玄関のドアを開けると、学校指定の鞄を片手で持った健吾と出くわした。おはよう、と言い合い、私はなんとなく健吾の隣を歩く。夏の始まりを感じさせる湿った風が、プリーツスカートの裾を揺らした。
「そういえば、中間テストの結果、どうだった?」
「別に、問題ない」
言葉がぶっきらぼうなのは健吾の昔からの癖で、私はいまさら驚く事もない。通常通りの平日の朝。
初夏を思わせるような六月の朝は、缶に入ったドロップスのように様々な色で溢れている。一日が始まる鬱陶しさと、その中に隠れている宝箱を探すような高揚感。
家が隣同士である私と健吾が通う高校は徒歩圏内にあり、十分も歩けば周囲には同じ制服を着た学生達の姿が見えてくる。正門の前には風紀委員がオハヨウゴザイマスと機械的に声をあげていて、私達はそれに倣うように一度だけ朝の挨拶を口ごもり、正門の中に入った。
あ、と思わず小さく声をあげたのは、私だった。
目線の先には、白色と紺色で組み合わされた学生達に混じるように歩く、薄いピンク色のカーディガンを着た小柄の後ろ姿。
「安本先生」
しっかりとした発音で彼女を呼んだのは、健吾だった。カーディガンの色の下にあるフレアな白いスカートが、ふわりと揺れる。
「おはようございます」
「おはよう」
健吾の硬い声を溶かすように、安本先生の柔らかな声が空気中に舞った。正門から校舎までの道のりには、多くの草木が植えられている。肌に馴染むような湿度の風が吹き抜けるたびに、優しい緑色がさわさわと音を立てているようだ。そのまま安本先生が職員用の玄関に向かっていくのを横目に、私と健吾は昇降口に繋がる玄関へと入った。
足を踏み入れた校舎内では、生徒達の声が反響して様々な音が溢れていた。何の腐れ縁か同じクラスでもある健吾と並んで、靴箱から上履きを取り出し床に落とした。派手な音が鳴ったのも束の間、次々にやって来る生徒達の気配にかき消される。
上履きを履いて私の先を行く健吾の後ろ姿を、眺めながら歩く。教室までの廊下。反響して鳴り続ける生徒達に混じる、たった一つの道筋。私は健吾にかける言葉を迷っている。
健吾はかれこれ一年以上、養護教諭の安本先生に恋をしている。
幼馴染が恋に落ちる瞬間に立ち会ったのは、昨年の四月の事だ。
入学式の終わり、当事者である私や健吾よりも張り切っていたそれぞれの母親に正門の前で写真を撮られている時、ふと健吾の母親が慌て出した。つい先ほどまで彼女が手に持っていたスマートフォンが見当たらなくなっていて、私達も一緒になって入学生やその保護者で密集した正門辺りを探していた時。
落とし物はこちらでしょうか、と品のあるソプラノ調が私達の焦りを融解させたのと同時に、探していたスマホが華奢な手によって差し出された。
ありがとうございます、と深々と頭を下げる健吾の母親の隣で、日頃は礼儀正しいはずの健吾が、礼も言わずにただ呆然と淡いスーツ姿のその教員を眺めていた。その横顔はまるで知らない男の人みたいで、真新しいブレザーの制服を身に着けていた私は、焦燥を飲み込んだ。
その後、お茶にでも行きましょうと盛り上がる母親達を制するように、先に帰るから、と健吾はまっすぐに自宅に向かった。その後ろ姿を慌てて追いかけた私は、やがて自宅が見える路地に入った頃、動揺を喉元に押し隠しながらもようやく声を発した。
『健吾』
自分のものじゃないような細い声が、春の匂いを含んだ風に流れていった。一定速度で私の前を歩いていた健吾が、ぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返る。
『ハル』
えんじ色のネクタイを首元に巻いた見慣れない恰好の健吾が、私を呼んだ。
『俺、何かおかしかった?』
そうつぶやいた声は私のものよりも震えていて、まっすぐに私を見つめる瞳が戸惑いに揺れていた。
路地の向こうに見える川沿いでは、満開期を過ぎた桜が生ぬるい風に花びらを乗せている。私は、ただ首を横に振る事しかできなかった。高校の制服を着た健吾がやたらと大人びて見えて、やっぱり知らない人みたいだと思って、そして私は馬鹿みたいに胸を高鳴らせた。
小柄で華奢な女に恋をした健吾に、まるで正反対の私が恋をした。
健吾のささやかな恋が誰にも傷つけられないように、私は陰から見守っているつもりだった。だけど、高校一年生の秋、体育の授業のバレーボールで突き指をした健吾に、保健委員だった私が保健室へと付き添う事になった時、状況が変わってしまった。
晴れやかな外とは反対にしんとした廊下を先に歩いて行った健吾が、ドアの前に立った途端、ぎくりとした表情を浮かべた。
『健吾、どうしたの?』
突き指をした右手をかばうように両手を重ねた健吾が、困惑した顔で私を見た。私もそっと健吾の横に立って、ドアの中の様子を伺う。人の気配と同時に、声が響いた。
――でもどうしても、安本先生が好きなんです。
私は思わずほんの数ミリだけ引き戸を開けた。仕切られたカーテンによって顔は見えなかったが、カーテンの下にある隙間から見える上履きの色は私達と同じ学年を示していた。
『ハル、もういいよ』
体操服越しに私の肩に触れた健吾が、必死さをあらわにした目線で訴えた。私は音をたてないようにそっとドアを閉める。体育の授業によって乾いた口元が、今頃になってじんわりと熱を持ち始めた。
『もういいから、行こう』
突き指をしていない左手で私の手首を掴んだ健吾が、長い脚を使ってひたすら歩く。引っ張られるようにして健吾の後ろをついていった私は、シャツ越しにも分かる浮き出た肩甲骨をただ眺めていた。掴まれた手首が全身に鼓動を与えていく。健吾と手を繋ぐのはずいぶん久しぶりで、そして今となってはあってはならない事だった。
健吾、と私は呼んだ。
『大丈夫だよ健吾。安本先生は、そんな簡単に生徒からの告白を受け入れたりしない』
フォローのつもりで差し出した言葉は、健吾にとっては酷なものだった。声に吐き出してからすぐに後悔を覚えた私に構う事なく、健吾は足を止めてゆっくりと振り返り、掴んでいた左手を離した。
『知ってたんだ……?』
短い前髪の下にある瞳は、困惑と罪悪感を織り交ぜたような色を放っていた。否定をする事もできずにいる私は、ただ健吾の大きな手のひらの感触を手首に残したまま、視線を逸らす事もできない。
保健室からつながる一階の廊下の窓からは、まだ体育の授業が行われているグラウンドが見える。空中に浮かぶバレーボール、それらを操る生徒達に、見守る声援。
ハル、と私をまっすぐに見降ろした健吾が、ゆっくりと視線を落とした。日焼けした頬に映った睫毛が綺麗だと思った。入学式の後に見た時と同じ、まるで知らない人のように。
『ハル、ありがとう』
でもその声色は私の知る幼馴染のもので、私は乾いた唇をこっそりと舐めた。心臓が所在を失ったように、不安定に脈拍を生み続けている。ふっと顔をあげた健吾が、まっすぐに私を見た。先ほどよりも意思のこもった強い視線。
『ハルがいてくれてよかった』
そう言った健吾は、私に背を向けてゆっくりと歩き出す。よかった、と私は思った。すぐに健吾が歩き出してくれてよかった。嬉しいのに泣きたくなった私の顔を見られなくてよかった。
背後で保健室のドアが開いた気配があったが、私も健吾も振り返らなかった。健吾が突き指をした右手小指は、それからも少し変形したままだ。
その日以来、健吾は私にひそかな恋心を隠さなくなった。二人で歩いている時でも、安本先生を見かけた時には健吾は堂々と声をかけるようになった。
二十代後半だという養護教諭の安本先生は、男子にも女子にも人気があり、教室でもたびたび彼女の噂話が飛び交っていた。女子生徒が恋の相談に乗ってもらった話や、男子生徒が本気のラブレターを贈ったらしいという話。時には安本先生に関するネガティブな噂もあった。どこまでが事実でどこからが嘘か分からない、薄い液晶画面の向こう側にある存在のストーリーのようにどこか真実味のないもの。
教室の中心で声の大きなクラスメイトが安本先生の名前を声に出すたび、寡黙な健吾は何かを耐えるようにサイズの合っていない少し小さな椅子に座ったまま身をこわばらせていた。そしてその放課後には、一緒に下校する私にこっそりと言った。
『あんな話に、俺はいちいち惑わされたくない』
健吾の心は、肥大した想いに押しつぶされそうになっていた。安本先生の話をする健吾は、何度見ても初めて会う人のようで、私はその度に焦燥感に駆られていた。健吾が安本先生を想えば想うほど、遠くにいってしまうようだ。でも、健吾が安本先生の話をすればするほど、私との関係性が深くなっていくようにも思った。他の誰にもこじ開けられる事のない、二人だけの秘密。
健吾が突き指をした日よりもずっと秋めいた夕方も、学校内に植えられている樹木の葉が落ち切ってしまった寒い冬の日も、そしてあの入学式の日を再現したような桜色に包まれた放課後も、安本先生の話題に触れるたびに、健吾は言った。
ハルにだから言える。ハルがいてくれてよかった。――ハルは、俺の親友だ。
そして、私達は高校二年生の夏を迎えようとしていた。行き先の見えない想いを守っていく事が、私達の友情の形だった。
安本先生という固有名詞を耳にするたびに、私は健吾との距離を縮められたような錯覚に陥った。秘密の共有は、突然訪れた恋に戸惑っていた健吾を素直にさせ、叶うはずのない私の恋を加速させていった。
朝、健吾と三歩分の距離を置いて、私は教室へと入る。六月に入ったばかりの空は、梅雨入りの気配も見せない。教室内は、明日に行われる球技大会の話題で持ちきりだ。
幼馴染だからといって私と健吾は常に一緒に過ごしているわけではない。それでも半年ほど前に、しょっちゅう登下校を共にしている私達は、おまえら付き合ってんのか、とクラスメイトによってからかわれた事があった。その時、即座に否定したのは健吾だった。
あの時に沸き上がった痛みが姿を現さないように、私は席について鞄からペンケースや一時間目に使う教科書を取り出していく。
「そういえばさー」
私の背後の席にいるピンク色の似合う女の子達が、顔を寄せ合って話している。声を潜めているつもりかもしれないが、高いトーンは教室内によく響いている。
「安本先生、結婚するらしいよ」
ひとつの区切りを無理やりねじ込んだように、空気がざわりと音を立てた。
ええー嘘ー、といういくつもの男女の声が、撹拌されて床の木目に沈殿していく。私はとっさに前方のドア近くの席にいる健吾に目を向けた。その後姿からは感情を読み取れない。でもきっと、あの大きな背中をこわばらせているのだ。
そうしているうちに、健吾は静かに立ち上がった。動けないでいたのは私だった。無責任な噂を口々にするクラスメイトを一瞥もせずに出ていった健吾に気づいたのは、きっと私だけだ。
やがて、鞄に入れていたスマートフォンが小さく震えた。
――先に帰る
始業チャイムまであと五分、その日、真面目な性格である健吾は、初めて仮病を使って学校を休んだ。
それからの一日、健吾から連絡が来ることはなかった。
放課後、私は一人で通学路を辿って自宅まで歩く。隣の二階建ての家を見上げても健吾の気配は伝わらない。もうずいぶん長い事、健吾の部屋に入っていない。スマホを手に持ったまま立ち尽くしていた私は、健吾にかける言葉を考える。大丈夫だよ、だなんて、何の気休めにもならなかった。きっと、健吾が突き指をしたあの日にも。
湿った空気が、健吾の家の前に置かれた花壇の土の匂いを滲ませている。私は華奢な安本先生の姿を思い浮かべる。そして、背の高くてクールな健吾の姿を並べて想像してみる。
最初から無理だったんだよ。喉元までこみ上げてきた感情におののいた私は、その場から逃げるように隣の自宅へと駆け出した。門を開けて鍵をまわし、玄関の中に入る。まだ誰も帰宅していない家の中でひとり、キーホルダーのつけられた鞄を抱えた両手が、自分の中に存在していたものを否定するように震えた。
安本先生のネガティブな噂話が飛び交うたびに、健吾の恋を手放す理由が増えればいいと思った。安本先生のモテる話が沸き上がるたびに、健吾の手が届かなくなればいいと思った。安本先生の結婚は、健吾の恋の終止符にうってつけだと思った。
健吾の恋を応援しているなんて、嘘だ。
最初から無理な恋心を抱えていたのは、私の方だった。私はただ、安本先生を見つめる健吾を好きなだけだった。秘密を分け合うだけで、それだけでよかったはずなのに。
翌日も、朝からよく晴れていた。球技大会にふさわしい、群青色の空。
私は日焼けを嫌がるクラスメイトの女子達と一緒に、体育館でクラスメイトの球技をひやかしたり応援したりしていた。今朝は健吾に会わなかった。遅刻ギリギリに教室に入ってきた健吾はホームルームが終わった途端に男子更衣室へと向かってしまったので、どんな表情を浮かべていたのか確認できていないままだ。
あんな噂を気にすることないよ、私は健吾の味方だよ、応援しているよ、だって私達は親友でしょ。
あっさりと零れる陳腐な言葉は、私の中に渦巻く心にあっさりと押し隠されてしまう。こんなに強い感情を、私だって知らなかった。知りたくなかった。
全ての扉を全開にして風通しをよくしているはずの体育館内にも様々な熱気が立ちこもり、背中に汗が流れていく。トーナメント式の球技ゲーム。タイミングが勝敗を決める事もある。
「遥(ハルカ)ー!」
体育館の壁際に座っていた私を探していたのか、グラウンドにいたクラスメイトが走ってきた。外からの光に差した人影を、私は体育座りをしたままぼんやりと見上げた。
「どうしたの?」
「健吾君が怪我したみたい」
息を切らしながらも状況を伝える女子生徒の前髪は、汗で濡れている。怪我。不穏な単語に、私は思わず立ち上がった。彼女が私を探してくれたのは、私が保健委員だからだ。
「分かった、今行く」
汗のせいで、膝の裏にジャージの裏地が張り付いているようで気持ちが悪い。
「健吾君って、地味に格好いいよねー」
「うるさい男子とは一線引いているっていうか、大人っぽいところがいいよね」
「一組のコバヤシさん、健吾君に告白するって宣言しているみたいだよー」
背後で広がる能天気な女の子達の声を振り切るように、私は体育館の外に出た。乾いた風が不快な汗に当たっていく。私はグラウンドへと走る。不器用に結ばれた靴ひもが、スニーカーの上で不格好に揺れた。
健吾はフットサルを選択していたはずだった。コートのそばに行くと、グランドの端の雑草が生えている場所で、健吾はクラスメイト達と座って談笑していた。
「健吾!」
私が呼ぶと、健吾は不思議そうな顔をして私を見上げた。いつの間にか私よりも背の高くなっていた健吾を、こうして見下ろすのは久しぶりだった。そういえば小学生の頃までは、健吾のほうが身長が低かった。
「ハル、どうしたの?」
「どうしたの……って、健吾が怪我をしたって聞いたから」
走ってきたせいで上手く酸素を取り入れられない。肩で息をしながら私が言うと、健吾の周りにいた男子達が、ひゅーさすが保健委員、とはやし立てた。健吾は笑わずに、ああ、と小さくうなずいた。
「怪我っていうか、擦り傷。さっきの試合で、盛大で転んだから」
そう言った健吾は、ジャージのハーフパンツから見える膝を見せてきた。健吾の言うように擦りむいたそこは、傷によって血が滲んでいて痛々しい。
駄目だよ、と私は言い、思わず右手を伸ばした。
「そういうの、放っておいたら駄目だよ。化膿したらどうするの」
私が昨年から保健委員をやっているのは単なる成り行きだが、今一番それっぽい事を言っている自分がおかしかった。でも、私は知っている。健吾が手当てをしたがらない理由。保健室に行きたがらない理由。
健吾の両隣に座っている男子達が、にやにやと興味深そうに事の成り行きを見守っている。背後で笛の音が高く鳴り響いた。また一つの試合が終わったのだろう。歓声に混じって、砂の匂いも風に流れてくる。
手を差し出したままの私に観念したのか、健吾が私の手をとってゆっくりと立ち上がった。思ったよりも乾いた手のひらだった。
ひゅー、とからかいを見せる男子達に、うるさいよ、と苦笑をこぼした健吾は、おとなしく保健室に行く事を選んだようだ。グラウンドの端にある時計台は、もうすぐ正午を指そうとしている。真上から光を落とす太陽が後頭部をじりじりと焦がしているようだ。様々な試合の音を抜けていくように、私達は手を繋いだまま並んで歩く。そこは、普段の登下校の景色とは全く違うものだった。
ほどいた手の熱を残したまま、昇降口で靴を履き替え、しんとした廊下を歩いた。グラウンドや体育館とは別世界のようだ。
一階の廊下の先にある保健室のドアをノックする。思わず気配をうかがってしまうのは、以前に男子生徒による告白シーンを目撃してしまったからだ。カーテンの下に見えた上履きの色を、私は今でも思い出す。きっと、健吾も。
失礼しまーす、とつぶやきながら、ソロソロと引き戸を開けた。カーテンがあけられていたので、入口から保健室内を見渡せた。私の後をついてくるように、健吾も保健室へと足を踏み入れる。
窓の開いていない室内は、消毒液の匂いが充満していた。安本先生の姿はどこにもない。いつもであれば、端にある教員用のデスクで仕事をしているはずなのに。
喉の奥で準備されていた覚悟が、波打ち際のようにゆっくりと引いていく。そのあっけなさに脱力を覚えたのか、健吾がキャスター付きの丸い黒椅子に座った。
「膝、痛む?」
「よく分からない。じんじんする」
私は薬品棚を開けた。委員会活動で一通りを教えてもらったはずだった。だけど、それらを手に取ろうとすると、緊張と不安で指先が震えた。ああ、そういえば傷の部分を洗わなくちゃ。グラウンドにある水道場に行かなかった事を後悔しながら、私は保健室の端にある水道水でガーゼを湿らせた。
冷たい床に座り込んで、健吾のハーフパンツを少しだけ捲り上げる。日に焼けた皮膚は、私のものとは全く違う質感だった。震える手でガーゼを傷口に当てると、健吾が顔をしかめた。
「ごめん、痛かった?」
「いや……、大丈夫」
凝固していた血液が、水分によって溶け出すようにガーゼを赤く染めていく。
私は立ちあがって、棚から消毒液の容器を手に取る。やたらと清潔感をアピールしたパッケージ。銀色の筒状ケースに収納されているピンセットで、ガラス瓶に入れられた丸い綿球を掴んだ。先ほどの消毒液で綿球を濡らし、再び健吾の前で立て膝をついた。
血が滲んだ傷口から見える、皮一枚下にある皮下組織にそれを押し当てると、今度こそ健吾が痛みに小さく呻いた。こんな拙い治療行為で、擦りむいたことによって失われた皮膚は元のように再生されるんだろうか。健吾が息を飲みこんだのは一度きりで、耐えるように眉根を寄せたその表情は、膝の痛みだけのせいではないのかもしれないと私は思う。
それは、こんな消毒液ひとつで癒える傷なんかじゃない。
ピンセットでつまんでいた丸い綿が、音もたてずに床にぽとりと落ちた。
「ハル……?」
転がった綿もそのままに、床に座り込んだ私を健吾が呼んだ。
「どうしたんだ?」
手に持ったピンセットの表面の感触が、指先に張り付いている。私はうつむいたまま、必死に首を横に振った。その拍子で、熱い液体がジャージを履いた足元を濡らした。涙だった。
ごめん、と私はつぶやいた。傷の手当てすら上手くできなくてごめん。応援できなくてごめん。三文字に詰まった言葉を、鼻をすすったことで粘度が高くなった喉元に押し込んでいく。
健吾が好きになったのは、ピンク色の似合う華奢で可憐な安本先生であって、高身長でショートヘアで大雑把な性格の私じゃない。安本先生が結婚したからといって、健吾がいつか安本先生への想いを諦めたって、健吾の想いが私に向くわけではない。
先ほど体育館で聞いた女子の噂話を思い出す。一組の誰かが健吾に想いを告げようとしている。羨ましいと思った。健吾の恋の向く先も知らずに、無邪気に健吾に想いを伝えられるその立場が。
「ハル、どうしたんだよ……」
困惑に満ちた健吾の声が、うつむいた私の頭に優しく降りかかる。
私が健吾に投げかけたかったのは、大丈夫だよ、という言葉でも、親友だよ、という言葉でもなかった。
床に落ちた球状の綿から消毒液が揮発しているのか、つんとした匂いが鼻に触れた。それがますます涙腺を刺激し、涙が止まらない。
ただ純粋に、好きだという気持ちだけを持っていられたらよかった。安本先生に対する嫉妬も、大人びていく健吾への焦燥も、知らないままでいられたらよかった。
ハル、と何度目かに呼んだ健吾が、ゆっくりと立ち上がった。椅子のキャスターがかすかに軋みをたて、健吾は私の顔を覗き込むようにしゃがみ込む。
「ありがとう、ハル。ハルのおかげで、ちゃんと保健室に来られて、消毒もしてもらえて、擦り傷も化膿せずに済んだ」
再び血液が凝固し始めた膝をかばうように体勢を整えながらも、健吾は私に寄り添うようにそこにいた。
「ハルは俺の大事な親友だよ」
健吾が拠り所を探すように、右手で私の頭を撫でた。定期的に整えているショートヘアがさらさらと揺れる。私も安本先生のように髪の毛を伸ばせば、何かが変わったのだろうか。
「だから、俺はハルの味方だ。ハルの話を聞くよ」
いつも俺の話ばかりを聞いてもらっていたから、と言う健吾の手の感触を頭部に感じながら、私は健吾の少し変形している右手小指を思う。
私はピンセットを持っていないほうの左手で涙を拭い、大丈夫、と答えた。なぜか左手までも消毒の匂いを放っている。ゆっくりと立ち上がり、健吾を見下ろした。私を見上げる健吾の澄んだ瞳は、きっと疑ってもいない。私達が親友という形におさまっている事を。
言ってしまおうか。先ほど触れられた頭の裏側で、唐突な言葉が沸き上がる。
好きだと言ってしまえば、私の心に沈んだ黒い感情もいつかは消えてくれるだろうか。望みのないこの恋を終わらせる事ができるだろうか。
健吾、と私が口をひらきかけた時、
「――ごめんなさい! 大丈夫だった!?」
ドアが開いたのと同時に、焦りを見せたソプラノ調の声が割って入ってきた。本来保健室にいるはずの、養護教諭。大きめの白衣を着た安本先生が、健吾の姿を見るなり、駆け寄ってくる。
「ああ、もしかしたら球技大会で擦り傷作っちゃった?」
ごめんなさいね、と何度も謝る安本先生は、試合中に転倒して後頭部を打った生徒を病院に連れて行っていたとの事だ。保健室の鍵をかけ忘れたのは、慌てて出ていったかららしい。そういった隙も、彼女の人気のひとつなのだろうか。
目敏く健吾の膝の擦り傷に視線を向けた安本先生に、いえ、と健吾が言った。
「こいつが手当てをしてくれたんで、大丈夫です」
ゆがんだ小指を持つ右手が、私のジャージの袖を掴んだ。震えている。無理もなかった。健吾が私の腕を掴んだまま保健室を出る。挨拶もそこそこに、保健室のドアを閉めた。
来た時とは逆だった。手を引かれて歩く私は、健吾の背中を眺める。あの秋の日のように。
健吾の大きな歩幅は安本先生への想いを断ち切ろうとする覚悟のように思えた。そのスピードの上を、私も一緒に歩いている。そうか、と私は生唾を飲み込む。親友でいられるという事。安本先生にも、一組の女子にも譲れないもの。
開いた窓の向こうからは歓声が響いている。隔たれた世界の向こう側。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。
やがてチャイムが響き渡り、球技大会が終了した。午後には通常授業が行われる予定だ。
「ハル」
少しだけ歩幅を緩めた健吾が、ゆっくりと振り向いた。
「午後の授業、さぼろっか」
窓から差し込む夏の光が、健吾の日に焼けた頬を照らした。私のよく知る幼馴染の顔だった。
うん、とうなずき、私は袖元にあった健吾の右手をそっと振りほどいた。一瞬、健吾は目を丸くしたけれど、そのまま何もなかったように微笑んで、私の横を歩く。昇降口の辺りでは、ざわざわと生徒達が戻ってきた声が響いていた。二人きりの時間はもう終わりだ。
だけど、あと少し。あともう少しだけ。
「ハル、急ごう」
普段は真面目に高校生活を送っている健吾の声が軽やかに響いた。それさえも、少しずつ密度の高くなる生徒達の気配にかき消されていく。それでもはっきりと見える確かな道筋。
私達はいつまで同じ秘密を抱えていくだろう。だけど、私の秘密は私だけのものだ。たとえ健吾にもあげられない。私はきっと健吾にとっての唯一の親友だから。
胸に秘密を抱え直しながら、私は足を前に踏み出す。上履きとの摩擦によって、廊下の床がきゅっと音をたてた。