ブエノスアイレスの冬
産まれたとの一報を受け、病室に飛び込めたのは数日後のことだった。まったく情けない話で、国境を二つ三つ越えなければならない他国での仕事が入っていたのだ。お産に確実なことなど何もない、妻の命でさえ、そう知識として知ってはいても、腹の底まで浸みるには理解が足りなかったのだと痛感する。予定日よりこんなに早く生まれることだって、あるに決まっていたはずなのに。
そんな猛烈な焦燥感と共に、勢いよく病室の扉を開く。映画やドラマの聖母のように、彼女はベッドの上で赤ん坊を抱いて微笑んでなどいなかった。窶れた頬と、乾き傷んだ髪が枕元に広がっている。白い院内着に身を包んだ彼女のそばに、産まれたばかりの赤ん坊は眠っているようだった。こんな話、彼女の前では口が裂けても言えないが、皺くちゃで目も開いていないその寝顔に、雛鳥の面影が重なった。子供の頃、巣から落ちていた所を母に内緒で飼っていたあの雛鳥。その頃はまだ幼くて、人間が早々に雛を拾ってしまうと親鳥が迎えに来る事が無くなる、なんて知らなくて。結局、僕はその雛を死なせてしまったのだった。
不意にベッドの中から僕を呼ぶ声が聞こえて、到着が遅れたこと、出産に立ち会えなかった事を謝罪した。彼女は憔悴した様子のまま微笑んで、私たちの子供ですよ、と僕にこの子へ触れてやるよう促した。おずおずと、人差し指の先で、産毛の目立つ頬に触る。まだ雛鳥のような顔、怖いほど柔らかそうな頭を見た。そして、指を丸め込んで握り締めている小さな手と、差し出した自分の人差し指から視線を辿り、僕の手全体とを見比べた。小さかった。本当に、小さかった。身長があまり伸びなかった僕は、手の大きさだってそれなりの筈なのだ。それでも、僕の片手だけで、この子の胡桃ほどかというほどに小さな拳を握り締められてしまう。僕の指一本分にも満たないこの小さな手が、やがて、僕と同じだけ大きくなり、成長していく。
そう思った途端、漠然としていた感情が急速に愛おしさに変わっていくのを感じた。それと同時に、どうしようもない、当て所ない痛みがティーカップを溢したテーブルクロスのようにみるみる広がっていった。鼻の奥がつんと痛み、今にも泣き出しそうな顔をしているのが分かった。
「先輩、いまなにを考えているんですか」
あの学園にいた頃のように、彼女が僕を呼ぶ。その声は今も疲労が強く滲んでいる。当たり前だ、命を削る大手術の直後なのだ。なんでもないんだと僕はかぶりを振ろうとしたが、彼女は尚も先輩、と僕を呼ぶ。彼女がこう呼びかけるのは、決まって僕の中で抜き差しならない感情の葛藤が行われている時だ。僕の心の底から噴き出す、嵐のような感情との葛藤。それは、あの時のように。学園で、僕が異形に成り果てたあの時と同じ感情の岐路に立たされた時でもあった。
「今言わないと、先輩はきっと二度と言ってくれない。だから言って。今、なにを考えているんですか」
繰り返す彼女に、僕は遂に喜びと同時に生まれ出た心の澱を告白した。「この子を………」それでも、言葉にするのは震える。祝福されるべき命と共にやってきたのは、恐るべき直感だった。
「この子をルールで縛るなんて、僕には出来ない………」
もし、この子が少しずつ成長して。立ち上がり、言葉をはなし、友達と遊ぶようになっていったら。毎年、宝石みたいな苺が並んだタルトでお祝いしよう。苺じゃなくてもいいんだ。この子が望むなら、体に悪そうなポテトチップスとクラッカーで祝ったっていい。好きな時に、好きな友達とおもいきり遊ばせてやりたい。この子が何に興味を持つのか見守りたい。どうして欲しいなんて思わない。ただ、この子がしたい、と望んだこと、興味を持ったことに、「やっていいよ」と言ってあげたい。
そうしてやりたいのだ。そうされなかったから。
「僕はなにをされてきた?」
心の澱が言葉となり、涙と一緒に溢れていく。彼女の横たわるベッドに染みを作ったのを見て、慌てて顔を背けた。万が一にも、この子に僕の涙など振らせたくなどなかった。彼女は、何か言葉を選んでいるようだった。こんな状態の彼女に気遣わせたのが申し訳なくも情けなく、やはり言うべきでは無かったと、そう言おうとした時だった。
「大事にしていきましょうね。大事にされたかったんだもの」
二人で、この子を。
そっと隣に置かれたような言葉に、僕はとうとう嗚咽を堪えながら泣き始めた。涙はしばらく止まらなかった。産まれたばかりの我が子は、喜びと、痛みの形をしている。だけどそれは今日、ここまでにしよう。この部屋を出て、それで終わりにしよう。だって、大事にされたかったのだから。
いつの間にか、横たわったままの彼女の手が、僕へ伸ばされていた。その指先に、僕も触れる。指の一本いっぽんの感触を確かめる。この子の指が僕らと同じ大きさになるまで、この世のすべての残酷さから、この子を守ってあげたかった。