「――はっ、はぁ、……っ」
大河の流れに乗るようにして、ひとりの少女が飛んでいる。
背丈の低く、童顔そのままの童であった。ふっくらとした福耳、そして白髪と水母色のワンピースを乱しながら、頻りに背後を気にしている。その表情に刻まれる焦燥の色は険しい。
少女には戎瓔花という名前があった。実は彼女は誰がその名を付けたのか知らない――何故ならば彼女は水子の霊だからだ。
気付いた時から賽の河原にいて、夭折の罪を償い続けるだけ。ただ、自身の名前がそうであるということだけは知っていた。
「……どうして、こんな……っ」
けれど今、彼女は縛られ続けていた賽の河原にいない。もう景色さえ見たことのないところまできているのに、止まることができない。
食い縛る歯の隙間から泣き言が零れる。
「お待ちなさいな、お嬢さん」
ぞ、と。
低く、甘い、甘い声が、優しく少女を手招く。甘い桃のにおいが、少女をいざなう。
まるで白墨をかじり甘い声を出した狼のように感じられ、少女の背に悪寒が走る。
いいや。まるで、ではなく、まさしくそうなのだと、彼女は知っていた。
「くっ、この……っ」
石符「チルドレンズリンボ」
振り向き様に瓔花はスペルカードを宣言する。周囲にある石を霊力で浮かせた少女は、放射状に弾幕を放つ。
このスペルカードは一定距離で一度停止し、再度動き始める弾幕であった。初見であればまず間違いなく挙動を警戒する。また、停止した弾幕それ自体が壁としても機能する。後ろの存在から逃げるには最適な弾幕だった。
「あら」
その上、そんな言葉が漏れたのを聞けば、逃げ切りを確信しようものだった。瓔花は捨て台詞を吐こうと後ろを振り向いて、
邪符「ヤンシャオグイ」
――ヴゥン。
スペルカードの宣言と同時に弾幕を通り抜けて飛翔してくる何かに、瓔花は目を見開き、同時に吐き気を催した。
瓔花だからこそ、放たれた弾幕の正体にすぐに気が付いた。
……あれは、水子霊おんなじだ。
……いや、いいや! 理性が、それを拒否する。あれを仲間だと思うことを否定する。
悪霊化してなお鬼として使役され、もはやただただ胎内回帰のために獲物を追い縋る、同類の成れの果て。
もう、あれは別物だ。水子ですらなくなり、悪霊として飼い慣らされたぐずぐずの鬼。
……イヤだ、あんなのに捕まりたくない……!
今度こそ、瓔花は必死の形相で目を背ける。全力で飛び続けているが、飢えた鬼霊が徐々に距離を詰め始める。
「妈、妈」
「回、去、吧。回、去、吧」
「为何? 为何?」
声が、瓔花を呼ぶ。純粋な帰巣本能が悪意と融け合ったそれは悲鳴に近い。
耳を塞ぐ。怨嗟にも似た呼び声はそれでも鼓膜を揺さ振ってくる。
……イヤ、近付いてくる。振り返りたくない。
「回去吧」
嗚呼、声が――耳元から。
桃と、血の混じった生温かい吐息が、はぐと虎口を開いたことを悟らせた。
恐怖に彼女は目を瞑る。
――身を強張らせて待ち受けていたその瞬間は、何秒経ってもこなかった。
「……?」
空いた空白に疑問が生じた瓔花は、恐る恐ると瞼を持ち上げる。
そこには、緑があった。
緑色の何か。靄や霧と呼ぶには違和感のある、妖力の発露。
それが、追い縋っていた水子の霊を絡め取っている。
「什么? 什么?」
「真、羡慕、你。嫉、妒」
「回、程」
霊鬼が網にでも引っかかったかのように緑の靄の中でもがいているのを。
緑色の少女が眺めていた。
くすくすと。くすくすと。
いつの間にか頭上に架かっていた橋の、欄干に腰かけて。金糸雀色をした髪を揺らして、無邪気にそれを見つめていた。
それはまるで。蟻を潰すのがおかしくて堪らないという子供のような目で。
無邪気で、悪意に満ちていた。
「――あら」
甘い声に、どきと身が跳ねる。少女の姿に背筋に寒気が走っていて、追われていたことも一瞬忘れかけていた。
振り返ると、下手人の姿が見える。ふわりとした柔らかそうな紫陽花を思わせる青の髪を、鑿を差した飛仙髷に結っている。水色のワンピースも白の上着も軽やかな軽装で、その印象を天女のような羽衣が強めていた。青く輝く垂れ目も合わさって、柔和で穏やかな……それこそ、天女のような人相に――見える。
けれど。覗く肌の艶めかしさが。膝丈の裾、胸元のフリルから露わになる妖艶な肉付きが。ふっくらと情欲を誘う頬が。その穏やかさを、毒に変えていた。
何より――その紅を差した唇は、悪意に歪んでなお婀娜めいている。
瓔花が縛られていた賽の河原に霍青娥と名乗った彼女が訪れたのは先刻のことであった。石を積み上げる……それだけしか知らない、許されない水子霊に対して、最初彼女は慈しみをもって声を投げかけていた。しばらくすると、その水子霊も気を許したのか、彼女が取り出した桃の花にじゃれついて遊んでいた。
地蔵菩薩に帰依した行者だろうか。その様子から瓔花はそんな考えに至り、一度目を離した。彼女は地蔵菩薩は目にしたことはあったが、行者はこれまで見たことがなかった。そういう存在がいるとだけ耳にしていたから、その光景に対してふっとそれが思い出され、そうさせたのだ。
だが、何となしにもう一度視線をやった時、彼女はその水子霊を悪霊へと変質させていた。
驚き、次いで怒りに打ち震えた瓔花は衝動的に、彼女へ弾幕ごっこを仕掛けた。最初こそ優位に進めていたはずなのに、気付いた時には瓔花は逃げ惑っていた。そんな瓔花を、次はお前だと言わんばかりに――いや、まさしくそう言っていた――彼女は執拗に追いかけた。
しかしそんな経緯にもかかわらず当の本人の関心は、隙だらけの瓔花から欄干の少女へと移っていた。
少女を見つめる青娥の笑みが――にぃ、と深まる。
それに反応して、少女が眉をひそめた。
「……なぁに、雀。誰もいないじゃないの」
から、から、と橋が鳴る。その湿った声に、少女はぱっと振り返った。誰かが来たのか、ぴょんと欄干を跳び越えて姿を隠してしまう。
「え? 下? あぁそう、珍しいこともあるものね」
少女が何かを言ったようには聞こえなかったのに、どうやら事情を知ったらしい誰かが、ついと欄干から顔を出す。
一瞬、少女がもう一度顔を出したのかと瓔花は思った。同じ金糸雀色の髪。同じ緑眼。同じ色の悪い顔。同じ服装。
しかし、違う。無邪気な悪意を喜色という形で満面に浮かべていた少女に対して、今見下ろしているそれはあまりに陰鬱だった。目元に浮かぶ隈じみた影が、殊に快活さの欠片もない陰気さを醸し出していた。
「橋を渡らずくぐるなんて。何のための橋なんだか分かりゃしないわ。妬ましい」
無口だった少女に比べて、それはぐちぐちと陰湿に独り言ちている。
ただ、それだけ。ふたりに対して何かしら思うことがあるのか不機嫌さを露骨に出していたが、しかしその緑眼からは干渉しようという関心がまるでなかった。
すい、と視線が逸れる。再びそれが橋の影に入ろうとして、
「あぁ、素晴らしい、素晴らしいわ、あなた」
それを呼び止めるように、青娥は興奮の吐息を漏らした。
称讃に震える声に、振り返ろうとしていた体が、止まった。
「……どこの誰だか知らないけど、なに、イヤミ?」
緑の輝きが強さを増して青娥を射抜く。だが彼女はそれを飄々と受け流した。
「霍青娥です。仙人として、末席を汚している身ですわ」
「あら仙人様。それはそれは」
目を細めたそれは、口元を手の甲で隠して小さな笑いを零す。
笑い、といってもそれは柔和で歓談のものではない。棘を露わにする攻撃のそれだった。
「わたくしめなぞにそのようなお言葉などと、お戯れを」
「とんでもありませんわ。あなたのそのお躰、大変素晴らしいもの。是非とも」
「だ、ダメよ、そいつの話をまともに聞いちゃ!」
思わず声を上げた瓔花に、ようやくふたりの視線が集中する。いつの間にか、瓔花はそれの傍にまで避難していた。
「そいつは邪仙よ! 水子霊なかまを悪霊にしてたもの!」
「だそうだけれど、弁解は?」
「確かにそのようになじられることもままありますわ」
「ほらみなさい!」
「けれどそんなことはどうでもいいのよ、お嬢ちゃん」
「おじょ……っ」
「私が仙人となったのは、仙人になりたいと思ったから。そのために私は手段を選ばなかった――いえ、選べなかった。そのためには手段を選ぶなんて余裕のあることができるほど、私には才がなかったもの」
「私はやりたいことをしたいの。その結果、周りから邪仙と呼ばれたりするけれど、それはどうでもいいことなのよ」
「……平然と嘯けるのね。それに自己中。なんて妬ましいのかしら」
「そういえば、お名前、お聞かせいただけるかしら」
「何故?」
「言いましたでしょう、興味があるからと」
「……水橋パルスィ。妖怪よ」
「パルスィ様。よい名ですね」
「もういいかしら? 私も暇じゃないの。追いかけっこの続きならどうぞご自由に」
「え、助けてよ」
「妬ましい太々しさね。私にそんな義理もないんだけど」
「気が変わったの。今はそれよりもあなたの方が興味あるわ」
「めんどくさいの連れてきてくれたわね。責任取りなさいよ」
「私だって好きで追われてたわけじゃないんだけど」
「あなたの躰、本当に不思議ね。陰陽の別でもなく、一体でもない。重なってるのね?」
「……」
「どうしてそうなるのかしら。一体であれば私もできるのだけれど、その理屈が分からないわ」
「知りませんわ。私、生まれつきこうだもの」
「そう? でもさっきの従僕。あれも面白いわ」
「ねぇパルスィ様、あれをくださらないかしら?」