オムファタールはその時を待つ 最終幕②
子供の頃からずっと、正体を掴めないでいた。根拠も、確証も、疑いを持つに至った決定的な出来事があったわけでもない。だが、少年はどうしても、この家には『何か』があるのだという違和感を抱いてやまないでいた。
少年は熱砂の国の大富豪、その一角となる豪邸で、待望の一人息子として産声をあげた。父親はこの家の当主。母親は、父が気まぐれに目に留めて迎え入れた、異世界の娘だったのだという。とはいえ少年には、彼女が自らの母親であるという自覚は薄かった。生後まもなく、母親と引き離され、長らく乳母に育てられてきたからだ。この国では富豪の子息がそのように育てられる事は特別珍しいことでは無かったし、周囲や彼の級友たちもなんの違和感も無く受け入れたものだった。むしろ、彼にとっては物心ついて以来自分を育ててくれた乳母よりも、写真の中で父に寄り添い、赤ん坊の自分を腕に抱くこの女性が本物の母親であることの方が、よほど衝撃的だった。その女性は、長らく父の寝室に閉じ込められた妾だとばかり思っていたからである。
妾だと思っていたその女性、少年にとっての母親が閉じ込められた部屋のことは、親戚から屋敷の従僕たちまで一様に、触れてはいけないもののように扱っていた。父は毎夜のごとくその部屋に通っていて、少年は子供心にその扉の前で耳を澄ましたことがあったが、痛みに堪え呻くような女の声が断続的に聞こえてくるので、恐ろしくなってそれ以来近づくのをやめた。代わりに、日が出ている間、父親にはよく話をした。日が落ちた後の父はあの部屋に篭ってしまうので、昼間の間だけが、少年にとってまともな父と話せる時間だった。少年は、父に何度も話をした。俺と母親とを連れて商談に出てくれ。それが嫌なら、他に妾でもなんでもとってくれ。おれが学校でなんて言われているか知ってるのか、と。
熱砂の国、その大富豪たちともなれば、商談の場には互いに自分の妻と子供たちを連れ立って、大いにもてなすのが慣例だ。もてなしの豪華さ、煌びやかさこそがその家の格を顕示する方法でもあったし、逆にいえば、もてなすことの出来ない家、もてなす相手となる家族を持たない者は三流と見做された。少年の家のような、この国の実権を陰で握るほどの大富豪ともなれば、家族を連れ立たない、妾すらいないのというのは、あまりにも異様なのである。乳母に育てられたことは問題なく周囲に受け入れられた少年だが、このことは彼の学校での肩身を非常に狭くさせていた。子供の世界というのは不自由なもので、彼の父、ひいては彼自身を奇異の目で見つめ陰口を叩く学校の中に、彼の居場所は無くなっていったのである。
訴える彼に沈黙と、時折否定で答えていた父だったが、ある日のこと、遂に顔を真っ赤にして眉を吊り上げると、少年の頬を殴り飛ばした。熱砂の国でも彼の家に匹敵する、ある富豪との大きな商談があったと聞いた、その翌日のことだった。
「何度も同じ事を言わせるな。妾なぞ、絶対に取らないぞ」
固い大理石の下に、切れた唇の端から溢れた血が小さな水溜りを作っている。その小さな体に馬乗りになると、父は少年の胸ぐらを掴み上げ、怒りに震える声で叫んだ。
「あれは、私のものだ!」
それを聞いた時、痛む体に反してどこか冷静な少年の理性の部分が、ああ、これはもう駄目だ、とひとりごちた。父は、寝室に閉じ込めたあの女に狂っているのだ。男と女とは、その愛とは、ここまで人を狂わせるに足るものなのか。まだ幼い少年にも、父親とこの家が徐々に立場を無くしていっていることは、従僕たちの噂話を聞いていれば嫌でも理解出来た。子供の頃からずっと、この家には『なにか』があって、それにこの家の誰もが狂わされているような感覚が少年にはあった。それは、あの女だった。
でも、本当に?少年の頭の片隅には、僅かに疑問が残った。もっと幼い頃、耳を澄ましたあの扉の向こうから聞こえた、何かに耐えるような女の唸り声が彼の頭から離れないでいる。だから父の葬式の日、その男に会うまで、少年はこの『なにか』の正体を未だ掴めないでいたのだ。
その日は、酷い嵐だった。熱砂の国の影の支配者とも言うべき大富豪たちが顔を並べた光景に、さしもの少年も冷や汗が背中を流れていくのを感じた。これだけ錚々たる面子が揃えば、自分たちのような没落した家の子息とその母親ごとき、誰に知られることもなく消してしまうことさえ容易い。内心でそこまで覚悟していた少年は、父が対立していた筈のアジーム家の庇護下に入ると聞いて拍子抜けした。もしかしたら、このままなんとかなるのか。脳裏に過ったそんな幻想は、アジーム家当主から発せられた言葉で粉々に崩れ去った。
アジームの、それも従者がこの家の当主になる。それは、彼ら一族が丸ごとアジームに仕え、奉仕することを意味していた。もはや富豪の一族としてではない、従僕として。毎日の食事で、着替えで、湯浴みで、雑事をこなしていたこの家の従僕たちと自分たちが、同じ立場になるのだ。
あまりに侮辱的な処断に、怒り叫ぶ怒号が響く部屋の中で、少年は不意に隣に立つ母親を見遣った。儀礼的な挨拶だけはしたものの、今も夢現な様子だったその女性がどんな顔をしているのか、妙に気になったからだった。父からの支配が終われば、次は政略結婚で目の前にいるこの従者から支配され続けろというのだ。物心ついた頃からあの寝室の扉は決して開けてはならない、と聞かされ育ってきたもので、少年自身も少なからず彼女をあの部屋に閉じ込めてきた人間の一人ではあるものの、解放された彼女の窶れきった顔を見れば憐みも生まれたのである。
しかし、その顔は、少年の想像していたものとはあまりにもかけ離れていた。彼女の顔は信じられないというように驚愕に目を見開き、そして泣き崩れ始めた。彼の親族はその姿をもあげつらい、アジーム当主を聞くに耐えないような言葉で詰りながら批難していたが、そんな言葉などもはや少年の耳には入ってこなかった。
あの驚愕も、あの滂沱の涙も、すべては絶望からでは無い。そこにあったのは、紛れもなく歓喜だ。虚ろな目に宿ったものは、再び灯った生きる意志だ。隣で見ていたからこそ気付けたその姿に、少年は視線を離さないでいた。今、ここで、探し続けてきたなにかの答えがあるような気がしたのだ。そして、彼女がアジームの従者に立たされ、なにか言葉をやり取りした際に見せた、凍える体が炎から暖を取って綻んだ時のような、安堵した表情。少年はおもわずその従者の顔を見た。長い黒髪に、切れ長の理知的な瞳をしたあの、男。これだ、と少年は直感した。この男だ。この男に、父は、母は、この家は、狂わされてきたのだ。そして何より、少年は男のかんばせに背筋が凍るような、ある仮説を得たのだった。
そして今、人目を忍んだ真夜中に、少年はその男へ謁見を申し入れ、今や男のものとなった屋敷の談話室で彼が来るのを待っていた。
最初は余りにも来るのが遅いので、いっそ乗り込んでやろうかと、あの寝室の扉に手をかけたのだ。しかし、ほんの僅か開いた扉の隙間から、触っただけで崩れるほどぐずぐずに熟れた果実のようにじっとりと甘い女の声が漏れ聞こえてきたので、さすがの少年も言葉を失いすごすご談話室に戻った。少年はいみじくも、熱砂の国の大富豪、その後継ぎだったのである。今や過去形ではあるが、万が一にも間違いなど起きないようにと、ナイトレイブンカレッジ入学を控えたこの年になる前に、閨事の経験といったことも済むよう手配されてきた。あの寝室に閨事のイメージが結びつかなかったのは、経験こそあれ彼にはまだ愛や恋のなんたるかをいまいち理解出来ていないからでもあったし、子供の頃あの部屋の中から聞こえてきた女の声が閨事と結びつくにはあまりにも悲痛で、苦悶した声だったからというのもある。それにしたって、謁見を申し入れた時間に盛り上がっているやつがあるか、と内心で少年は毒付いた。あの男、生来の性悪に違いない。
あれから、この家の新たな当主となったあの従者には、当然ながら家の中で猛反発が起こった。かつて取り引きを打ち切られた深海の商人の手によって、父の醜聞は熱砂の国内外に知られていたし、この家には既に名誉も格もなにもあったもんじゃない。当然、名誉回復の見込みさえ無かったわけだが、それでもこの家の当主一族から強烈な反発があったのは、従僕と同じ立場に身をやつす、それをどうしても受け入れられないがゆえだった。
俺と母親たるあの女性は、新当主の妻とその子息という名目で警護とも監視とも呼べる庇護下へ厳重に置かれたので、馬鹿な真似に巻き込まれず五体満足で済んだ。一方で、炙り出されるようにあの従者や、アジーム斃すべしと結束し立ち上がった者たちは、あの男の手によって一網打尽にされ、反対勢力は今や沈黙している。強硬な処断はこれを待っていたのかと、俺は空恐ろしい気分だった。今となっては、あの男に表面上だけでも付き従った方が賢明だとする人間たちだけがこの家に残る結果となったので、屋敷にはつかの間の平穏が訪れている。多分、男は、このひと時の平穏を永遠にしてしまうのだろう。俺たちは、あの日の言葉通り二度と、熱砂の影の支配者には戻れない。権力や財力といったものではなく、それが出来るだけの力があの男にはあるだろうことを、俺は理解し始めてい
「盗み聞きとは、随分趣味が良いな」
ようやく部屋にやってきた男は、ナイトローブを一枚羽織った気怠げな様子で、俺は隠しもせず眉をしかめた。
「あんた、ろくでもないって言われない?」
「減らず口だな。まあ、おまえくらいの歳の頃は、それぐらいでちょうど良い」
男はなぜか、少年には妙に寛大なところがあって、こうして軽口を叩いたり大ぴらに顔を顰めるのも許容するところがあった。男性にしてはやや細い首筋はじっとりと汗ばんでいて、長い黒髪が一房張り付いている。それがつい先程まで行われていた行為を象徴しているようで、苦虫を噛み潰したような顔になる少年に「話があるんだろう」と男は促しながら、悠然と長い脚を組んでみせた。
「俺は………子供の頃からずっと、この家には何かがあるんだと思っていて。けど、それが何なのか、全然分からないでいた。最初は、あの人だと思ったんだ」
「あの人」
「あんたがさっきまでいた、あの女の人」
ああ……と男は低く喉を震わせて、「他人行儀だな。母親だろう」従者という本来の身分なら一生座れなかったであろう椅子、その象牙細工の肘掛部分に肘を立てると、思案するように口元を覆った。
「物心ついた時には、部屋に閉じ込められてた人だぞ。まともに顔を合わせたのは、親父の葬式が初めてだ………。ともかく、俺はあの人こそがこの家が抱える『何か』だと思ったんだ」
でも違った、と続けた言葉はおもいのほか頼りなさげな響きを持って少年の口からまろび出た。「親父はあの人のためにおかしくなったけど、あの人自身は、親父をどうこうしようなんざ思ってなかった。でなければ………」でなければあんな、苦悶に呻くような声で毎夜耐え続けながら過ごすものか。咄嗟にその言葉を飲み込んだ少年の判断は正しかった。彼は今、目の前で黙して彼を見つめ返すアジームの従者に得体の知れない恐怖を覚えていた。身から出た錆とはいえ、明らかに背後に張り巡らされた謀略の気配を感じる手腕でこの家の当主の座についた男だ。ただ、それだけではなく、相対した彼から煮え滾るような何かを少年は感じたのである。それが、男が内に秘めた猛烈な怒りであることを、蚊帳の外の人間であるところの少年には気づきようもない。
「けど、その違和感の正体にやっとたどり着いた。あの嵐の日、親父の葬式の日に」
男の威圧的な迫力に負けじと、少年も睨み返す。それは人を丸ごと飲みこむ巨大な毒蛇に対して、小さな蝮のひと睨みに過ぎなかったが、男は少年のその無謀ともいえる威勢に今は付き合ってくれる様子だった。
「ここまで辿り着くのに、16年かかった………。16年だ。その間に親父はおかしくなり、国中を滅茶苦茶にして、挙げ句の果てに自分だけ死んじまった。残された俺たちは今や、世を乱した罪人扱いだ」
「何が言いたいのか、はっきり言うんだな」
成長盛りの少年のまだ小さな背から、ぶわりと怒気が膨れ上がる。噛み締められた薄い唇が激情で震えていた。
「お前だったんだな。親父を、母親を、俺たちをずっと苛んでいたのは、お前だったんだ。みんなお前のために、おかしくなっていったんだ」
男が愉快げに切れ長の目を細める。「愉快な想像だ。俺はただ、アジームの従者として真っ当な努力をし続けてきただけの男さ」白々しく部屋へ響いた言葉に、少年はしばし、言葉を選ぶように黙りこくった。しばらくして、ようやく口を開いた少年にあったのは、怒りよりも、これから明らかになる真実への恐れだった。
「これだけは………答えてくれ。あんたは、俺たち家族を苛んでいたわけでは無いんだと言う。だけど、俺にはどうしてもそうは思えない。例えば、あんたは、俺の………
途中、言葉に詰まって少年は唾を飲み込もうとした。しかし砂漠のように乾ききった口の中で、結局喉を痛めるような咀嚼の真似事をするに留まった。
「あんたは………俺の出生に、関係があったり、するのか」
男の目が初めて動揺し、少年を凝視したのが彼にも分かった。違和感は、あった。それは16年かけてやっとこの男、アジームの従者の顔を見て至った直感ではあったが。予感出来るところはあったと、今になって少年は思う。執拗にアジームと断絶しようとすた父。寝室に閉じ込められた母。他家と違って、生まれてこない自分の兄弟たち。二度と膨らむことのなかった母の腹と、取られることのない妾たち。その全てが、この従者と自分のあまりにも似通いすぎた目鼻立ちの答えであるように、若く、密かに思い悩み続けてきた少年には考えられた。
少年はじっと男の答えを待ったが、驚愕に目を見開いていた男の顔に、緊張の意図が途切れたように歪んだ喜色が浮かぶと、男はくつくつと喉を鳴らしながら椅子の上で腹を抱えるように笑い始めたのだった。
「あんた、俺を馬鹿にしてるのか」
「いいや。笑ってなければ、怒りでどうにかなりそうだからさ!」
心底おかしそうにひとしきり笑い倒した男は、目の端に浮かんだ涙を指先で拭うと、「お前のその豊かな想像力に免じて、話してやろう」凄絶な笑みを浮かべてみせた。
「俺はな。確かに何十年か越しに、彼女を手に入れることが出来たよ。彼女とはこの屋敷で幾度か、最高の夜を過ごした………」
少年が再び顔を顰めずに済んだのは、いかにも愉しげに語る男の目に、明確な怒りの炎が燃え盛っているのに気付いたからだった。
「最高の夜………そうさ、そして最悪の夜だった!お前に分かるか?焦がれた、焦がれ続けてきた人をやっとの思いで手に入れてみれば、その体にも、心にも、別の男の影が色濃く残ってるんだからな!何度、毎夜慰めたって、彼女の心も体も癒えやしない。こんなことならいっそ、俺たちは、あの頃に………」
あの部屋で。
目を覆った男の口から出てきたのはそんな言葉で、「狂わんばかりの夜だったよ」こぼれ落ちた男の本心に反して、少年の心は冷えていくばかりだった。「あんたは………」酷い気分だった。なんとかして、目の前のこの男を、そしてその向こうに見えるあの女性と、今は亡き父を、手酷く詰ってやりたい気分だった。
「あんたたちは、頭がおかしいんだ。あんたたちの間で何があったかなんて、俺は知らない。だけど、その何十年前のなにかのために、親父は国中を乱して、あの人は寝室に閉じ込められ、そしてあんたはこの家を乗っ取った。愛っていうのは、それほどのものなのか?そうせざるを得ないほどのものなのか。俺は、俺は………!」
気付いた時には少年は椅子から立ち上がり、男の胸ぐらを掴んでいた。一瞬、このまま殴ってやろうかなんて衝動が湧き上がって、いつだか父に殴り飛ばされた日のことを少年は思い出した。男の瞳はお前には分かるまいとでも言いたげに、冷え冷えとしている。あの日の父は、こんな顔をした俺を殴ったのか。殴ることが出来たのか、と、妙な感傷と納得感が胸に滲んだ。
「おれは、あんた達のようにはならない」
振り上げた拳を下ろすと、少年は突き放すように男の胸ぐらを掴んでいた手を離した。「なるさ」男は酷薄に微笑んで、乱れた襟元を正すと「お前は、俺の………」言いかけて一瞬、口を噤んだ。なにか言葉を選んでいるようだった。
「お前は、俺によく似ている。いつか、どうしようもなく誰かに焦がれた時、お前はいっそう俺に似てくることだろう」
「ならない。俺はあんたにも、親父のようにもなりはしない」
見下ろした筈の男がなぜか強大な存在に思えて、足が竦む。呪いのような言葉に、頭ががんがんと痛むようだった。「これは忠告だ、『息子』よ」悠然とした態度は崩さないまま、男は語った。
「本当にこうはなりたくなければ、あまり俺たちを意識しないことだ。強い拒絶も、憎しみも、意識には変わりない。思えば思うほどに、お前の形は、忌避したそれそのものに近付いていくだろう」
俺たちのようにならずに済むのなら、それが一番良いのだから。
どこか穏やかに、二度と手の届かない何かを思うように呟かれた言葉の響きに、少年は僅かばかり毒気を抜かれた。どこか遠く、少年にはあずかり知らぬ所へ魂の飛んでいってしまったようなその言葉だけは、紛れもない男の本心のような気がした。
不意に、談話室の扉がノックされる。「あなた………」ぞっとするほど熟れたその声は、あの寝室の向こうから確かに聞こえたものと同じだった。
「もう行かなくては。俺も、出来ることなら彼女を片時も離したくはない」
立ち上がり、扉へ向かおうとする男の背を、少年は咄嗟に呼び止めた。「まだ、あんたの名前を聞いてなかった」そう言った少年に、男は顔を歪めるように嗤ってみせた。「やはり、お前はあの男の息子だよ」歩みを止め、少年に向き直った男は、不愉快さを隠してはいなかった。
「そんなに名前が重要か?世の中には、知らない方が良いこともある」
「名前が必要なんだ。俺たちを狂わせたもの、その正体としての名前が。名前が分かれば、区切りをつけることが出来る。俺のこの十六年間にずっとあった違和感は、あんたのために起こったのだと、納得したいんだ」
ため息をひとつ吐いて、男は少年に背を向けると、ドアノブに手をかける。制止する少年の声が響くなか、男は少年の運命を破滅させた者として、その名を名乗った。
「ジャミル・バイパー」
閉まりゆく扉の隙間から、かたく抱きしめ合うひと組の恋人たちの姿が見える。ここに在るのは、永遠の恋人たちだ。互いと、周囲を燃やし尽くすようにして、そうしてやっと再会した恋人たち。
男の広い背中越しに見えたその女性の表情はこの上なく幸福そうで、扉が軋んだ音を立てて閉まっていく間際に、二人の影が重なったのが分かった。
少年は自分の鼓動が張り裂けんばかりに脈動して、体の内側から全身を叩いているのが分かった。その名が、ある言語で何を意味するか知っていた。そして、自らの名前も同じものを意味することを。彼を育てた乳母が教えてくれていたのだ。今は部屋に閉じ込められ、一歩外に出ることも叶わない母が唯一、あなたに贈った贈り物なのですよ、と。知れず、呼吸が荒くなっていく。閉じられた扉を見つめることしか出来ない。凍りついた体は、指先さえ動かしてはくれなかった。
父は、あの女性に狂っていった。あの女性は、アジームの従者に。そして、この家の運命の全てを狂わせた者こそが、あの従者だった。そう思っていた。さっきまでは。だが、もし。この予感が間違いではないのなら。俺たちはあの男女に、最初から全てを狂わされていたことに、なるのではないか。
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オム・ファタールはその時を待つ 最終幕②
初公開日: 2020年10月10日
最終更新日: 2020年10月11日
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