そういうのはね、阿吽の呼吸と言うんだ。
 病院のベッドに身を起こした一与が教えると、すぐそばの椅子に座った飛雄はこてんとまあるい頭を傾げた。学校名の入ったジャージ姿のまま、飛雄はいつも部活のあとに一与の入院している病院にやってくる。まっすぐ家に帰っても共働きの両親はまだ帰っていないし、年の離れた姉の美羽はもう家を出ている。一与の病室で話をしてから、家に帰って用意してある夕食をあたためて食べる。飛雄は早寝早起きだから、両親が帰ってくるより先に眠っていることも多いようだ。
 飛雄がこの春入学した北川第一中学の男子バレー部はなかなかの強豪らしい。小学校の頃から年上の子らに交じっても上手かった孫だが、さすがにレギュラーを取るのは厳しい道のようだ。飛雄がやりたいのはセッターで、部にはとびきり上手い先輩セッターがいるという話だからなおさらだろう。
 まだ一年生なのだから、焦ることはない。でも、飛雄が背番号をつけて中学の試合に出るのを見に行きたいと思う。飛雄の問題ではなく、一与の問題で、それがとても難しいことだとわかっているのが切ない。飛雄もわかっていて、「見に来てほしい」とはもう言わないのが一層切なかった。
 見に来てほしいとは言わないのだけれど、飛雄はよくバレー部の話をした。一番話題にのぼるのがその上手くてサーブのすごいセッターの先輩(主将らしい)で、彼と、それから仲のいい副主将の話が今日の飛雄の話題の中心だった。
「及川さんと岩泉さんがやっぱりすごい。走ってても、二人には追いつけない」
 中学生男子と言えば一年と三年で体格も体力もずいぶん差があるし、後ろを追いかけているだけでも十分すごいと思うのだが、負けず嫌いの飛雄としては悔しいのだろう。まだ小さい頃一与と美羽と飛雄で坂道を走る練習をしていたら、八歳も上の姉を一生懸命追いかけて顔を真っ赤にしていたのを思い出して思わず頬が緩んだ。美羽が一切加減しなかったのは意地悪ではなく手抜きをしない性格ゆえと、くちゃくちゃの顔で追いかけてくる弟が面白くて可愛かったのだと一与は知っている。
「あと、試合中もすごい。すごい、息が合ってる」
「へえ」
「小学校のクラブチームから一緒なんだって」
 金田一が言ってた、と飛雄が続ける。金田一と言うのは確か、飛雄と同じ一年生で一番背が高い子だ。一年生で一番上手いのは、と聞いたら飛雄は迷って、「国見かな」と言っていた。何でも器用にこなしてしまうらしい。一与は飛雄からそういう話を聞くのがとても好きだった。目を細めて聞きながら、そして「そういうのはね、」と人差し指を立ててみせた。
「阿吽の呼吸と言うんだ」
「あうん?」
「そういう風に息がぴったりだったり、言葉に出さなくても呼吸を合わせたみたいに行動がぴったり一緒に合わせたりできること」
 説明すると大きな目をぱちくりと瞬かせた飛雄は、言葉を転がすように唇をもごもごと動かした後でやがてゆっくりと頷いた。
「そう。試合中に、突然いつもと違うことやっても、二人でぱってできてる」
「そうそう、そういうこと」
「何であうんって言うの」
「ええっとねえ……」
 子供の「なんで」攻撃は強力だ。うっかり間違ったことを教えるわけにもいかない。必死に記憶を探りながら、一与はまず手元の紙に「阿吽」という漢字を書いて見せる。
「こんな風に書くんだ。阿吽。飛雄、お寺さんの入り口とかでこわい顔をして棒を持った像が両脇にあるの、わかる?」
「ぐわって顔したおっさんの?」
「おっさんではないけどね。あれね、今度よく見てごらん。一人は口を大きく開けていて、もう一人はぎゅっと閉じてるんだ。阿吽の阿は口を大きく開けて出す音、吽は口を閉じてぎゅっとして出す音。あー、うん」
 一与がやってみせるように口を開いたり閉じたりする飛雄の様子が可愛い。
「それが呼吸だよ」
 本当は確か色々な意味があるのだけれど、辞書で調べずに教えられるのはこれぐらいが限界だ。それほど深く知りたかったわけでもないのだろう、まだ口をあーうーと開閉している飛雄も追及しては来ない。その代わりに「今度お寺で見てみる」と言った。「今度連れていって」とは言わない孫のつやつやした黒髪を、一与はたまらなく愛おしい気持ちで撫ぜる。くすぐったそうにしながら、飛雄は唇を尖らせて何か言いたそうなそぶりを見せた。
「うん?」
「及川さんと岩泉さんは」
「うん」
「小さい頃から一緒にいる時間が長いから“阿吽の呼吸”ができるの」
「そうだねえ」
 考えながら一与は答える。飛雄が所属していたファルコンズから同じ中学に進んだ子はいないようだ。中学進学を機にやめてしまった子も多いらしい。
「その二人はそうなんだろうし、気も合うんだろうし」
「うん」
「でも、時間だけじゃないよ」
 そういうのはね、と続けた。
「強い選手になればなるほど他の人と呼吸を合わせるのもきっと上手くなるし、それに、過ごした時間が少なくてもぴったり合うって人もいる」
 少し背が伸び始めた飛雄だけれど、さらさらと指通りのいい髪の毛は子供の頃のままだ。
「飛雄もいつか、そんな相手に出会うのかもしれないな」
 見られないかもしれない「いつか」を思うことは少し切なくて、それでもやはり幸せだった。
「阿吽の呼吸なんて影山、よく知ってたな」
 インターハイ予選、青葉城西の試合を見た後でバスに向かいながら菅原が言った。自分より背の低い先輩を影山が見返していると、すぐ横を歩いていた月島が「君ちゃんと意味言えるの?」と皮肉気な口調で言う。むっと腹を立てて、睨み返してやる。
「あれだろ、二人の呼吸――呼吸、が、ぴったり合ってるあれだろ」
「まあ合ってるけどさ」
「寺の門とかにいる強面のおっさんがあれだろ」
「おっさんて」
 菅原は吹き出したが、月島にはずいぶん呆れた顔をされた。何だその顔、と言い返そうとすると澤村に後ろから肩を掴まれて「明日も試合なんだから無駄な喧嘩しないように」と凄まれる。彼を怒らせると怖いことは十分承知していたので、影山も月島も黙って歩き出した。まだ笑っている菅原だけが楽しそうに、でもさあ影山、と言った。
「あれだよ。青城の及川と岩泉?とはまたちょっと違うかもしれないけどさ」
「はあ」
「お前と日向も、時々そう見えるよ。出会ったばっかなのにな」
 息ぴったり?ってやつ?
 茶目っ気のある目で言った菅原は、「でもまだ時々、たまーにだけどな」と続けてにかっと笑ってさっさとバスに乗り込んだ。 
 影山はバスで日向の隣に座って、しばらくはくだらないことを言い合っていたが、そのうち二人とも睡魔に負けてうたたねをした。眠りに落ちてしまう前、祖父の話していたことをを思い出したような気がしたのだけれど、起きるころにはそれが何か忘れてしまった。
 影山と日向が、「前から組んでたんじゃないのか」などと春高の観客を驚かせるようになるのは、まだ少し先の話だ。
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阿吽の呼吸(一与さんと飛雄)
初公開日: 2020年06月02日
最終更新日: 2020年06月03日
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「阿吽の呼吸」という言葉を知っている影山くんについて考えてみたら教えたのはこの人かもしれないという話