オムファタールはその時を待つ 最終幕
さて、とかけられた声に、かつてあの学園で監督生と呼ばれていた女性は頭をあげた。大理石で出来た豪奢な屋敷、その一室には今、かつての彼女の先輩にあたるアジーム現当主を始め、熱砂の国の名だたる豪商たちがずらりと顔を並べていた。金色の窓枠の向こうは大荒れの嵐だ。粒のように大きな雨水が絶えず硝子を叩くので、必然、緊迫した空気の中に、ごうごうと吹き荒ぶ風と打ち付ける雨、そして遠雷の音が響くことになる。故人を偲ぶため、との名目で送り付けられた花々が屋敷中を埋め尽くしてもまだ置き場所に困るので、この部屋中にも飾られていた。悪天候の湿っぽさに、多種多様な花の香りがぐちゃぐちゃに混じってしまい、何ともつかない奇妙に濃厚な空気が辺りを包んでいた。百合、薔薇、向日葵まで。季節を問わないありとあらゆる花々に、あの街の商人たちの仕業かと、ユウはあたりを付けた。まったく、強かな人たちである。この国を陰から牛耳る富豪たちが一堂に会すると、一体どこから聞きつけたのか。
そんな風にぼうっと心があの日、あの時、あのウィークリーマンションの一室に飛んでいってしまうことが、彼女には珍しくなかった。もう遠い過去の記憶になってしまったけれど、あの時間を振り返ることだけが、かろうじて彼女の心が壊れないように繋ぎ止めていた。しかも、今は目の前に『彼』もいる。アジーム当主の背後に控える形であったし、静かな湖面のような表情は、今何を思ってくれているのか、彼も同じようにあの日々を懐かしんでくれているのかは判然としない。それでも、言葉を交わすことも無くとも、何年かぶりに目にした彼の姿に、ああ、これでまた幾年かは生きていける、とユウは思ったものである。
「この度は、夫の不始末の世話ならびに、このような式の手配までしていただき………」
自分の口からそう出てきたことを、ユウは意外に思っていた。言葉にして初めて、不思議と意識されるもので、ああ、あの人は私の夫だったのね、とそんな当たり前のことを今更実感した自身に彼女はくつりと笑い声が漏れそうになってしまった。「あの人も、喜んでいることかと思います」定型的な謝辞に、あの人とは、どう思ってるかなんてわかる関係では無かったのにね、と胸中で独りごちる。現実の自分と、胸中の自分が乖離しているような、奇妙な浮遊感すらあった。隣にはもうすぐナイトレイブンカレッジへの入学を控えた、亡くなった富豪の男と、彼女の息子が控えている。子供だっているのにこんな風にしか思えないなんて、やはり世間が言うように、自分は冷酷で男を破滅させる女なのかしらと彼女はちらと考えて、それ以上思索を巡らせることをやめた。この事を考えるのは酷く疲れた。彼女を寝台の上にのみ閉じ込め、蹂躙する存在はいなくはなったものの、何年かぶりの自由を与えられて何がしたいか己の内から湧き出てこない程度には、彼女の心は摩耗しきっていた。
まったくだ、と苛立たしげに言葉を返したのは、顔を連ねる富豪の一人だ。「あの男の身勝手に、我々がどれほど神経をすり減らしてきたか」吐き捨てるように溢した男が、ぎろりとユウを睨みつける。世間がユウに向ける印象はおおよそこうだ。これまで、それなりに当主として役割を果たしてきた男を誑かし、破滅を呼び込んだ女。夫を止める事なく、己に耽らせた悪妻。ユウの預かり知らぬところの話ではあったが、彼女に固執するあまり、アジームと手を切った男の判断は、あまりに多くの災いを呼び寄せていたのは確かだったらしい。男は巨万の富を握る富豪の当主、その一角としてはもとより確かに優秀だったのである。その男が乱心した事態を受け、他家に比べ他国と強いパイプを持っていたアジームはよく奮闘した。それでも熱砂の国と他国との関係がある程度冷え込んでしまう事態は避けられず、結果、他の豪商たちもその影響の巻き添えを食う事態となってしまった。この状況に加え、男が行ったのはこれまでの販路を断ち、自身が独自に他国との流通ルートを開くことである。熱砂の国は古来よりしきたりや、伝統を重んじる場所である。閉鎖的であると言えばそうだが、この行いこそが未然に防いできた争いや流血も多い。そこに見知らぬよそ者が参入してくるとなれば、元来この国で売買を行ってきた末端の市民たちにも不満が募る。ましてや、男はこれまでの販路も停止してしまっていたのだ。成り上がりの小金持ちならいざ知らず、男もまた手を取り合いさえすれば、熱砂の国の国庫に匹敵するとまで噂される、この国の大富豪の一人である。男の乱心により職にあぶれた者は、ユウの想像以上に多く、アジームを筆頭とする彼ら富豪たちは各々その救済に奔走していた。彼女に焦がれ狂った男の行いとは、社会秩序の悪化さえ招くものだったのである。
そこに起こったのが、男の毒殺である。犯人は未だ捕まってはいないが、ここまでこの国の影の支配者たちが集まってなお、首謀者の首級が上がらないのだから、内々で結託した彼らが差し向けたということもあるのではと内心ユウは考えていた。とはいえ、真偽は彼女にとって最早どうでもいいことだった。当主暗殺を受け、苛烈な家督争いで更に流血が重なる事態になるだろうことも。そうなる未来を重く受け止め、彼ら富豪の当主たちが身の安全を保証するという名目で、自分たち一族に首輪をつけようとしているだろうことも。そのための対外的なアピールとして、亡き夫の葬式を盛大にあげてくれたのだろうことも。ユウにとっては、どうだっていいのだ。ただ、次に自分を支配する者は誰なのかという疑問だけが胸の内にあるばかりだった。
口々に不満を述べ始め、ざわついてきた室内をアジームの当主が掲げた掌ひとつで収める。カリム・アルアジーム。太陽のような人。その彼が、渋面で眉を寄せていることに、ユウもまたぼんやりと、これは本当に大変な事態なんだな、と考えていた。
「そういうわけで俺たちとしても、これ以上おまえたち一族を野放しにしておくわけにはいかないという結論に至った。これは、この国を乱したおまえたちへの裁定であり、おまえたちを守るためでもあると心得てくれ」
それは、この家をいずれかの富豪たちの支配下に置く事を意味していた。「おまえたちのことは、アジームが責任を持つ」続けられたカリムの言葉に、まあなんとも優しいことだなとユウ自身は考えていた。一族のものたちも、内心ほっとした様子だった。これだけの数の富豪たちが合意しようものなら、家自体が吹っ飛びかねない。アジームの下につくのだとしても、家自体は残してもらえるというのだからそれは、やり直すチャンスを与えるということなのだろう。学生時代、カリムが言っていた言葉を思い出す。
もし、間違ったことをしたヤツがいたら。そいつがやり直すチャンスを与えたい。だから死ねない。そう語ったカリムが、カリムのままでいたことを、ユウは眩しく感じていた。彼女はこの数十年間で、すっかり元の形から遠い、なにか歪な形に自分がなってしまったように感じていた。
とはいえそのカリムを持ってしてアジームの傘下に入るという形を取らないことには、やり直すチャンスを表向き真っ当に与えられないくらいには、他家からの猛反発があったのだろう。災いを撒き散らしながら沈む泥船のようなこの家を、そこで自分が引き受けてしまうところが、変わらぬカリムらしさだと思う。ユウは、多分、何番目かのカリムの妻になるのだろう。位階は末端も末端、一番下に据えられるだろうが、それでも充分な温情だった。ただ、夜に、今度はカリムの手でわが身を征服されるのは流石に少し辛かった。カリムは、あまりに彼と近すぎる。
では彼女を妻として迎え入れると?黙り込んだユウに痺れをきらして、そう問うたのは彼女の後ろにいた一族の者である。「いや」小さく首を横にふったカリムに、一族一堂は驚いて顔をあげたが、彼ら以外のこの部屋にいるいずれもにとって予定調和かつ承知済みの事柄のようで、その表情はぴくりとも動くことはなかった。
「ここまで世を乱した一族の者を、妻として迎え入れることは出来ない。おまえたちにはより重い首輪をつけて貰う」
ジャミル、と呼びかけられ一歩前に進み出たその姿に、ユウはびくりと細い肩を震わせた。そしてゆっくりと彼を見上げる。喪服用の真っ黒だが繊細な刺繍の凝らされた衣装に身を包んだ彼の切れ長の瞳、理知的なかんばせには何年経とうと変わるところは無い。ただ、隣で語らい、手を繋ぎ、雨の中駆けて、唇の熱を交わしたあの五日間に恋焦がれてやまなかった。あなたもあの日々を覚えていますかと、そう告げてしまいたい衝動に喉元まで支配されていた。
「ここにいるジャミルはアジームに仕える、おれの最も信を置く従者だ。彼には、そこの彼女を妻として、当主という立場からこの家の立て直しを図ってもらう。当然、おまえたち一族は今後一切、彼に従ってもらう」
一瞬空気が凍りつき、その空白は一族の悲鳴と怒号で打ち破られた。「俺たちに………」ユウの隣で、彼女の息子が怒りに打ち震えていた。「従僕になれっていうのか」ユウはその言葉を拾い上げてやることは出来なかった。信じられない思いだった。カリムは一族の猛抗議を目を伏せて静かに聞き遂げると、ゆっくりと瞼を開いた。その瞳の輪郭が、妖しげな赤い光に縁取られていることに気づいたのは、カリム以外にこの場ではただひとり、彼のユニーク魔法の正体を知るユウだけだった。
「おまえたちは、自分が何をしたのか分かっているのか?どれほどの人間が露頭に迷い、どれほどの人間が困窮していったか。相応の富を持つ者には、相応の責任が伴う。ここには、魔法執行官も踏み込めはしない。おれたちが持つ富とは、それほどの力を伴うものだ。だからこそ、ここに、おれが処断を下す」
すらすらと言い渡される言葉は明らかに怒りを伴っている。だが不思議なことに、カリムの表情にはあの学園で見た時の不自然な硬さであったり、夢現な様子は一欠片も見受けられなかった。ユウは驚いて彼を見たが従者然と黙って控えたままで、カリムの瞳には間違いなくあの赤い光が瞳を縁取ったままだった。
「やり直すチャンスならやろう。ただし、従僕として。二度とおれたちと同じ席に座れると思うな。生涯をかけて、償ってもらうぞ」
瞬きをひとつした後、「………分かったな、監督生」輪郭の赤い光が瞳から失せたカリムが小さく、やや悲しみを伴って、秘めたように笑った。ユウはおもわず崩れ落ちた。何年も何年も、望まれるまま磨き上げられたあの白魚の手で顔を覆い、たまらず泣きじゃくり始めた。それを絶望からと取ったのだろう一族の者たちが、彼女の様子まであげつらいながら怒号混じりにカリムを批難していた。だが、もちろん、ユウは悲嘆から涙を零しているのではない。どういうわけか、どんなやり取りがあったのか、それは彼女には分からない。だが、彼らはやり遂げたのだ。
大理石の床に蹲るユウに、その従者が手を差し伸べる。彼を見つめ返し、その手を取った彼女の黒曜石の瞳は、実に数年ぶりに生きる気力を取り戻していた。それは、あの五日間の日々に置き去りになったきらめきだ。従者、ジャミルは彼女をそっと立たせてやる間際、今夜、部屋へ。小さくそう耳打ちした。その胸に飛び込みたい衝動を抑え、彼女も小さく頷く。部屋の中には悲鳴じみた抗議の声、窓枠を打ち付ける嵐と近づいてくる雷鳴、そして、あの日と同じ、混じり合ってなんの花ともつかない濃密な香りが、二人を取り巻いている。誰にも分かりようもない事ではあるが、この瞬間、二人はまさしく、あの思い出の住処に再び立っていたのである。
Latest / 148:56
文字サイズ
オム・ファタールはその時を待つ 最終幕
初公開日: 2020年10月03日
最終更新日: 2020年10月03日
ブックマーク
スキ!
チャットコメント表示
🐍