オムファタールはその時を待つ
エピローグ 共犯者
太陽に輝く宮殿のごとき白亜の屋敷、噴き上がる噴水の水飛沫に濡れる花々の麗しい渡り廊下で、前を歩く黒づくめの背中にカリムは声をかけた。久しぶりにどうだ、と手の中のマンカラを示してみれば、彼の親友にして子供時分からの従者ジャミルは呆れたように、今日分の執務の進捗を尋ねる。当然、終わっているはずもない。だがこの友人は結局のところ自分に折れてくれるのをカリムはよくよく分かっていたので、最終的に二人はそのまま、渡り廊下を抜けた先の中庭で、ゲームの席に着いたのだった。
ワンゲームだからな、と念を押すジャミルに満面の笑みで返して、ゲームをスタートさせながら、カリムは長年の友人の姿を見た。あの学園を卒業後、旅を経てジャミルがこの屋敷に戻ってきてから、数十年。二人は共に歳を取り、カリムに至っては熱砂の国随一として新たな観光名所にもなるほど雄大で巨大な後宮を構えるほどになった。そこまで多くの妻子を持ってなお、彼が稀代の好色家などという誹りからごく離れたところにいるのは、本人こそ知らないが彼自身の人徳によるところである。彼はなにも女好きなわけではなく、政治的駆け引きで差し出される娘たちや、裏町で恨めしげに自分の服の裾を引っ張る少女たちを見捨てることが出来ないだけだった。何より彼には、ある才能があった。より多くを愛することが出来る才能。彼の友人であり専属従者であるところのジャミルに言わせれば鼻で笑い飛ばせるものではあったが、ここ熱砂の国の大富豪ともなればその才能こそが重要になる。万いちなにかしらの不幸が起こったとしても当主の座を継ぐべき候補は多く、それだけの数の妻子を抱えられるだけの財力と人脈があり、またその妻たちの生家はアジームを守り守られている。更に言うなら、カリムほど規格外の後宮を構え、来るもの拒まずで惜しみなく誰にでも愛を注ぐ行いは、悲惨な境遇の女たちにとって一種の社会的な救済にもなっていると囁かれていた。当然本人にそんな意図は一切なく、昨日もまたひとり増えた後宮住まいの妻について文句でも言ってやろうかと、ジャミルが口を開いた時だった。
「なあ、ジャミル」
カリムはごく穏やかな口調で語りかけるが、その視線の先は盤面に向けられていた。次の一手を思案するように手の中で弄ばれる美しい赤や緑の駒は、見るべき者が見れば卒倒するような価値を持つカボションカットのルビーや翡翠、エメラルドだ。カリムの遊び相手として充てがわれた幼少の頃、いかに上手く負けるかだけ考えてきた子供だったジャミルは、大人になってこの駒の価値を知った時卒倒しそうになったものだった。屋敷の給仕係、その十年分の給料を注ぎ込んでもこの駒ひとつ満足に買えるかは定かではないことも、屋敷の外、荒れたぼろ家が立ち並ぶ貧民街では石ころを駒にゲームすることを知らなかった愚かな主は、もういない。ジャミルに言わせればカリムは未だ考えの足りない男ではあったが、後宮のことといい、知ってか知らずかただの富豪ではなく為政者としての頭角も表し始めているとも認識を改めていた。熱砂の国の大富豪とは、莫大な金を動かすことでこの国の社会にも大いに影響を与える存在だ。熱砂の影の支配者たちとも囁かれる存在の一人として、カリムにはなにか頭ひとつ抜きんでた才を感じることも、事実ではあった。だからこそジャミルには、この後にどんな言葉を問いかけられるか、ほとんど予測はついていたのだった。
「どこまで、お前の盤面なんだ?」
どこまでも穏やかな言葉尻に、けれど盤面に向けられたまま決して混じり合わない視線が、事の深刻さを象徴していた。二人の間には沈黙が落ち、噴水の水が水面を叩く音、晴れた日の風が中庭の木々の間を通り抜け、青々とした香りと共に二人の髪を揺らす感覚だけがあった。
「見れば分かるだろう」
ゲームの盤面を軽く顎で差して、沈黙を破るように嘯いたジャミルに、彼の名を呼び返すカリムの声音はやや硬い。主人としての命令と、友人として問い詰めたい感情の間で振り子のように揺れ続けている姿に、やっぱり甘い男だとジャミルは内心で呟いた。
「そういう意味じゃないって分かってるだろう」
宝石が木の器の中で転がる音がして、カリムの手の中から翡翠の駒が一手指される。ジャミルは盤面を見ながら思案すると、自らも瑠璃の駒を手に取り、語り始めた。
「例えるなら………俺がしたのは、川の流れを変えることだ。とはいえ、自分の手で変えたわけじゃない。ただ、川の管理をしてるヤツに、俺は随分嫌われていたのさ」
一手、また一手返される中で、カリムの表情はどんどん苦々しくなってくる。カリムがここ数年、急激に悪化していった国の治安に頭を悩ませていた事は、ジャミルも重々承知していたところだった。街には失業者が溢れ、アジームは雇用の捻出による彼らの救済に躍起になっていたし、カリムは当主という立場から他家にも協力を求め何度も会談を重ねていた。当然そこにはジャミルも同席していたし、彼の主人が奮闘しているこの国の状況には、ある日を境に関係が悪化した、アジームに比肩する大富豪の一人が乱心したことを発端とすることも、重々理解していた。
「川の支流が変われば、そうだな………まず、水の通らなくなった町の者は不満を
覚えるだろう。新たに支流の通った町の者との関係悪化は避けられないだろうな。水の中の生態系にも影響が出るのかもしれない。そしたら、どうだろう。保護団体なんかが何かしらの運動を始めるのかもしれないな」
その、富豪は。
妙な物を気にいるという点を除けば、熱砂の国で巨万の富を握る一人としての責務は、十分果たしていた男だった。器量に優れ、一族内の紛争や揉め事も事前に押さえ込む手腕があり、商売人としての才覚もあった。ゆくゆくは多くの妻を娶り、熱砂の国の富豪らしく、多くの子宝という己の後継者を持ち、老いては彼らに家督を譲っていくのだと一族の内外からも信じられていた。
それが今や、アジームを自身の販路から締め出し、彼らと関わりのある商いは全て手放して大量の失業者を産み、アジームが確かな身元を保証した他国との取引を跳ね除けては、彼らとは異なる独自のルートで他国の商売人をこの熱砂の国に引き入れたために、市井の市民たちと他国の商人たちとの軋轢は増すばかりである。ゆっくりと、けれど確実に、この国を乱していったその男がおかしくなったのは、ある女と一緒になってからだという噂が、この熱砂の国に流布されていた。
「川の流れは変わった。この変化を受けて、多くの人間が行動に移るだろう。状況は動き出して、もう止まらない」
お前なら誰が、どう動き出すか分かる」
間髪入れずそう返したカリムに、ジャミルは皮肉っぽく唇を歪めるように笑った。あの学園で、俺を認めろとあれほど渇望した己が、確かにその力量を認められている。認められているからこそ、最も疑いをかけられてる。その疑いは、杞憂ではない。だがこのお人好しの主人は、裁きたいがためにこうしてまだるっこしい対話であり詰問を仕掛けてきたわけではないことも、長年の付き合いからジャミルは肌で感じていた。
「………俺だって、ユウのことはなんとかしてやりたいと思ってるよ。けど、このままじゃ、あいつの旦那の方が先に殺されちまう。国中の治安がどんどん悪くなってくから、みんな、あいつに目をつけ始めてる」
あの学園でかつて彼らが監督生と呼んでいた女は、今や、男を誑かし破滅を呼び込む悪妻の代名詞であるかのようにこの国では語られていた。あの富豪が狂ったのは女のせいと言うならばと、男共々彼女を謀殺してしまえなどという過激派もいれば、己の運命を狂わされるほど致命的な女ならば一目見てみたい、などという俗っぽい輩までが国中に蔓延っている。ジャミルにとっては心底腹立たしいことに、ある時期から屋敷の一室に閉じ込められたと伝え聞いた富豪のユウへの仕打ちは、確かに、少なからず彼女を守ることにもなっていたのである。ただし、それもいつまで意味を持つかは時間の問題だと、己の主の言動からジャミルは確信を得た。遠くない未来で、世論は富豪の失脚と死を望むようになるだろう。
「俺はユウを助けたい。だけど、あの男だって助けたい。自分の行いを悔やむチャンスも与えられずに殺されちまうなんて、そんなのは絶対に間違ってる」
滔々と語るカリムにの言葉を、ジャミルはどこか上の空の心地で聞いていた。不意に鼻先を掠めたのは、植物と花々に埋め尽くされたあのウィークリーマンションで幾重にも混じり合っていた大輪の花の香り、その幻だ。その香りは、鼻を抜け、頭の奥が痛むほどぐらぐらさせられるようで、ジャミルも彼女も好んではいなかった。
「お前はそう言うと思っていた。だからな、カリム。俺たちでひとつ、賭けをしよう」
「賭け?」
「そうさ。俺はあくまでお前の従者だ。今までも、これからも。お前の意思を妨げようなんて夢にも思わない。命令とあらば、全力で応えてみせるさ。だが、もし、俺がこの賭けに勝ったら」
ジャミルは己の主人の瞳を見た。そこに、あの日の学園で使った怪しい赤い光が灯ることは無い。カリムもそれは分かっているようで、遂に盤面から目を離し、己の友人にして従者の男を見つめ返した。
「栄誉も名声もいらない。俺は従者という身分のまま、お前に仕え続けよう。いわくつきで構わない。だから、俺にお前と同じ、この国を陰から支配し得るほどの富と財産をくれ」
カリムはその言葉の真意を掴めずに、数度、ちょうど今彼が手元に握り込んだルビーの駒のように大きな目を数度瞬かせた。
「なにを賭けるって?それに、流石の俺も、無いものはあげられないぞ」
「あるさ」
悠然と長い脚を組んで、いやに穏やかそうに微笑んだジャミルが答える。その立ち居振る舞いに、長らく彼を見てきたカリムの背筋さえもぞっとする予感が脳裏をよぎった頃には、彼の形の良い薄い唇は言葉を紡いでいた。
「これから用意出来るようになる。熱砂の影の支配者、その空席を、ひとつ」
中庭の椅子が倒される音が響いて、太い木々の幹に体を寄せ休んでいた青い鳥たちが驚いて羽ばたき去っていく音だけが二人の間にあった。衝動のまま立ち上がったカリムは、二人を分かつテーブルとその上にある盤面越しに、咄嗟にジャミルの胸ぐらを掴んでいた。しかしその顔に浮かぶのは怒りよりも、殆ど悲しみに近い驚愕だ。
「確かに………ユウの旦那が、あいつを良く思わないヤツに殺されちまえば、当主の椅子がひとつ空く。本来なら長子が当主の座を継ぐのが通例だが、あいつの子供はまだ学生だ。更なる混乱は避けられない。そうなれば、これ以上の混乱をアジームも、他家の連中も黙っては見過ごせないだろう。誰かが、あの家を抑える必要がある………」
呻くように歪んだ顔が、苦しげに伏せられていく。その様を、ジャミルの黒曜石の瞳は淡々と静かに見つめていた。
「そうしてお前はアジームの従者のまま、あの家の当主に就き、ユウを手に入れる。あくまで従者の身分であることには変わりないから、お前には多くの妻も子も迎える必要はない。そういうことか?だけど、そんなことしたら、あいつの一族まるごとアジームの従者として俺に仕えさせるってことだぞ。反発は避けられない………」
自らの胸ぐらを握って震える主人の手を、ジャミルは黙って引き剥がす。顔を上げたカリムは泣きそうに目を細めながらジャミルのその、湖面のように静まりきった表情を見て、悲しくも得心した。
「分かってるんだな、そこまで。お前なら、それも抑えこめるってことなのか」
「………お前は、あの男が死なない方に賭ける。俺はその逆に。あくまで俺はお前の従者だ、賭けの妨害となるような真似はしない」
その言葉に、今にも大粒の滴を溢しそうなほど厚い涙の膜が張ったカリムの赤い瞳が、ほんの僅か、暗闇の中に微かな光を見つけたように瞬いた。
「お前が手を下しているわけじゃないんだな?」
「お前だけなら兎も角、この国を何十年と影で支配し続けてきた化け物ども相手に、そんな半端が通じるとは、はなから思っていない。言ったはずだ、俺がしたのは『川の流れを変える』ことだと。あの男にとどめを刺すのは俺ではなく、この状況だ」
後半の言葉はほとんどカリムの耳には届いていなかったようで、彼は倒れた椅子を戻すと、緊張の糸が途切れたように座り込んで深いため息をついていた。大方、ジャミルが直接手を下していたわけでも、今後そうするつもりも無かった事に確信を得て、ほっとしているのだろう。こいつのこういう所は永遠に理解出来ないと内心で毒づきながら、ジャミルは言葉を続ける。
「だがそうなった時、あの家と彼女を手に入れるには、どうしてもお前の力がいる。アジームの当主であるお前が。状況を完璧に作り上げるには、アジーム以外の他家も納得している事が必要不可欠だ」
「だけど、俺に他の奴らを納得させられるとは思えない。俺は、ジャミルが賭けに勝ったとしてもきっと、殺されること無かったのにって思っちまう。そんな俺の揺らぎを、他の奴らが黙って見過ごすとは思えない」
お前は、と叫びそうになる己をジャミルは必死に臓腑の下に押し込んだ。ぐつぐつと煮えたぎる怒りに、身体中が支配されていきそうになるジャミルに反して、カリムは「お前がいる」腹立たしいほどの爽やかさで言葉を返した。
「お前の言葉がいる。誰よりもユウを想ってる、ジャミル、お前の言葉が」
膨れあがりかけた怒気が、思いも寄らぬ言葉に行き場を無くして霧散する。想定外の提案に呆気に取られたのはジャミルの方だった。彼の主人は砂漠をあまねく照りつける太陽のように微笑むと、言った。
「その時は、俺の立場でも権力でも、体でもなんでも使え。お前のユニーク魔法で、お前の思うまま俺を喋らせて、ユウを取り戻せ」
数秒にも、数分にも感じられる沈黙の後、驚いたなとジャミルはやっとの思いで呟いた。その問いにこそあっけらかんと不思議そうに首を傾げるカリムとは、やはりどこまでも分かり合えない気がした。
「お前、分かって言ってるのか。俺の目論見通りに事が進んだ場合の話をしてるんだぞ、俺は」
「あのなあ、ユウを助けたいのは俺も同じって、俺言ったよな?あいつの旦那が殺されちまった時っていうのは、後ろ盾のないユウにとって、最悪の状況なわけだろ?そうなった時にどうやってあいつを助けるかって話なら、俺だって出来る限りの協力はするさ。だけど」
照りつける太陽の瞳が、ジャミルを真っ直ぐに射抜く。そこに不安が見て取れないわけではない。どうしても分かり合えない友人への、悲しみがないわけでもない。あの学園で、あの砂漠の寮での騒動以来徐々に消え失せたように思えた断絶が二人の前に再び姿を現してなお、彼らは真っ直ぐに互いを見つめ返していた。
「だけど、ジャミル。俺はあの男を死なせないぞ」
「構わないさ。お前は、そういうヤツだ」
不意に、手元からカランと宝石の駒が滑る音がして、カリムは思い出したように盤面を確認するとあっ!と声をあげた。ゲーム開始時点から徐々に押され続けていったジャミルの盤面が、最後の一手によって、無駄に配置したと思われた駒にさえ意味を与えていた。それどころか、これまでカリムがジャミルを追い詰めるために刺した全ての駒が翻って彼自身の首を締める盤面に変貌を遂げている。あの会話の最中に一体どこまで考えて一手打ち続けていたのか、どんなに考えても逆転の一手が思いつかずに頭を抱えるカリムを、秀麗な彼の従者は意地悪そうに唇を歪めると、くつくつと喉を鳴らし笑っていた。
「大丈夫だ。すべて上手くいく」
すべて。続けざまそう呟いた言葉がどこか、何かを恋しげに懐かしむ響きを伴っていることに気付けたただ一人の女は、今も、暗い部屋に閉じ込められている。男は、太陽に輝く白亜の屋敷で。女は、はりぼての空を臨む寝台の上で。多くの人間を運命に巻き込み、幾星霜を経てもなお、二人を永遠のものにしたあの五日間を、互いに今も想っている。
Latest / 228:52
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オム・ファタールはその時を待つ エピローグ 共犯者
初公開日: 2020年10月12日
最終更新日: 2020年10月22日
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