歯
「三十分後だ。いけるか、皆木」
「はいっす」 
 反射的に返事をしてしまった。この人にはそうしてしまう何かがある。
 目の前の皿はあと残り五枚、コップ三つ、箸、フォーク、細々したもの諸々。数はそう多くない。休日は食事の時間がまばらだから、こんなものだ。乾燥棚はまだ余裕があるし、急いで拭く必要はない。
 上着はさっき決めて、椅子に掛けた。出掛けるには、あと財布と携帯があれば事足りる。五分前には玄関に行けるはずだ。泡が同じ色の皿の上を滑る。ざっとシンクを水で流して、取手を上げた。
「うっし、終わり」
「おや、買い出し?珍しい組み合わせだね」
 
 談話室の扉が鳴いた。最近蝶番の調子が悪くて、少しきしむようになったからよくわかる。
「雪白さんも、なんかあったらついでに買ってきますよ」
 入り口からここまで、日曜日に似つかわしい歩調で歩く雪白さんは、肩から落ちたストールを、すっとたぐり寄せた。
「ううん、ボクの分は大丈夫。ありがとう」
「こいつの”ついで”はついでで買える品じゃあねぇ」
 左京さんが、ソファの方から声を飛ばした。ローテーブルに広がるのは、乾いた紙の音と、一色刷りの紙の束たち。もう下調べ済みであろう、今日向かう店のチラシたちを前に、眼鏡のブリッジを押した。
「ふふ、そうでもないよ。大人だもの、自分のものは自分で買おうかなって思うだけ」
 雪白さんは、目尻を下げ、左京さんの背にほど近い背もたれにゆったりと手を置いた。
 古市さんがわずかに顔を傾ける。いつも厳しく結ばれている口元が、いくらか柔らかく見える。
「松川に言ってやりたいぐれぇだな」
「ふふ、支配人、うっかりやさんだからね」
 今日は古市さんと買い出しに出る。
 買い物、こと生活用品を大所帯でそろえるのは、戦争だ。
「皆木は日用品を捕ってこい。俺は食材売り場に行く」
「了解っす、トイレットペーパーって指定ありましたっけ?」
 短く打ち合わせて、後は会計前のスペースで落ち合う。そう言って分かれた。
 トイレットペーパーはひと家族2つまで。今回こなさなければならないミッションはこれだ。うっかり支配人がストックを切らしていて、これがなければ寮内が危機に陥る。
 つらつらと並ぶメモの文字を、スーパーの陳列棚順に頭で組み変える。
 台所用洗剤詰め替え、衣料用洗剤詰め替え各二つずつ、柔軟剤はこのメーカー、香りは前回不評だったあれ以外、台所用の手洗い石けん詰め替え、スポンジのお徳用パック、キッチンペーパーロールひとパック、お弁当の小分けトレー大中それぞれ、掃除機のフィルター、ビニール紐、油性マジック、乾電池単三、単四を一番多いパックで、と。薬類は薬局行ったほうが安いな。
「よし」
 終えた頃には買い物かごが山と化した。
「そろそろ戻るか」
 車の後部座席は見事、戦利品で埋まっていた。古市さんの車に、エコバックがところ狭しと座っている。
 スーパーの駐車場は一転、車の出入りが多く、空きが出たかと思うと埋まる、そんな様子になっていた。
 早めに入れて正解だったな。
「リストにあるものはおおかた手に入ったな」
「うす。薬局もの以外買い逃し、無さそうっすね」
 古市さんが、監督から預かったメモをもう一度さらう。ゆっくりと目で追って、最後に落とすように、ああ、と言った。
 そして、手首を返す。小さな金属音が鳴って、銀の文字盤が光った。
「まだ少し余裕があるな」
「打ち合わせ、二時からでしたよね」
「ああ、どこまでできてる」
「ほぼ出来てます。一部、台詞で迷ってるところがあるんすけど、そこは最後の結末を読んでもらって、役者に意見もらいたいところっすね」
「そうか」
「十座だけ当て書きなんですけど、本人には事前に話してあります」
「わかった。・・・・・・先方からの依頼内容の追加が来ている。その確認とキャスティングが出来たら、今日は終いだな」
「はいっす」
 出すぞ、その言葉を聞いて、俺は左手にあるシートベルトに手を伸ばした。
 左京さんがエンジンをかける。ウィンドウが四分の一ほど開いて、隙間からさっと空気が入ってきた。
 今日、空の色濃いなー。
 なんてことを、俺は窓を超えて、スーパーの屋根に半分切り取られた空を見て思った。
 時刻は、十二時を少し過ぎたあたりだった。
「皆木、朝飯食ったのは何時だ」
 古市さんの車は、音少なく天鵞絨町を進んだ。今でこそ車内を日用品や食品が埋め尽くしているけれど、それ以外は殺風景なほど何も積まれていなかった。それでも乗り込む時、彼に近づいた時だけ香るあの匂いがして、いつだか『らしい』と思った、彼の部屋を思いだした。
「出る少し前っす」
 横顔を見て答える。眼鏡のツルの端が陽の反射でちらと光った。
「食っていくか」
 木木が立ち並ぶ商店街沿いの大通りで、こともなげに左京さんは言った。
 意外な申し出に、反射的にはい、と返事をしていた。
「打ち合わせ始まったら今日は長い。保たねぇぞ」
 確かに。さっきの内容で1時間と少し。そのあと幸と打ち合わせておきたい。すぐに春組の稽古もある。
「そうですね、出来れば今食べておきたいですけどーー」
 しまった。窓の外を見て思う。
 さっきのスーパーの付近なら、ある程度家族連れを想定した食事場所があったのに。駅前ともなれば、店の広さが限られている。近くにあるのはカフェやパン屋、ファストフードがほとんどだった。
「古市さん、何が食べたいとかあります?」
「ハンバーガーって訳にはいかないし」
「別にいいだろ」
「え」
「なんだ、嫌いか」
「え、いや」
 むしろ好きっすけど。いいんすか。
 
 自動ドアの先には、耳慣れた挨拶が飛び交っていた。
「店内をご利用ですか?」
 から始まる、言葉の羅列はよどみない。
 注文を正しいメニュー名に変えて復唱、セットなら飲み物の確認、温度の確認。単品ならセットへ誘導、サイズの確認。悩んでいるようなら一拍待って、言い終えたようなら採取確認を。
「ご注文は、以上でよろしいですか?」
 ここに至るまでを最短ルートで、丁寧に。
 俺もこのメニューの読み上げ手順、口が覚えるほど言ったなぁ。
 レジの上のボードには、定番メニューと季節もののメインとデザートが並んでいた。
 こういうの目当てできても結局、定番選んだりするんだよな。
「決まったか」
「ん、そうっすね、これにします」
「なんだ」
 レジ向こうの店内はそれなりに混んでいて、俺たちは窓際の、道路に面した席で向かい合った。
 昼のファストフード店は、変な場所だ。
「古市さんって、こういうの、食べるんすね」
「あ?必要なら食べる」
 遊んでいる最中の食事としてだろう、服装の系統がばらばら五人組、壁際を武器に眠りこけているスーツの人、膝に子供を抱いて集まる主婦の一団は、もうトレーに何も乗っていない。スーツの人と、所在なさそうな女性の面接めいた会話がトイレ近くの少し照明の落としたところで行われている。向かいあって座っているけれど、互いに耳にイヤホンを付けている男女の隣で、薄桃色の白衣を着た女性は、携帯画面から視線をずらさず器用に食事を続けている。
「いや、そのイメージが無かったんで」
 外装のテープが外されて、上と下、バンズが剥き出しになる。半分くらいがあらわになったところで、古市さんの口がやわらかそうな生地に寄った。おおよそ八分の一が削られる。丸く無くなったその部分の噛み口は滑らかだった。
 わずかに、飴色のソースが形の良い唇の際に残っていて、古市さんの人差し指がそれを拭う。
 普段、食事中も大口を開けるような人ではないから、縦に口を開けると口内の赤が見えるのが新鮮だった。
「こういうのは、手早く済ませるためにあるもんだろうが」
 古市さんは今日、
「足りるのか、それで」
「え、あ、いえ」
「」
「」
「」
「左京さん、けっこういっぱい食べるだろ」
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