すべからく生物には、活動するための適正環境というものがあるという。哺乳類も爬虫類も、果ては微生物でさえその環境下から外れてしまえば途端に活動することが出来なくらるらしく、より専門的に言えば物理化学的環境だとか生物的環境だとか、生態系だとかが関係してくるらしいがそこは割愛しよう。ともかくどんな生物にも活動するための適正な環境というものが設定されており、その設定からは何物も逃れられないということだ。
そして今、彼らが直面し対応に急を要するとある事態も、その適正環境とやらが密に関係していた。
「かゆ…」
連日の明るい日差しと水気を孕んだ空気は変わらず、しかし自然の摂理と僅かに気温が下がり始めた夕刻時。こんな田舎で他に客もいないからという店主の言葉に甘え、連泊している安宿の(元々の安さに拍車をかけ安くしてくれていた。経営が心配である)一室。今日も今日とて元気と好奇心いっぱいの煌めく目をして太陽降りそそぐ外界に一人出ていたリチャードは、帰宅と同時に聞こえた声に開きかけていた口をぱたりと閉じた。
声の主は言わずとした彼の同伴者たるアヤカのもので、ポツリと零された声量は小さく、誰に聞かせるという訳でもない独り言といった体である。しかし部屋のドアを開けて早々に聞こえた言葉はいやにはっきりとリチャードの耳に入り、それは無視できない事象として彼の意識を引き寄せるには十分なものだった。
ドアを手にかけ入室の姿勢のままピシリと固まってしまったリチャードの視線の先。アヤカは窓辺の床にぺたりと腰かけ顔を外に向けていた。元々の色素が薄く、そして本人が夏の暑さを苦手としているからかあまり外に出ようとしないため、この真夏であっても彼女の肌は抜けるように白い。そして窓辺に座り傾きつつある陽射しに照らされているからか、その肌の白さは際立っていた。その、彼女に腕。彼女の腕には、一見するとタトゥーと見紛う大きな刻印があった(すでに互いに見慣れていたそれを初めてみた店主が最初度肝を抜かれた顔をしたため、アヤカはこの滞在中部屋の外では上着を羽織っていた)。
彼と彼女とを繋ぐ象徴たるその令呪は赤黒く、アヤカの白く細い腕には不釣り合いに物々しい。しかし先述したように2人にとっては見慣れたもので、今更なにか特別な感情は持ち合わせていなかった。
が、しかし。
その令呪が飾るアヤカの腕に、いま。彼と彼女の繋ぐ象徴たるそれと他に、ぽつりとひとつ。異なる赤があった。
それはちょうど彼女の二の腕付近。肩から上腕にかけて存在する令呪よりもやや下方向。肘関節付近に存在していた。外を見ながらそれに片手を伸ばすアヤカは、そこでやっと気配に気付いたのかぱっと顔をリチャードに向けた。顔を向けた拍子、透けるような金髪が日差しを反射し小さく揺れる。
「あれ、帰ってたんだ。おかえり」
そういうアヤカの様子は、リチャードの知るアヤカと寸分違わず。彼女の背後に映る夏の空よりも遥かに色素の薄い水色を宿した両の瞳が、きょとんとした様子で出入り口から動かないリチャードに向けられていた。