#シーアベ
#読み物の邪魔するネコチャン
少年の手元を明るく照らしていた日差しがにわかに濃く変わり、その緋色の髪を溶かしたような色合いを首筋に塗り付けるに至るまでの間に、様々なことがあった。
彼が物も言わずに手繰っている頁はだいぶ進んだようだし、それをじっと見ていたアベリオンは、少々強く出し過ぎたと思ったはずの薬草茶を一杯、いつの間にか飲み干していた。苦味の感覚も記憶もほとんど無いが、舌や鼻の心配をするには及ばないことだと、経験によって知っている。様々なことがあった。主にアベリオンの頭の中で。
ソファの端と端に位置してしまったのは、物のはずみというか、そういうタイミングだっただけで、別に心の距離を示しているというわけではない。――ないといいなあ、というのが、アベリオンのもっぱらの立場だ。そんな願いを込めて、座る姿勢はそのままににじり寄ったが、シーフォンは眉一つ動かさなかった。冊子様の本の頁を繰る乾いた音が響く。拒絶の意志は感じられないが、それはそれで、集中しているところに水を差すようで何やら気がとがめた。
少年の手の中にあるのは、彼らがそれと知らぬ間にホルムを出ていった古代の戯曲を学者が翻訳して、更に詩人が翻案したのだかしなかったのだか、その末に現代語の散文となってふたたび港に辿り着いた、ありふれた物語のうちの一つだ。実のところ、見つけてきたのはアベリオンの方である。原典をよく知らずとも察せられるほど明らかに、魔術的な儀式の委細を描いた部分が『穏当な』形に書き換えられていて、そのわざとらしさが可笑しかった。同じように思うだろう相手に、その場でちょっとした雑談として紹介しただけだったのだ。シーフォンも最初は笑い飛ばしていたのだが、けしてはっきりそうとは言わないなりに、物語そのものも琴線に触れたらしい。今では、こうしてどこからか続刊を調達してくるにまで至っている。そうだった、この少年は意外と大衆趣味なところがあるのだ。ほんの少しだけある複雑な感情を、後悔と呼ぶべきなのか、アベリオンは仔細に考えないようにしている。
手を伸ばせば届く距離に来て、横顔を窺ったが、やはりこちらと関わり合いになる気は無いようだった。ふと小さな違和感のようなものを感じて、夕陽を盛んに弾く彼の耳飾りが、いつもと違う色の石を吊るしていることに気付いた。今までもそこそこ長い時間見ていたはずが目に留まらなかったのだから、茶の味がしなかったのと同様に、相当気が散っていたことになる。だからどうした、と、内心で呟く。どこへともなく開き直るような響きになった。
シーフォンは本を読むのが早い。さらに一枚頁を進めて、投げ出された片手の方へ、アベリオンは指先を伸ばした。脂気の少ない手の甲の、血管の浮いた辺りを押し潰す。反応は無い。指二本を沿わせて関節をつつき回したが、まだ知らん振りをするので、そのまま手のひらを重ねた。乾いた手だ。これでも多少はマシになった方で、出会った頃の彼は水も吸えない古木のようななりだった。寝食忘れて魔術の研鑽にのめり込むのは、まあ、わからなくもないけれど、物語に没頭するのはそれより少し「わからない」寄りになる。そんなことを考えながらちょっかいの出し方を考えていたのと、あからさまな他人の皮膚の感触が何やら気恥ずかしくなってきたのとで、アベリオンは手首を返した。手指に突き出た骨を、彼のそれと形を合わせるようにむりむりと押し付けていたところで、形勢が動いた。
べち、と虫でも潰すように、シーフォンの手のひらがアベリオンのそれを下敷きにする。驚いて振り仰ぐと、少年は何事か言いたそうな一瞥を投げて、すぐに視線を外した。先程まで持ち上げていた本を膝の上に下ろす。アベリオンの手のひらは上を向いて縫い付けられたままだ。――なんらかの抗議なのは間違いない。ないのだが。追い払われなかっただけ、そもそもここまで無視されただけ、シーフォンの平素の堪忍袋の小ささを考えれば信じがたいほどの寛大さであり、その意図するところがいまひとつ読めない。
読めないなりに、こうしていいということかしらと、手のひらを下から握るように指を折りたたんだ瞬間、「――ア゛ァッ!」と、絞り出すような奇声が上がった。
シーフォンが腕を打ち払う。指先を丸めて隠すように自分の体を抱き込み、キッとアベリオンを睨みつけた。
「なんだよ」
無言だった時間の分だけたっぷりと恨みがましい、まず間違いなく来るだろうこの問いの答えを、実のところアベリオンははっきり用意していなかった。
「……ええと」
いくつか思い当るものがある。その内のいくらかは、こうしてシーフォンが爆発した時点で、もしかすると手をはたかれた時に既に達成されていて、今更言うようなことでもない。答えを探して、シーフォンの顔を見つめた。日没間際の強い日差しが、てんでばらばらの赤毛に乱反射している。その下の頬も、朱に混じって赤い。今まさに不機嫌になりつつあるけれど、こちらを情状酌量する余地をむしろ探してくれてすらいそうな膨れ面。見ていると言葉が出てこなくなるばかりなので、アベリオンは中空に視線を逸らした。あやふやな記憶を辿るような目つきで、自分を動かしたものを探す。
「キスしたい」
何度か目を泳がせた末に、思ったよりも小さくなった声で、そう言った。
ちゃらりと金属の触れ合う音がした。半身を気持ち後ろに反らしたシーフォンは、一度口を開きかけて唇を噛み、やがて両手で音を立てて本を閉じた。
「……ちょっと待て」
言ってソファから立ち上がるのが、まるであべこべの動作に見えて、アベリオンは思わず腰を浮かした。
「なんで」
「なんでってお前、あるだろ、いろい、ろ……」
歩きだしざま、耳飾りを緩めていた手が、口ごもるのと同時に止まる。それでようやくお互いに、どういう誤解があったのか悟った。
「……キスだけでいいから」
言葉が滑り落ちてしまってから、自分でそれに疑義を挟むより早く、シーフォンが口の中で呟いた。
「……それで済むのかよ」
挑発というよりも、勇み足にどうにか理由を付けようとしているだけだ。アベリオンにだってそのぐらいの見分けは付く。だからといって向こうが伝播させてきた、より深い連想を頭から退ける気になるかどうかはまた別の話だ。そしてそんな風に責任を押し付けるのは、たぶん、まったく妥当というわけでもない。
たいそう夕陽が似合うシーフォンを見ていて、今日はろくに構いも構われもしていないと思ったら、何とはなし、触れてみたくなったのだ。ちょっと、と言うには確かに際限が無かったし、今しているように、その欲望を仔細に解きほぐしてみようとしていなかった。そうしたら手が止まるとどこかで気付いていたのだ。
「……自信が、なくなってきた」
顔に血が上っていくのが自分でもわかった。ここに、もう少し強い言葉で何か言ってくれれば、まだしも気が楽なのだが。シーフォンはぎゅっと眉根を寄せたかと思うと、長衣に引っ掛かったままの指を払い落として歩き去った。体に軽い衝撃を感じてようやく、アベリオンは自分がソファに沈み込んだことに気付いた。
――妙なことになった。
喉の奥から、それこそ先ほどシーフォンが爆発させたような、声にならない呻き声が出てきそうで、口を抑えた。上の空で目の前の机に放置された本一冊とカップとを見、片付けておこうかなどと考える。そう頭は空転するのだが、体の方にはやけに重い何かが詰まっていて、指一本も自由に出来ない。ここに座っていてはいけないような気がするが、その理由を考えるのは勇気がいることだ。
不思議なもので、先ほどまではなんでもいいから側にいてほしいと本気で思っていたのに、今はその時を少しでも後に延ばしたくてたまらなかった。
「~~っ……」
指の間からやはり漏れてきた奇妙な声も、出来れば聞かないでいてほしい。
後からすればほんの短い間に、そういう風に、意味もなく様々なことがあった。
(おわり)