「ひとのうみ」
 以前、人魚の肉によって、片目を鮮血に奪われて彼の少年はオッドアイだった――が、幾星霜を抜け出して今世。
 絶海にて生き残るその瞳は、薄付きの青を復活させていた。
 まなじりがするどく、引き絞られる。
 ギョロッ!
 網膜なき水晶体の塊が、超大な巨躯の側面にゴロリと飛び出しながら揃ってド真ん前へと黒目を寄らせる――、深海由来の開眼目がコバルトブルーの深味に溺れていた。人魚の色だ。
 敵は、超巨大海洋生物にすぎて、ヒレのある頭部は後ろに垂れ下がっていた。ビルの上階ほどの高度差から見下ろしてくるその化け物に、例のコロッサル・スクイッドの面影はあるが、あるだけだ。
 ヒレ頭、胴体、皮膚と、白目であるはずの領域が生々しくも朱肉色に染まって、目に痛いような巨大イカだった。
 わんさと氷海から、触手が迫り上がってきた。触手が八本。ゴムのようにしなやかな食腕が二本。直径一メートルは太さがある。いずれの吸盤にもくの字型のカギヅメが生えてギュルギュルッと自律的なねじ巻きのようにして潮気を掻きむしっている。
 触手があらわれるとともに、氷と波飛沫が撒き散らかされた。
「っ!」氷河の息吹が額をかすめていく。前後左右に、転覆するように轟々と揺れる砕氷船のデッキに、氷塊を含んだ豪雨を叩き付けられた。
 足元まで波に晒される。が、少年の軸足はかたく、決意も固かった。
 ……死なせない、その一念を発起させる。
 右手は、横に伸ばしたままで――、クラーケンが接舷してくるインパクトに、コンパクトな砕氷船はその竜骨ごと弾かれるが、足場が浮こうとも骸は指先を頭上へと高く掲げた。
「撃てェええええええッッ!!」
 バラララララララララララララッ!! 六つの短機関銃が乱撃した。
 緊急事態マニュアル通りである。みるみる、超大無比なクラーケンの皮膚に穴が穿たれる。泡立った白い体液が噴き出た。
「イエア!」「ヘイ!」骸の左右に三人編成の屈強な男が並び立ち、短機関銃を抱えたまま果敢に前へと攻める。武器の不足はともかく、乗組員はプロフェッショナルにして戦場あがりの傭兵なのだ。
 が、人ならざる感覚器は先んじる。
「!!」
(まだだ)
 まだ、――足らないっ!
 肌の表面がそばだって鳥肌が走る。
 悟るや否や、骸は指出し黒手袋の先から人差し指の腹を囓った。槍を出力させれば体温以上に温度があるそれはよく手に馴染む。
「イカごときが!!」
 ビュ! 石つぶてが飛ぶほどのスピードで、触手の先っぽが骸の面貌に肉迫した。
 腰をねじらせるのみで避わす。皮一枚の僅差に凍る疾風が過ぎていった。すかさず触手は刺して床に縫い付けるも、
「ギャアアアアアアアアアア!!」
「マイガッ!! オガッ!」
 クラーケンは、巨躯に不釣合いな触手捌きで、足元を掬われた二名を氷海へと引きずり込んでいった。骸が叫んだ。混乱と銃声はノイズになって氷海をさ迷った。
「前に出過ぎるな!! キャビンに下がれ!!」
 ギャ! またひとり、海中に持っていかれて奥歯は噛んだ。
(……っ!)
腹にごろんッと転がる、鉛の重さ。流氷のせめぎあう、極寒の海上である。落ちれば、まず、助からない――、観察にもとづく判断はどれほど残酷だろうが必要だった。
 が、ある少年の横顔が、脳裏に浮き上がった。眉間をシワ寄せた。
「――救出を、」
 救命具、浮き輪、必要なものはある――が。
『ぎゃあああっ俺の腕が、腕がアアアアアっがッああ……!!』脳裏にこだまする悲鳴に、血管が凍て付いた。思考が掻き消されてただ、目の前で起きる事実に唖然とした。
「!?」
 海に落ちたはずの男が、イカの怪物――クラーケンの触腕にぐるぐる巻きにされて、クラーケンの下腹部へと収容されようとしている。そこには、クチバシがある。つまりは、捕食する部位だ。
 血だ、戦士が恐れをなして海面を指差した。
(……人を喰っているだ、と!?)
 人間の断末魔が、よすが無き氷海に響く。次々と。
(クラーケンは成人している!?)
(ひとが、食べられるはずが、……魚人もこの海にいるのか? まさか海底に独自の生態系が築かれて)アアアアア!! 味方の兵士が狂ったように喚き散らし、クラーケンの額に機関銃を浴びせる。混乱している男の弾丸は、骸の髪の毛先をすんでのところで焦がしていった。
 チリッとした臭気に、正気づいた。
 青目の網膜のほんの数ミリ先まで、触手とカギヅメは迫っていた。骸が思案したほんの一瞬のスキを狙ってのことだ。
 ず、ぱん、血を操るスキルによって形状変化させた血の鎌によってこれを刈り取る。切り落とした触手は右舷に転がって氷まじりの氷柱を噴き上げた。ザザアッ! 即座に、氷とともに大雨が降り注いだ。びしょ濡れになりながら、間合いを確保する骸とは対照的に、その男は妙に軽いノリで声をかけてきた。
「マジでヤベーなこいつ」
「リボーン」
「ミスター、足元がルスだぜ」
 パララッ! 触手に追われるリボーンの足元を短機関銃が一掃する。砕氷船に穴ぼこができた。触手はさらにぼこぼこになって、体液を漏らし、その血は青く変色していった。
 イカの足は、八本ある。それに腕が二本だ。同時多発的な攻撃が起きて、骸は薙ぎ払いにきた触手を跳んで躱して、上から叩き潰しにきたものはバックステップで回避して、濡れたデッキにタップを踏んだ。リボーンも同じようなものだった。
「オイ! 骸、まさか作戦はこんだけじゃねえよなあ!?」
「……リボーン。無脊椎動物なので人魚に変身しないといっても、クラーケンはシノニムであるようですね」
「しのにむ?」
「同一、種族! て事です。しかもこれではまるで、アイツは僕とあなたにだけ特別な警戒心があるようだ……。イカは本来、近くのものなどほとんど見えない生物なんですよ。それがまるで人魚と魚人は視えているかのようだ!」
「それは、そうだな」
 青年は、後部デッキへの通路を一瞥する。
 戦意喪失した者が、ガタガタと震えて柱にしがみついていた。
 と、捕まれ、傾くぞ!! 誰かが叫ぶ。
「!! チッ、面倒な!」
「分が悪いことは、認めざるをえませんかね……」
 どこか呑気に骸が苦汁を舐めているうちに、砕氷船の底側、竜骨に相当する部分が浮き上がって総員が足元を崩された。うねうねのイカ足が犯人であるとは明白だ。カギヅメが船体に引っ付き、ぎゅちぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ!!
 明らかな異常音が、聞いたことがないような破壊の音が、泡と共に海面に浮上した。
 砕氷船が大きく左に傾き、骸はその場に槍を突き立てて耐えた。自然と舌打ちは漏れている。
「……クソッ、しかし。所詮はイカだ、捕食される側だと叩き込んでやります、よ!!」
 片手ではウィンドウブレーカーのチャックをおろし、少しでも身軽になるために、着ているものを脱いでは捨てた。厳しい極寒の海ではあるが、魚人にして人魚でもある今、骸に死の概念は遠かった。
 甲板デッキに居残る骸の目と鼻の先で、船首から船へ乗り込んできた怪物が、その異形のあぎとを開け放った。トゲトゲだらけの針山のような、おおきな口がイソギンチャクが花開くように広がった。
 ギェエエエエエエエエエエエエ!!
 朱肉色の真っ赤な血色の皮膚にぽっかり、ピンク色の内臓が目視できた。そこは、既に血を滴らせており、人間の肉片をイカの口たるクチバシに食べ残しのように貼り付けていた。
 骸は、その場を動かない。
「骸!?」リボーンが手すりに捕まりながら当惑する。
「クハッ! やはり、僕を喰いにきましたね!」
 骸の頬は狂気的な歓喜に寛ぎ、前歯が光った。血をほどき、新たな一本槍を練り上げる。骸の姿は、超巨大生物の影にぽっかりと包まれた。
 どぉおおんッッ!! クラーケンのクチバシがジャンプして骸を丸呑みしにかかる。砕氷船が、最大級の衝撃に直撃されて、ザブンッと氷海の奥へとメリ込んだ。イカが身じろぎ、ウィンドウブレーカーの布きれをクチバシに垂らした。
 全員の足が浮き、そして床に叩きつけられて、海水に晒された。
 六道骸はシャツにボトムのみ、軽装となってキャビンの壁に真横になって貼り付いていた。血を撃ち出し、即座に血を回収することで超速度での回避を成し遂げてみせていた。
 そのまま、逆上がりの要領で駆け上がって、クラーケンの頭上へと飛翔した。
「死ね」簡潔に告げて、ザクッ、頭のてっぺんからクチバシまでを血の矢でもって刺し貫いた。青白い体液が垂れる。が、それだけで、赤々した朱肉色のヘドロのようなクラーケンはデッキを埋めて、落ちてくる六道骸へと触手二本をびゅっと伸ばした。
 血に我が身を誘導させるよりも早く、青目はデッキ後部に釘付けされた。
「テメェ!! 死ね!!」
 それはリボーンの声だ。肩に武器を担ぎ、ミサイルのようなそれをグッと押し込んで発射させた。反動でほかならない彼自身が後ろに飛ばされていった。
 その弾は、着弾するなり破裂して、デッキの板までも粉砕する。
 砕氷船ごと粉微塵にしかねないインパクトだった。
 ふたたび、全員が浮き上がってさらに床に落ちた。ついでに横殴りの激しい暴雨に晒されて、常人ならば空気のみで絶命するほどの冷気が渦巻いた。しかし、犠牲を捧げるだけの成果はあった。デッキに乗り上げたクラーケンが爆発で海に帰されて、船は水平へと戻る。一部、残存している手すりに血を巻きつけて骸が着地する。
「余計な手出しですよ今のは、リボーン」
「るせぇ! トドメ刺せてなかっただろーがテメェ!」
「僕が死ぬ気に見えました? 死にませんよ、僕はね」
 断言して、しかし苦い味はした。すでに戦死者は半分ほどだ。憎たらしさを半分こさえて骸はリボーンの瞳を睨む。鮮やかな、人魚らしさに満ちた、コバルトブルーの眼球がそこにある。今――、彼は、人魚のスキルをも発動させているのだ。
 キャビンの壁に横向きに立っていたときから、肌がピリピリしている。魚人の肉体が人魚の拘束スキルに反応している。
「……シノニムと言ったでしょう。仮説通り、いや仮説以上にアレは人魚だったんですよ。そんな拘束スキルが役に立ちますかね?」
「使えるもんは箸でも使うタイプなんだよ、オレはよ」
「どこまで通用するものだか」
 もはや、未知なる前人未踏の域である。リボーンは海面に半分沈んでいる人魚を、イカのかたちになっている人魚を、肉々しくも真っ赤なクラーケンを凝視してその魔力で少しでも足止めをしようとした。
 骸が観察するまでもなく、異変は直後に顕われた。
「!! ミスタ、リボーン!!」
「ぐあッ!」
「……通用しないようじゃないですか。ね」
「うるせぇ!」
 リボーンのシャツの襟に血が滴って、青年は出血した両の目を手で拭う。人魚同士の争いが瞬間的に取り交わされて――、リボーンが競り負けた、それは骸にも理解ができた。
 駆け寄ってきた男にリボーンの介助を指示して、骸自身は海へと走った。
「殺し方には、工夫が要るようですね」直ぐだ。すぐに見つかる。
 海面すれすれの場所から、リボーンと同じコバルトブルーの発光があった。
(人魚としての、強さが)直感的に、肌に感じられた。深海種で在るクラーケンのが、より強力な血脈を保持してきた――証左のようにそれが光っている。
 が、これを玩味する前に、世界はしらばんだ。
 戦況と関わりなく
、キャビンの二階部分は見上げた。船内放送だ。不慣れで乱暴で、音割れまでしている、素人まるだしの酷い放送だった。
「――ぃ、逃げてくださぁああああああああああああああい!!」
「…………!?」
 びしょ濡れになって髪からボタボタと氷水を垂らしながら、骸が呆ける。
「……綱吉くん」「船の底に穴があけられましたっっ!! 逃げてください、逃げてくださあああああっい!!」二階の強化ガラスにひっつくのは、マイクを手にしている沢田綱吉だ。顔面蒼白、必死な形相だった。
「きゅ、救命ボートにまわってください!! 移動してくださァ、ッあああうわああっ!?」ギィィーッンッ! 強烈なノイズと音割れが起きて、ほかならぬ張本人である綱吉が自身の放送音に驚いてホラー映画の登場人物のように悲鳴を上げた。
 骸は、声を抜け落として呻いた。
「つなよしくん」
 救命ボート。南極海の荒波に耐えうる、密閉カプセル式のものがある。
 ツナ! と、でたらめな方角へ、目が潰れたリボーンが叫んだ。
「……綱吉くん……」
 骸は、三度、その名を噛みしめる。
 沈没……、それは敗北を意味するだろうか?
 それよりもだ。イカの足が復帰して、最も機敏でながくて厄介なイカの腕たる触腕が二本、上空からキャビンの二階部分へと殺到した。放送によるノイズと強音に反応してのことだろう。強化ガラスが脆くも押し破られてクラーケンの触腕がそこに押し入った。
 ベキボキュベリベリメキバキバキッ! 形容しがたい雑音が、ノイズまじりに船内放送でこだまする。
 一方、氷点下にまで体温が下がった。足の裏まで凍った。
「綱吉くん!!」
 血を飛ばすが、手前の触手を切断しただけで、触腕に届かなかった。外壁から血を用いてキャビンにあがろうとする、がそれよりも早く、さらに事態は悪化した。キャビンから誰かが引き抜かれていった。でかい図体だ。
(あ、…)ほ、と、呼気が抜けた。
 視界はこぼれるほど見開かれ、スローモーションとしてその光景を目に焼き付けた。
 沢田綱吉は――、あのような体格では、ない、それがわかって心胆が竦んだ。安堵している自分がいるが、同時に、烈火のごとき憎悪が視野のきわを赤く染める。自己嫌悪がふつふつとして沸騰した。
 整備係の男の、身の毛のがよだつ大絶叫が、誰しもの耳に絶望を報せる、そのなかに少年の甲高さが残る悲鳴が。
 綱吉は、整備係に男に抱きつき、一緒にキャビンから引きずり出されてきた。
「ギャアアアアアアアアアアアアア!!」
「おじさんっ!!」
 カギヅメ付きの吸盤が男をあますことなくギチギチと埋め立てて、締める。小魚を窒息させるように。呆気なく簡単に破裂する、赤色の果物でも見ているかのようだった。綱吉が半狂乱に陥った。
「だめ!! やめて! やめてーっ!!」
 イカの足は、哀れな犠牲者も、そしてそれにくっつく綱吉も丸ごと氷海にめがけて捨てようとした。血みどろに皮を剥がれる男の服の布きれを片手に、綱吉が宙ぶらりんになってデッキの上空を舞った。
「…………」それは、刹那の出来事だ。全身の血が煮えた。最大風速の憤怒が毛細血管にまで迸る、それを激怒と認識する暇もなく、骸のこめかみに青い血管が筋張って膨れた。足はずたぼろのデッキを蹴って手は最大限に伸ばした。
「ふ、ざけるな、バケモノがァッああああ!!」
 触手を断つべく、血の刃の斬撃を飛ばす、しかしその血は破裂して単なる血液となった。ぱちゃっ! 瀕死の男は骸へのカウンターのようにして、骸へと投げつけられた。
「!! ぐぅっ!!」
 避けずに、男を受け止めるが、体格差がある。押されて一緒くたにデッキを滑り、壊れかけた手すりに激突して止まった。
(ふざけるな)ふざけるな、ふざけるな、憎らしさのあまりに脳裏に怨嗟が反響した。(貴様ら、バケモノは、そうやってすぐに人間の命を弄ぶ……ッ!!)
 沢田綱吉は、途中でふり落とされて、すぐさま氷海と波飛沫に襲われてびしょびしょになって、薄茶色の目を限界まで見開かせていた。青褪めて這ってこようとした。
「おじさん!! 骸さん!?」
「来るな」
 骸は夢中で怒鳴り返した。
「まだ息はある! あのバケモノは、僕が必ず殺す、君は身を隠していて――」
 血みどろの男の喉からすばやく呼吸を確認して、増援を呼ぼうとふり向き、愕然と青目が空っぽとなる。毛細血管が広がって毛は逆立ち、うそだ、と見える世界を否定しそうになった。
「……あっ?」
 少年も、自分が暗くなったことを自覚した。
 細くて華奢な腰にぐるんっとふたまわり、さんまわりは太い触手が、纏わり付く。巻き上げようとした。
 とたん、転倒した。足をとられて濡れたデッキをズザザザザザ! ワックスがけの床をなめらかに滑るように崩れかけた右舷へと転がっていった。うっかりするとその勢いで海に落ちかねなかったが、死にもの狂いで綱吉が咄嗟に両手を伸ばし、その上半身を掻き抱くのも骸だった。
 っ、っ、声にならない悲鳴が、少年たちの身をぶるぶると震わせた。
 骸の左手、手首からは、動脈からの血液が噴き出ていた。実際、血のナイフでそこを切り裂き、操る血量を大幅に増やしてそれを綱吉の足首に触手より先に巻き付かせたのである。
「む、く」骸に上半身をかたく抱かれながら、綱吉が唇を凍えさせる。「ろ、さ、」
 骸が、カタカタと震えながら、綱吉の顔を覗こうとする。血の気の引いた面皮ながらも口角をどうにか上げた。
「……生存者、を。あつめて。きみは」
「……むくろさん……!?」
 絶句する表情が、黒い絶望に侵食された。
『な、なに、なに、何か何か何かなにか!!』
 綱吉を連れ戻したのとほとんど同時に、骸の背中には、クラーケンの触手がぴとりと貼り付いていた。
 吸盤が激烈に吸い上げて、カギヅメは肉をくわえ込んだ。イカには触腕と呼ばれる、特殊な変幻自在の二本足がある。その一本がすぐさま胴体をぐるりと巻いてギチッと六道骸を握りしめた。
 手首からの出血と、カギヅメで掻き回されることによる血飛沫が、どばどばっと綱吉の顔や全身に飛び散った。ヒィ……、か細く喉でうなる少年は、弱々しくも骸の胸に縋りついた。『だ。め。だ、めだ』
「ダ、メ、だめだ、連れて行っちゃダメえええええっ!!」
 骸のブーツが、デッキを離れた。
 次の瞬間には顔面からデッキへとふり下ろされた。
「がっ!!」
 ばん、ばん、獲物を弱らすために無慈悲にそれが繰り返された。
「やめろよおおおおおおお!?」
「オーナー!!」
「シャチョー!!」
「骸っ!?」
 キャビンのがれきに隠れる船長、乗組員、リボーンにそれに綱吉が、引き攣って絶叫した。
 乱雑にデッキに叩き落とされる骸は、肌を切り裂かれながら、上下を逆さまにされてぶらさがった。出血量はデッキに血糊を広げるほどだ。その血は、魚人でもある骸には武器でもある。しかし。
(ク、ソッ……!)バコッ、バゴ! 脳みそをへこますのが目的のように、無遠慮に頭からデッキに衝突させられる。頭蓋骨がミシミシと軋んだ。
「ぐ、……あがっ! がはッ!」
 果汁のように、赤い血が波飛沫に混じった。
 砕氷船が、急速急進をはじめたのはそんな折りだった。
 骸が気が付けば、生存者は合図を交わして突撃のタイミングを合わせたらしかった。非常用の手斧を手に傭兵と、それに綱吉ですら突進してきた。喀血する骸の脳裏に、聞き馴染んだ、愛しい少年の声が響いた。
『死っ……んで――』「たまるかあああああああああ!!」
 誰が。誰を。主語なき魂の叫び。
 手斧や短銃で触手に立ち向かおうとする傭兵たち、しかし彼らとは違って、綱吉の目的はたったひとつだ。側面にまわって小柄な中学生は懐からピストルを引き抜き、リボーンの教え通りに撃鉄を引き上げた。
『この距離で!!』
『ここなら!!』
 発砲音が、曇天にこだました。
 ダンダンダンッ! 撃てる弾すべてが巨大な眼球へと連射された。左目を潰されたクラーケンが音波のような衝撃波を放って、綱吉が尻もちをついた。「ぎゃあ!?」
 絶海に異形の叫び声が行き渡る――と、同時に。
 虫が後退をするように、クラーケンも触手も触腕も、そろそろと海に出戻ろうとした。
「!!」這々の体で、額に青あざを作りながらも綱吉が顔を上げた。転がるようにして走って、骸を縛る触腕に手をかけようとして、しかし血まみれのカギヅメに絶句した。
「骸さんっ!!」
「しっかりしろ!! おい!」
 触れないでいるが、叫びはした。手斧を手にしている乗組員が慌てて走ってきて、ザンッ、朱肉色の皮膚に斧を突き立てる。しかし、いかせんながら、太くて逞しい触手だった。何度もふり下ろしてようやく触腕が骸を解放して海へとさがった。
 綱吉は、ぐったりして動かずにいる骸に叫び続ける。
「骸さんっ!! 骸さん!!」
 目の前で、破けた皮膚が糸を引き、ちいさな噴水のようにして血を噴き漏らしていた。
「ひっ……」思わず、といったふうに、恐怖が喘がれた。それでも、けれど中学生は踏んばった。比較的、傷が少なく整っているままの顔面に手を当てて、その頬をぱちぱちと淡く叩く。
「骸さん、骸さん。骸さん!」
「…………、……っ」
 舌が。激痛によって麻痺しているが、咽喉が閉まった。
 意識はあった。わずかな血の残量、激打、脳髄も皮膚も痛めつけられてともすると言語すら忘れる。激痛。うすぼんやりするその凄惨な血みどろの姿に、彼らは死を予感するらしい。
「骸さん、骸さああん……!!」
「おい、死ぬな。死ぬんじゃねーよこんなトコで!!」
 誰か、こっちにもっと、乗組員が集まってくる。砕氷船はおおきく揺れた。
「…………」パチ、簡単にまばたきする骸の視界に、赤くかたいものが見えた。肉を削がれた骨の破片だ。全身は麻痺したようでどこがどう壊れているのか、今は詳細を把握できないが。
 骸は、きっぱりと、冷静にして清涼な声音で断言した。
「ぼくは、しなない」
 ぎら、と人間のそれとは違う目が、執念が、青い瞳に渦巻いた。
「こんなところで死ぬわけがない……」
「! 骸さん、指が、……っっ」
 青い顔の少年は、その先は言葉にできない様子だった。
 骸は、失われた感覚がにわかに再生するのが、動かせる神経が増える感触によって実感できた。リボーン、沢田綱吉との交流を経て手に入れた、人魚の再生能力である。このスキルを正しく行使しきる前に、次の攻撃が襲ってきた。
 骸と綱吉の真横でそれは起きる。人間が攫われた。海から飛び出た、真っ赤っ赤な触手が残忍なほど、そよ風のように人攫いをした。
「……ぁああああっ!」
「!!」
 手斧が一本、デッキに残された。
 骸が呟く。吐き捨てる。それは今しがた、攫われた男の名だ。
 そして、憎しみを連ねた。
「これだから、ケモノは嫌いなんですよ、人間などなんとも思っていない」
「……あっ……、あっ……!」
 縦に身震いしながら、手斧を見下ろして涙すらからして綱吉が言葉を失う。暴風にウィンドウブレーカーがふくらんではそよぎ、綱吉は結局は荒れ果てた空に目をやった。海は激しく荒ぶり、砕氷船はぎしぎしとクラーケンによって破壊されようとしていた。
『どっ……、ど、う、すれば……? こんなの……』
「船長……」少し離れたところで、怯えて棒立ちしている男を喀血しながら呼んだ。
「船、長、全速。それと変針を。あちらに」
「む、むくろさん……!?」
「僕は、死なない。総員、脱出。この子は連れて行け」
 いくらか再生できた手足を、自分で目視した。
 這いずるようにして上半身を起こし、次に下半身を起こし、右足を曲げて左足でこれを支えにして起ち上がった。感情を極度にうすめた青目は、綱吉を見返した。
「きみはもう行っていいですよ……」
「骸さっ……!?」
「クラーケン。僕の声、聞こえるんでしょうね?」
 穴ぼこだらけの、氷まじりの、濡れたデッキを歩く。
 荒波を直接に渡るかのようなかたい感触が、ブーツの底に当たった。
 砕氷船、船首、最先端へと歩み出ると、船と同じくずたぼろの少年に皮肉な笑みが浮かぶ。クラーケンは船の真下だ。人ならざる感覚器がそれを受信した。
 魚人として刻まれた、六の刻印とともに青い両目を酷薄に、細く歪ませた。
「……全速!! 前進だ!!」船長を脅すように咆哮をあげた。実際に船はエンジンを稼動させて、フルパワーの駆動を放って前へ前へと直進しては流氷をメキメキと砕き割りながら船体下部に取り憑いたクラーケンごと突進する!
 自らの体を目印にするように、船首の最先端部にて立ちはだかった。
 ごうごう、猛風と氷雨が吹雪いた。
「引導を、渡してやる……! 僕が!!」
 手を前へとかざし、さらなる撒き餌を施した。
 血を垂らし、海へと魚人の味を知らせる。
 砕氷船はがむしゃらに流氷へと突入して無防備に竜骨すらも湾曲させながら突撃し続けた。ガッ、ゴツッ!! ダイレクトに足の下に氷の衝撃が伝播されて、船の寿命を悟ることすらできた。
 綱吉が後ろに転んで、両目を負傷しているリボーンを介助している船員が彼の首根っこも捕まえた。その気配を背に、骸は救命ボートを肩越しの視線だけで合図する。「行けっ!!」
「な。なんで、骸さんもっ!?」
「……できれば……、君は無傷で手に入れたかった」
 誰にともなく、沈みかけの船体の先頭に残りながら、囁いた。
(脊髄、が、侵されず人魚になっている……、深海の血脈のばけものども。本当にパンドラボックスではないか)
「むくろさああんっ!!」
「カモン! ゴー、ゴー!!」
「で。でもっ……」『まさか死ぬ気じゃ!?』
 避難誘導されながら、不安に耐えきれなかったらしい。沢田綱吉が呼びかけてきた。
「骸さん、一緒に逃げて下さいよ!? ここは海の上なんですよ!?」
「無駄ですよ。僕が行けば、救命ボートごと沈められる。アレが人魚なら……、用があるのは、僕です。魚人の肉はやはり有用らしい。深海の血脈の連中にとっても」
「そんなのわかんないじゃないか!!」
 反論の悲鳴は、あからさまに動揺している。
 骸は、つい
少年を覗き返してしまった。苦笑した。眉が八の字に寄って甘苦さを味として感じた。その総身は血の雨に吹き曝された後のようで凄惨にしてずたぼろだ。今、六道骸が立てていることすら、綱吉とリボーン以外には理解不能なはずだ。
『シャチョーはゾンビかなんかかよっ! ちくしょう! なんて死体船に乗っちまったんだ!!』「ゴーッ! ゴーッ!!」船員が怒号さながらに綱吉を叱って救命ボートに収容しようとしている。胸中で散々に船長を罵りちらかしていた。
 確かに、ゾンビのようなものだな、奇妙に納得しながら、骸は淡く微笑んだ。
「僕は。人として、クラーケンを殺すんですよ。綱吉くん。生きる事ってどうしてこうも時々、残酷でしょうかね」
「骸さん!! 待って!! ほかに方法が」
「もういい。来ますよ」
「うおわ!?」
 一向に動こうとしない綱吉の足を救命ボートへと引きずったのは、血によって形作られた鞭だった。
 骸自身は、一部がえぐれて形が変わった両手を、我が身の前へと差し向けた。意識を束ねる――、集中する。素材は、この肉体を巡る、すべての血液だ。
 末期の絶叫をあげて轟音を立てながら、クラーケンと流氷によって今にもバラバラになりそうな船体。そこに貼り付く異物、異形、怪物、この世ならざる怪奇の命に意識を委ねる。人魚と魚人が、数日前には町中でリンクして反応したように。かすかな糸が、異なる生命に接続された。
 その瞬間に、骸が両手に構えてふりかぶるものは、真っ赤な銛である。
「――ぉおおおおあああああああああああああああ!!」
 生命を、文字通りに生命源たる血液を凝縮させて、バッと赤い氷雨を海面へと打ち出した。デッキに散らばる、あちこちの血だまりが、磁石に吸い寄せられるように眼前に収束して巨大な血の網を編んでみせた。血のスキルによる赤い網が、エンジンを全速にふかして舵を固定している船を一巻きに巻き上げた。
 ごががががががががっっ!! 氷を噛み砕く音に変化が生じ、血の網は捕えたクラーケンを砕氷船よりも前へと打ち出して全速前進のフルパワーで流氷とクラーケンを正面衝突させた。
 ガラスが割れるような、繊細な悲鳴が、鼓膜の毒になるような異形の悲鳴が残響した。
 同時に、ずんっっ、反動が船にも来た。
 骸の足がよろけるうちに、クラーケンは流氷にまぎれていた氷河のカケラに頭から突っ込まされた。さらに、後部から、砕氷船の先端部にある氷を割るための斧部によってその超巨躯にぐっさりと刃を入れられた。挟み撃ちされたそれが、破裂しながら体液を噴き上げて、砕氷船だったものの上にバシャバシャと青白い血液の土砂降りをもたらした。
 今や明らかに座礁船となった船を、これを捨てて少年は駆けのぼる。
 船首から飛び出す。大網にした血を解放して、全身の血液全てをひとまとめに束ね直して、それは巨大な銛となって頭上に展開された。言葉にならない咆哮が、凍りきった大気を震わせた。
 ――ザグンッッ!!
 いまふたたび、頭からクチバシまで、その超巨大にして強大なクラーケンを串刺しにする。骸の手がどぶっと真っ赤な皮膚を突き破ってイカに突っ込まれているが、構わずに骸はさらなる追撃に打って出た。こちらの攻め手が、本命だ。もはや躊躇わず容赦せずに全身全霊でその生命の死を願った。
「死ねぇええええええええええええええ!!」
 クラーケンが、爆散するように、内側からはじけた。
 体内に潜り込ませた血の銛をほどき、無数の針にして外部に飛散させたためによる、血の爆発だった。それは、巨大な左右の目玉をも吹き飛ばしてゼラチン質な残滓をぶちまけながらそれを細切れにした。白い体液が青くなっていき、骸の赤い血とともに、ぼちゃぼちゃと肉塊とともに氷海に氷柱を立たせた。
 それは、誰の目にとっても、人間の戦い方ではなかった。
 綱吉ですら、怖じ気づいた。
『な、なんて、……戦い……を……』
「――――」ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ!
 肩での呼吸が頻出する。骸にしても、経験したことがない、計算すらも試したことがない戦術である。南極海に落ちて溶けた血液を回収するのなら、まだ、六道骸に勝ち目はあった。しかしとてもではないが不可能だ。
 抜け落ちるように意識が剥ぎ取られた。血が足りない――、血の濃度がうすまったことにより魚人のスキルが通用しなくなり、血の銛がほどけてそこらの海面を赤く染めた。
 骸の目の前には、砕氷船の最先端部、斧のように尖ったところで叩き潰したクラーケンの額だけが、氷山と砕氷船の竜骨にはさまれているそこだけが残っていた。
 誰もがシンとするなか、骸がうめいた。
 背後。まだ残っている気配を感じられた。かすかに。
「……なに……を。負傷者、を、つれて、行け」
「……………」
 しつこく、救命ボートを拒否して、そのせいで出発できずにいる救命ボートからは怨嗟が溢れていた。それでも、綱吉はそんな連中など露知らずに、骨組みと残骸程度になった船に貼り付きながら、躊躇いがちに、名を呼んだ。
「……む、……くろ、さ……」
「はやく」
「む、……むくろさんもっ」
 砕氷船は、はっきりと座礁している。船は後ろに傾き、骸が立っているそこが最頂点だ。
 曇天がはやく流れていき、猛風がごうごうと荒れ狂っていた。傾き、ずるずると後方デッキに落ちてしまいそうな綱吉は、救命ボートからその名を何度も叫ばれている。
 しかし少年は、ブーツの滑り止めをどうにか駆使してデッキに貼り付き、居残っていた。
 手を伸ばそうとしている、らしかった。
「骸さんも――っ!」
「おい!! 沈むぞ!!」
 彼の兄たる男の金切り声が空につんざいた。
 火事場のばかぢからのように、綱吉は器用にブーツのつま先を使って傾く船を登った。ぼう、っと、最頂点に独りでたたずんで、びしょ濡れの青黒い髪の毛とシャツを揺らしている少年の視界に伸ばされた右手が届く。青白い顔面に、血走らせた目をして、綱吉は死にそうなほど必死だ。
「骸、さん。骸さん。骸さん! 骸さん!! 骸!! おいってば!!」
『し、死んで、死んでないよな!? おいっっ!!』
「……」茫洋と、死と生との境界線を揺蕩うように、意識が遠かった。声は聞こえる。綱吉の声が。
 救命ボートはまだそこにある。それは、承知している。だが、血を失いすぎた体が、人外ならざる意識があるにも関わらず、硬直してしまってビクともせず、棒立ちのまま風雨に煽られていた。世界は白くそわそわと泡になるように薄らいだ。
「骸!! こっち!!」
 すべてをかなぐり捨てた綱吉が、ナナメの甲板を這い登ってきた。
 骸の足首に、がし、とその指先がしがみつく。
 綱吉の絶叫は、遠く彼方に消し飛ばされて聞こえないような気がした。
「…………」
 血が、ない。
 脳にすら血がまわらない。
 頭が冷たかった。以前――ふと昔の記憶が廻巡って走馬灯になる。貧血で倒れた沢田綱吉を、説教したことがある。突然、意識を失うから……どうしようもないから……、本当に危険なんですよ? と。
 くらくらして、わかっていてもどうしようもなかった。
「つ。……な、……」
 名前を呼び返そうとして、限界を迎えた。
 ぐらり。重心が海へと傾き、足が踏みはずされて真っ暗闇へと落下する。氷のせめぎ合う冷気の群れが、ひやっこい風が全身を舐めまわした。がくん、と衝撃が止まって、骸の左手首を握りしめているのは、綱吉の右手である。
「むくろさんっっ!!」
 しかしながら海水をたっぷりと含んでいるうえ、綱吉よりも体格がある相手だ。
 綱吉が逆に引っぱりあげられて、船首に残っている手すりの残骸にどうにか肩と体を引っかけて、一緒に落下せずに済んでいるような有様に成り果てた。パニックしながら綱吉はしきりに絶叫する。
「むくろさぁああああんっ!? むくろさん、むくろさんっ!?」
 混濁して、うつらと口中に名を含む。つ、な、……その先が声にならない。
 青白く、赤く、異形の血がたゆたう海面がすぐ真下にあった。自分の身をストッパーにする綱吉も、そう長くはもたないようで苦しげに右手に続いて左手も束ねて骸を引っぱりあげようとした。
「むく、骸さん!! 骸さんはやく、あがって、はやく!!」
「…………」
「しっかり! しっかりしろよぉ!?」
 涙に濡れたブラウン色の目が、幼い子どものように見開かれる。泣きじゃくっていた。そして、骸に助けを求めて、骸を助けようとしている。座礁船はガタガタしながら重心を後部へと傾けて、無数の雨だれをデッキに流していった。
 船首から、左手一本で綱吉に支えられながら、骸は宙ぶらりんだった。
「……つな……く、……」
『く、くっっそ!! 俺のチカラじゃこれ、重たい、重たい!!』
『くそ、なんだよこれ、俺だけじゃ、俺だけじゃ!!」
「だっ、誰か、誰かーっ!! こっちに戻ってきて!! 誰かっっ!!」
『俺だけじゃ、引き上げられ、なっ――!!』
(――――…)頭が、脳みそが上下左右に捏ねられて流転して、ぐちゃぐちゃと混濁する。わかって――る。わかっている。六道骸は、胸中で静かにこれを静かに呟く。この子は本当に優しいんだな、と皮肉のように思えて、妙な愛嬌すら感じられることがおかしくなった。
(このままだと)
(ふたり、海に落ちる……だけ、……)
「――――」ふりしぼるようにして、面を上げた。
 涙する彼と視線が交差する。血の気も無く真っ白な顔色が、その目と頬に光る涙が、ほんの少しだけ骸に救いを与えた。
 気づけば、苦しまぎれに笑っている。
 選択は、わかりきっている。
 悩むまでもない。
「……大丈夫」精一杯のまごころと、誠意を込めて。にこっとした笑顔でいつづけた。
「人魚に殺されるんじゃなければ死にません。いまの僕は」
「!!」
 死ぬほど驚くらしく、綱吉が顔色を失う。
 一筋の血は跳ね上がって、綱吉の手の甲をチリッと焼いた。痛みにゆるんだ手のすきまから、血と海水で滑った手首が、人肌が、掌がすり抜けて落ちていった。落ちることに恐怖はなく、むしろこの少年を救えたことに感謝するほどだった。
 ざぱん、耳で、というよりも頭で聞いて、そのイメージ通りに全身が頭まで海に沈んだ。
 流氷の海だ。肌がゴムのように瞬時に固まった。針のむしろに落ちたような激痛が殺到して窒息以上の辛苦が襲いかかってきた。
「がっ……!」
 ごぽ、がぽぽ、落水の衝撃に酸素が奪われて、氷水が穴という穴から浸水する。臓器が丸ごと雑巾しぼりのようになって酸素がなくなり、肺はからっぽになる感触があった。がぽがぽと口が喘いだ。
 声が、海で隔たれた向こう側から聞こえた。
『むくろ。さ……っ!?』
『だいじょうぶ……!? なにが? 何が!? 人魚に殺されなければって、死なないって……水の中で?』
『水中で死なないって。なに、なに? なに? どうやれば水中からあがれるんだ?』
『海なんだぞ。海、水中の、底で、それって』
『それ――永遠に――死に続けてくも同然じゃないか――!?』
 がぽっ。ごぼ。薄緑色によどんで霞む、海のなかに、丸い気泡が上がっていくのが見えた。氷水が生々しく臓腑を満たし、吐くものなどないのに胃がひっくり返る。息はできない。
『沈んじゃだめだ!!』
 痛くてたまらず、呼吸ができず、どうにもならない。
 これはずっと続く。あるいは南極大陸からクラーケンがまた来れば、それに喰われればそれが今生の終わりになるのかもしれない。永劫と運命を呪う感情すら持てず、そんな余裕も猶予もなく、骸は水底へと沈みつづけていった。
 明るい海面が、薄緑色の薄氷が、遠ざかっていった。
 鮮やかに真っ赤なクラーケンの肉塊がまとわりつくように共に在った。
(……本当、悲惨、だ……)
 永遠は、受け容れなければならなかった。
 これまでの輪廻から、どんな苦しみもいずれは麻痺して感じなくなるものとは、知っていた。地獄のなかで唯一、信じるに値する事柄だった。今まで。そして、これから。
 でも、思考の気力すら苛まれる前に、少しだけ安堵が窒息に混じる。
(……それでもいい……)
(き、みが、……生きていけるなら)
 もう、綱吉の声すら、なにもきこえない。
 深海の静謐が、痛みとともに木霊する。そして青すぎて真っ黒な深海に、なにか、動いたような気配。異形のスキルがそれを嗅ぎ付けて、遠い壁を隔てた向こう側から震幅するかのような気配が――、かすかに。
『……――こ!!』
 なにか、が。
『どこ、どこだ、どこ!?』
「――――」うすく、瞼を持ち上げる。
 眼球がひしゃげて潰れそうだ。潰れているのかもしれない。
 わからない。深海は、すべてが限度なき地獄に満ちている世界だった。人間らしい生き物にとっては。
 なにか、しかし輪郭が見えるように思われた。
 人間。らしき、輪郭。
 泡をぶくぶくと着た、少年だ。
(……うすみどり色の……ひかり……?)
 サア……と、射し込んでくる光の正体がわからず、口唇が半ばまでひらく。
 最後のひといきが、骸を脱出して海面へと上昇する。
 そのあぶくの泡が彼をこちらに気付かせた。
 なにかが、泳ぎ、必死になってその右手を伸ばしてきた。
 なにやら浮遊感に襲われるが、もはや命が尽きる。
 流氷を下から見上げたような、うすみどり色が、最期の――、末期の光ときらめきと幻として、輪廻転生に持ち込まれるか、深海への土産物になるかは、骸は知らなかった。
つづく
 
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280:35
みかん
ひとみのうみ、一先ずですが完成おめでとうございます。お疲れ様でした。
282:04
えび
わーーーー!!!ありがとうございます!!!はじめて使ってみたのですが意外に集中できてこんな時間になりました…!笑 お言葉をありがとうございますーーー!!
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向き
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魚の血脈「ひとのうみ」
初公開日: 2020年08月02日
最終更新日: 2020年08月02日
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二次創作、骸×ツナのパラレル長編一部です