やその後に行われるオリエンテーションに参加できなかったのだ。回復後に通い始めたクラスでは、すでにグループが出来上がり、そこに私の居場所は残されていなかった。
トキオと知り合ったのは、ちょうどその頃だ。
――そういえば菜子が教えてくれたプレゼント、この前買って来たよ。ありがとな!
その日の夜、英語のリーディングの予習をしていると、ペンケースの横に置いてあったスマホがメッセージを知らせた。菜子というのは私がSNSで使っているニックネームで、私達は同い年だという事が分かると互いを呼び捨てで呼び合うようになっていた。
――無事に買えてよかったね。いつ渡すの?
――次の土曜日。彼女の誕生日なんだ。
吹き出しの中の文字をじっと見つめた私は、頭の中にある少ないボキャブラリーの中から、ぴったり当てはまるような言葉を探していく。
トキオから彼女へのプレゼントの相談をされたのは、先週の事だった。それまで彼女の存在を匂わせなかったトキオに対して、私はどこか裏切られたような、置いてけぼりにあったような、複雑な感情を抱いた。でもよく考えてみれば、趣味で知り合ったトキオが私に恋人の存在の有無を知らせる義務はなかったはずで、私に対して何の仕打ちをしたわけでもない。ただ私が、手のひらにある四角いスマホに対して身勝手な焦燥感を覚えただけだ。同い年だという男子に、先を越されたような気がして。
――彼女、喜んでくれるといいね。
ようやく引っ張り出した言葉が、あっけなく画面に打ち出される。ピロリン、と間の抜けた音と共に、吹き出しマークに文字が浮かび上がった。
高校という場所は、中学校よりもずっと自主性を重んじられるらしい。
地理の授業で課題を出された。グループを組んで、各地方の郷土歴史と特産物を調べて発表をしなければならないらしい。しかし、中学生の頃のように過保護にグループを組まされる事もなく、授業が終わった途端、教室内ではさっそくグループ決めが始まっていた。女子同士、男子同士、目立つ運動部に所属している子達は男女で集まって、大きな声で笑い合っている。
私は閉じた教科書とノートを重ねて手に持ち、角を合わせるように机に叩く。トントン、トントン。教室の中には四角いもので溢れている。薄い罫線の入った黒板、落書きの消えない机、チャイムを鳴らすスピーカー、そういえば窓もドアも、教室そのものも四角で形成されている。昔にはあっという間に感じた休憩時間を、ひどく長く感じた。他に動作を忘れてしまったかのように、私は教科書とノートを叩き続ける。周囲の声が、鼓膜に張り付いて離れない。
学校帰りに見たSNSで、好きなバンドが新曲を出すニュースを知った。トキオも知っているだろうか。メッセージアプリを開くのと同時に、ホームには電車が埃臭さと共に入ってきた。
帰りの電車は朝よりも空いている。私は七人掛けシートの端に座り、スマホを手に持ちながら、ふと視線を動かした。
ちょうど目の前の座席シートの真ん中で、朝によく見る男子高校生が、ヘッドホンをしたまま眠っていた。空気を吐き出すような音と共にドアが閉まり、電車が動き出す。揺れる振動と共に、少々傾いた彼の前髪がわずかに揺れる。ドアの窓越しではなくて肉眼でその姿を見る事ができたのは、彼が眠っているからだった。
朝とは違い、夕方の電車の中には様々な人々が乗っている。通勤通学以外の、買い物帰りの主婦、塾に通う小学生、行き先を共にするカップル。この四角い箱の中には、人の数だけドラマがあるのだろう。きっと、ヘッドホンをしたまま眠っている彼にも。
ガタンゴトン。規則正しく刻まれていたリズムは形を崩し、変わる風圧と共に次の到着駅が近づいてきた事を知らせる。ドアが開くと、杖を突いたおばあさんが乗って来たので、私は立ちあがって席を譲った。白髪を綺麗にまとめたおばあさんが、ありがとう、としわくちゃの顔で笑った。どういたしまして、と答えられるほどの社交性を持ち合わせていない私は、曖昧に微笑んで、ドアの前に立った。朝と同じ感覚と共に、足元に振動が生まれていく。再び電車が動き出し、闇を映す窓は鏡のように車内を照らす。
ふと視線を感じた。窓越しに目が合ったのは、ヘッドホンの彼だった。いつの間に起きていたのか、腕を組んだまま、ぼんやりとこちらに視線を向けているように見えたけれど、きっと気のせいだ。大丈夫、君は乗り過ごしたりなんてしていない。心の中でつぶやきながら、私は窓から意識を逸らす。再び、線路の音がリズムを整えていくのを感じながら。
ロックバンドの新曲発売について、トキオは子供のようにはしゃいでいた。互いの持っている情報を出し合った後、トキオはさりげなく私に学校の様子を聞いてきた。地理の課題について私がありのまま話すと、トキオは親身になって、ありとあらゆるアドバイスをしてくれた。でも、それらを簡単に実行できるのであればきっと私は悩んでいなくて、それをトキオも知っていた。月並みな事しか言えなくてごめん、と言うトキオの優しさに触れるだけで、鉛の詰まったような息苦しさが少しだけ浄化される。明日も頑張ろうと思える。
顔も声も知らない相手から、こうしてエールを受け取って自分を奮い立たせるのはおかしいだろうか。
――トキオは優しいね。
トキオの優しさに触れると、泣きたくなる。同じクラスにトキオがいたらいいのに、と思ってしまう。トキオの言葉は私の原動力で、だけど教室に入ってしまったら、冷めた空気に朝から夕方まで身を置かなければならない。沈殿しそうな感情を持て余しながら、自分の席で教科書やノートを睨み続けるだけの時間。
――そんな事ないよ。本当の優しさって、こんな言葉だけで表せるものじゃない。
ピロリンという電子音と共に、トキオの言葉が表示される。私は少し考えて、タップする。
――じゃあ、トキオにとって優しいって、具体的にどんな事?
――例えば、電車で席を譲るとか。
心臓がうずくように脈打った。タイミング的にシンクロした言葉に、私は自嘲する。電車通学であればどこでも見かける光景を、きっとトキオは適当に言ったにすぎないのだろう。
――例えば、見知らぬ人の定期を拾ってくれるとか。
トキオの優しさに浸っていきながら、トキオの彼女はこの言葉の温もりを独り占めしているのだろうか、と想像する。だから、私は角を落としていきそうな心に急ブレーキをかける。甘えすぎてはいけない。
緊張感を失った週末の朝は、穏やかさに満ちている。居場所のない教室に行かなくてもいいという事は、こんなにも呼吸がしやすい。
――おはよう。
いつもよりも遅めの時間にメッセージが入り、私はベッドに寝転がったまま返事をする。
――おはよう。彼女とのデート、楽しんで。
トキオが彼女にプレゼントを渡す土曜日。午前十一時。私が助言したプレゼントは、女の子に人気の商品だからきっと彼女も喜んでくれるだろう。今日がトキオにとって素敵な一日であるように、と私は願う。意識的に、それ以外の感情を胸に落とさないように。
特に予定のなかったその日の午後、私は好きな曲を聴いて過ごした。ネットで配信されている動画を見ていくと、トキオが好きだと言っていた曲が動画運営サイトにおすすめされた。ミュージックビデオとともに綴られていく音楽の世界。息苦しい日常を忘れさせてくれる一人の時間は、私の心を解放して空っぽにしてくれるはずなのに、なぜかトキオの言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる。トキオの好みの音楽ばかりがスマホで流れているからだろうか。
午後五時。動画を流していたスマートフォンにメッセージの通知が入り、私は思わず両手でスマホを掴んだ。不自然に途切れた音楽の世界よりも、受け取ったメッセージの方が大切だった。トキオからだった。
――だめだった。
絵文字もスタンプもない、平仮名だけの文字。何度読み返しても変わらない。どうして、何があったの、プレゼントを渡せなかったの? 沸き上がったいくつもの疑問が、たった一言に凝縮した。
――今、どこにいるの?
ネット上で知り合った人に深く関わりすぎるのは危険だと知っていた。だから、私達は暗黙の了解で住んでいる場所や学校名などについては触れなかったし、プライベートに踏み込みすぎる事をタブー視していた。
なのに、思わずルールを破って居場所を訊ねてしまった私に対して、トキオは思いがけない駅名を答えた。そこは私の自宅の最寄り駅だった。私はミニショルダーバッグを肩に引っ掛けて、外に飛び出す。足元はいつものスニーカーだ。手に持っているスマホが汗で滑りそうになるのを堪えながら、私は走る。地下鉄の駅のホームにいるとトキオは言う。五月の終わり、湿度を撒き散らした夕方。私は地下への階段をおりていく。地上からの風が、澱んだ空気を流していく。
目印は白いパーカと赤いスニーカー。指定されたホームのベンチに近づくと、確かにそこには長身の男子が座っていて、流動的に人々が動き続けるホームでその姿は違和感を放っていた。私はゆっくりと近づき、目を見張る。
「菜子?」
先に口を開いたのはトキオだった。私は突っ立ったまま、トキオの目の前で声を出せずにいた。途端にショルダーバッグが存在を示し、肩に負荷がかかる。
彼は、私が毎朝見ていた白いヘッドホンの男子高校生だった。
「……私を、知っていたの?」
彼がSNSでやり取りしているトキオであるという確認もすっ飛ばし、私はトキオを見下ろす。人工的な光を浴びた黒髪は、電車の中で見る色とはわずかに違った。
「ごめん」
短い謝罪は肯定だ。私はこの一か月半の、四角い画面での出来事を思い出す。SNSでのコメント、トキオとのメッセージのやり取り、いつの間にか毎朝の挨拶も日課になっていた。
トキオの手元には、私が勧めたルームウェアブランドのショップ袋があり、ますます私は眉根を寄せる。心臓が不自然に動いて、喉の奥をやけどしそうだ。
「菜子、覚えてる? 俺は、電車で定期を拾ってもらった」
ベンチに座ったまままっすぐに見上げてくる眼差しに、覚えがあった。トキオがデニムパンツのポケットから定期入れを取り出す。そこには、私達の好きなバンドのステッカーが貼られている。
初めて高校に登校したのは、入学式から六日が経った朝だった。輝かしい高校生活への期待を疑いもしなかった私は、買ったばかりの定期を持って地下鉄に乗った。後方からの三両目。その日は早朝からひどい雨が降っていて、そのせいか車内は混み合っていた。人々の持つ傘のせいで真新しいプリーツスカートが濡れていく不快感に小さくため息をついていると、人影の向こうに立っていた男子高校生が急にしゃがみ込んだのが見えた。
気分でも悪くなったのだろうか。しかし、その疑問はすぐに否定に変わった。彼が何かを探している事に気づいた私の視界の端の足元に、定期入れが落ちていた。手に取ると、私の好きなバンドのステッカーが貼られていて、それは少し濡れていた。
『あの、探し物ってこれですか?』
人を掻き分けて彼に近づき、定期入れを見せた私に、しゃがんでいた彼はまっすぐに私を見つめた後、大きく目を見開いた。
『ありがとう……』
周囲の乗客が迷惑そうにしているのを詫びながら、彼はゆっくりと立ち上がった。あっという間に目線の高さが変わった彼は、緊張した面持ちをくしゃりと崩して、私に笑った。視線と同じ、まっすぐに澄んだ声色が印象的だった。いいえ、とかぶりを振った私は、やがて揺れる車体と共に、乗客に紛れながら頭の中でリズムを刻んだ。狭い車内では視線のやり場が分からず、うつむく事以外をできなかった。
リズムの速度が落ちていく。私は人の流れに乗るようにして、高校の最寄り駅で下車した。周囲は自分と同じ制服を着ている高校生で溢れていて、ふと不安に駆られて振り返ったけれど、すでに電車が発車した後で、先ほどの高校生の姿を見る事はできなかった。
彼がどこの学校の制服を着ていたか、確認する事もできないまま。
「あの時の高校生がトキオで、普段はヘッドホンをしていた……?」
「菜子、俺に全然気づかないんだもん」
苦笑を滲ませたような表情を浮かべたトキオは、やがて視線を足元に落とした。
「その日、菜子はSNSでステッカーの話をしていた。定期入れを拾った話も。半信半疑だったけれど、もしかしてって思ったんだ」
つい先ほどまでは流れていたはずの人々の姿が再び集まり出した頃、ホーム内では恒例の放送がかかった。黄色い線の内側までお下がりください。
初めて登校した日は散々だった。クラスメイトは入学早々に欠席をしていた私に対して一時的に興味を持っただけで、その好奇心は見えない一線を作り、私は見世物のように置物になっていた。私は誰にも話しかけられる事なく、すでに進み始めていた授業についていくだけで精いっぱいだった。
その日の夜、悲惨な高校生活一日目から現実逃避をするように開いたSNS。朝に見た光景を、そのまま文字にした。拾った定期入れにファンクラブ限定のプレミアステッカーが貼られていた件について。それに対してコメントを寄せてきたのがトキオと名乗る男子高校生だった。俺もそのステッカーを持っているよ。
トキオは、きっと最初から隠すつもりも騙すつもりもなかった。
「菜子は俺を優しいと言ったけれど」
軽やかなメロディーと共に、車両がホームへとやって来る。
「俺は、菜子の優しさに元気をもらったよ。床に落ちて濡れた定期入れを、新しい制服の裾で拭ってくれた。困った人に席を譲っているのを見て、菜子も大変なのに、優しいんだなって見てたよ」
轟音と急ブレーキ音の響き渡る密閉されたような空間で、トキオの声はやはり澄んでいた。吹き込んできた風が、私達の前髪を揺らす。人々が動き出し、ホームに佇んでいた空気が動き出す。
「トキオ」
私は視線を落として、トキオの手元を見た。
「プレゼント、渡せなかったの?」
私が訊ねると、トキオは両手でショップ袋を持ち直し、ふっと目を伏せて自嘲した。
「こんな気の利いたプレゼントを、誰に聞いて選んだの? って」
「……どういう事?」
「他に女がいるって思われたみたい。でも菜子のせいじゃないよ。ちゃんとフォローできなかった俺が悪い」
先回りして私のせいじゃないと明言するあたりが、トキオらしいと思った。トキオの事なんて、趣味の音楽関連の事以外何も知らないのに、おかしな話だ。
電車の中で見るよりも白く見えるトキオの頬には、睫毛の影がくっきりと映っていて、儚さを増していた。当然だった。他愛のない挨拶を無条件にできる相手を、トキオは失ったばかりなのだった。
見た事もない自分の心臓の形を辿るように、私は小さく息を吸い込んだ。
「トキオ、私は明日からも、おはようって言っていい……?」
身体中に脈動を送り続ける血管が透けて見えない事を祈った。ゆっくりと顔をあげたトキオは、両手でショップ袋を持ったまま立ち上がる。その身長差に既視感を覚えた。見上げる視線の高さは、一か月半前の混み合った電車の中での出来事を彷彿させた。
「時岡俊」
短く述べられたそれが、トキオの名前だと気づくまでそう長くはかからなかった。
「山岸香菜子」
私が答えると、かなこ、と一文字一文字を丁寧に紡いだトキオが、はにかむように笑った後、ありがとう、と言った。腕の中のショップ袋がくしゃりと潰れるのもお構いなしで小さく笑う彼は、今まで私が見てきたヘッドホンの男子高校生とも、何度もメッセージをやり取りしてきた男子高校生とも違う、これまでになかった表情を見せてくれて、でも確かに私の知っているトキオだった。
六月になり、衣替えの行われた制服の袖元がくすぐったい。夏服になったからと言って季節が突然変わるはずもなく、日々は大きな変化を遂げず、しかし確実に時間は流れていた。日の入りの時間が遅くなっていくように、太陽の傾きが高くなっていくように、そこには確かな変化が存在している。
「おはよう」
実際にトキオと出会ってから、私達は車内でも挨拶を交わすようになった。朝の通学電車の私の定位置は、トキオの横に変わっていた。バンドの話題の他にも、学校や家族の話など、以前よりもプライベートの内側に近づいた話題を、少しずつ織り交ぜていけるようになった。
ドアの窓には相変わらず地下の闇が映っている。やがて、私の下車駅が近づいてくる。
「香菜子」
トキオが私の手首を掴んだ。半袖からはみ出たトキオの腕は、私のものよりもきっと筋肉量が多い。太くはないけれど細くもない男の人の腕に、喉が発声を忘れる。
「行ってらっしゃい」
そしてあの日から、先に電車を降りる私に対して、トキオの挨拶が一つ増えた。なだらかなブレーキと共に、電車が小さく揺れる。アナウンスと共に開いたドア。私はトキオを見上げて、眼差しに答える。
「行ってきます」
触れられた手首の熱が、私の背中を押してくれる。今日も一日、頑張れる。
六月の湿った空気を入れ替える為か、最近では授業のない時間には教室のドアが開かれたままだ。上履きを履いた足で教室に近づくと、男子達の大きな笑い声が廊下まで聞こえてきた。私は深呼吸をしてから、教室に入った。
まっすぐに並べられたいくつもの四角い机は、よく見るとどれもわずかに違う。色や形、落書きや傷。それらを一時的に所有している生徒達と同じように、大きな個体の中にはさらなる個体が存在している。
集まってスマホゲームで盛り上がっている男子のグループの横を通り、私は席についてリュックを置いた。一番窓際の列の、後ろから四番目の私の席。いつもは私よりも登校の遅い後ろの席の女子生徒が、暇そうにスマホを弄っている。リュックから教科書を取り出した私は、もう一度深呼吸をして、生唾を飲み込み、首を後ろに向けた。
「おはよう」
突然の私の挨拶に驚いたのか、後ろの席の彼女は目を見開いた後、おはよう、と返した。ピンク色の小さなバレッタで留められた前髪がぴょこんと跳ねていた。
「てか、入学式からしばらく休んでたよね? なんで?」
「あの、インフルエンザにかかっちゃって……」
「えー、まじで! 超大変だったんじゃん? てか、地理の課題決めてる? よかったら一緒にやんない?」
ピンク色のバレッタの女の子から放たれる雑な口調が、胸にじわりと染み渡る。私は必死に首を縦に振り、ありがとう、と何度もうなずいた。
すぐ横にある窓に映し出された空は鮮やかな色を持ち、朝の光を惜しみなく教室を照らしている。私はリュックに入ったままのスマートフォンを思う。無機質にも思える四角い世界には、様々な色が混ざり込んでいた。そこではたくさんの挨拶が、言葉が、日々を照らしていた。
――ねえ、トキオ。
私は頭の中で文字を打つ。授業が終わったら、今朝の出来事をトキオに報告しようと思う。トキオのおかげで小さな一歩を踏み出せたんだよ、ありがとう。
教室に充満していくクラスメイトの熱を浴びながら、私は頬杖をついて黒板を眺める。角が取れて少しずつ曲線を描き始めた感情とともに、トキオへのメッセージを考える。そして、また明日の朝には、おはよう、と言うのだ。いつもと同じように、いつもよりも笑顔で。