僕たちの春は終わった。
春と言うのはもちろん、比喩表現だ。春高。高校バレーの、最高の舞台。高校最後の試合。初めてセンターコートに立って、四位で終えて、部活を引退した。その話は今はやめておくことにして、つまり何が言いたいかと言うと、僕はまた新たな目標に向かわなければならない。すなわち、受験だ。
二年上の菅原さんは春高の日程中でさえ普段通りを貫いて、かけす荘の畳の部屋で勉強していた。けれど僕は一切、勉強道具を持ち込まなかった。一年の時と、それから二年の時と、まったく同じように夜に走りに出た日向と影山の二人のお目付け役として宿の自転車で追いかけた。三年の時、「せっかくだから、買い替えたんだよ」と真新しい自転車で迎えられて、お礼を言うより先にちょっと笑ってしまった。結局三年間、烏野の春高の宿だったかけす荘。烏野高校バレー部の名が有名になるにつれて集まる寄付金の額が増え、もっといいホテルにでも泊まる案も出ていたらしいが、武田先生からそれとなく意向を聞かれた山口は「かけす荘がいいです」と答えた。「て、言っちゃったんだけど、いいかな」と後で聞かれて、日向も影山も、それから僕も頷いた。僕らの感傷と呼ぶべきかもしれない何かに付き合わされた後輩たちは気の毒かもしれないが、カリカリに皮を焼いた鮭がうまいうまいと喜んでいたから、まあ、いいだろう。
数日間、バレーのことしか考えなかった代わりに、最後の春を終えてすぐに勉強漬けの日々に入った。遅すぎるぐらいで、焦りがないでもなかったが、自分が選んだことだから仕方がない。だけど自由登校が始まり人もまばらな三年生の教室でその日、僕がなぜ影山と二人で机をくっつけて勉強なんてしていたのかは思い出せない。山口は推薦で合格が決まっていて、日向は正直僕には理解できないような進路めがけてあれこれと忙しくしていて、三年弱、あれほど一緒にいた同期と過ごす時間は部活引退後ずいぶん減っていた。
目の前で眉を寄せている影山もまた、受験とはまったく関係のない男だ。引く手あまたの中からシュヴァイデンアドラーズという強豪チームに入ることを決めていて、だから彼が今必死に汚い字で空白を埋めているのは学校から出された課題で、ユース代表の試合なんかでとにかく公欠の多い(かつ、普段の成績の芳しくない)彼のために出されたものだ。進路が決まっているのに卒業ができないんじゃ笑い話にもならない。影山はとにかく必死の形相である。僕は受験勉強の傍ら、時折彼をからかって、時折教えてやっている。
さんざんからかった後に、影山が躓いていた計算問題のヒントを出してやったら、影山のきつい眉が少し緩んだ。高校に入学したての時は目つきの悪い野生動物のようだった彼も、ずいぶん表情豊かになったものだと思う。試合中にはそれほど凶悪でない笑顔を浮かべるようになったし、春高前に陣中見舞いだと言って県内の大学に進んだ菅原さんが顔を出した時なんか、やっぱり、ちょっと、あれは、うん、やっぱり笑っていた。一瞬、見惚れて、そんな自分に気づいて、それから一瞬、どうしようもなくむなしい気分になった。何がむなしいって、影山に恋することほどむなしいことはない。
告白ラッシュ、という言葉がある。文化祭みたいなイベントの後だとか、それこそ今、卒業前だとか、そういう時勝手に気持ちを盛り上げて告白が頻発するというアレだ。今、またプリントに向きなおって静かな表情を浮かべている、馬鹿みたいにきれいな顔をした影山は以前、時期なんて関係なくそのラッシュに晒されていた。
どんなに可愛らしい後輩に告白されても、どんなに綺麗な先輩に告白されても、どんなに親切なクラスメイトに告白されても、影山の答えは同じだった。「今はバレーに集中したいので、ごめんなさい」。あんまりにも公平で均等なので、かえって感心されていたぐらいだ。
今は、って何だよ。と、当時の僕は思っていた。バレーに集中したくなくなる影山飛雄なんて、未来永劫存在するはずもないのに。
一番気まずい目にあったのが、うっかり自販機の影にいたところで影山が告白される場面に遭遇した時で、そのうえ告白してきた相手が週一で通い出した塾で一緒の同級生だったものだから、コーヒー牛乳のパックを握りしめたまま僕は必死に息をひそめた。音楽の話が合う、気のいい男だった。
告白したのはそいつで、僕じゃないのに、死にそうな気分だった。
チームメイトがそんなところで死の危機に瀕しているとは露知らず、影山はやっぱり答えた。
今はバレーに集中したいから、ごめん。
朝練の後に駆け寄ってきた可愛い女の子に言ったのと、部活の休憩中に堂々と近寄ってきた綺麗な女の人に言ったのと、寸分変わらない声の調子で。
告白した同級生が、そう言われて、「ありがとう」と言った気持ちが僕にはわかるような気がした。
幸いなことに影山は自販機とは反対方向に駆け去って行って、胸を撫で下ろした僕はそのタイミングでうつむきがちに歩いてきた同級生と顔を合わせてしまった。ばっちり視線が合って、何か言わなくちゃと焦って、思わず「趣味が悪いね」と本音が転がり落ちる。
「よりによって、あいつなんて。顔とバレー馬鹿がとりえの、ばかじゃん」
焦ったせいで馬鹿が重複してしまった上に、なんだか、すごく子供っぽい言い方になってしまった。同級生は目を瞬いて、それからちょっとほっとしたように笑って、「そこがいいじゃん」と言った。
彼とそのことについて話したのはその場で最後だったけれど、今でも塾で会えば音楽の話をする。
彼のように告白したいだなんて思わない。そんな勇気はない。ましてや付き合いたいだなんて思わない。
ただ、叶うなら、誰のものにもなってほしくない。バレーの神様以外、誰のものにも。
そんな僕の身勝手な考えなど知る由もない影山は、今度は鼻にしわを寄せて、プリントを睨み付けている。
「なあ、月島、ここ……」
「王様はさあ」
だから僕が心配なのは、ひとつだけだ。
王様って言うな、というこの三年ほどで何度もくりかえしたこたえを一度挟んでから、「何だよ」と君が言う。
「君って石油王とかに、『君の為に最強のバレーチームを作ってあげるからうちにおいで』とか言われたらついていきそうだよね」
可愛い子にも美しい人にも優しい男にもそう簡単に頷きはしないだろうけど、バレーを餌にすればちょろいんじゃないだろうかこの男、というのが三年間そばで見つめてきた僕の懸念だ。生憎石油王及びそれに比する大富豪になれる予定は全くないので、その方向からかっさらわれたら僕にはどうしようもない。
あまりに突拍子のない僕の質問に、影山はぽかんと口を開けて、それから首をかしげてちょっと考え始めた。たぶん、苦戦している課題よりかは僕の相手をするほうがよかったのに違いない。ていうか、「何だよそれ」って一蹴しないのかよ。やっぱり心惹かれるのかよ。
勝手に質問しておいて、勝手にイライラする僕の機嫌の乱高下に一切気づかずに、首をもうひとひねりした影山はようやく答えた。
「一チームじゃ試合出来ねえから、どうせならリーグ作って欲しい」
「……君って結構、」
「あんだよ」
結構、強欲だ。
続きを言わずに下を向いて笑いだした僕を影山が「なんだよ」とシャーペンの頭で追撃する。
君が強欲で、そんなにちょろくなくて、簡単には誰のものにもなりそうになくて、安心したのだと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。
言う気もないのにそんな風に考えて、でも、やっぱり言う気がないから、代わりに「影山、」と呼びかける。
「僕、大学でも、バレー続けるよ」
一時間たったのでとりあえずおしまい。オチつけていつかまとめたいね。