『ねこになったんですか、私』
 
 
 白い膝が、自分の目の前にあった。
 目の前の男は、絨毯の織りの上に膝を隙間なくピッタリとついて、その大きな体を折り曲げている。
「そこ、寒くない?こっちの方があたたかいですよ」
 普段、私を幾分か見下ろす背丈のはずが、床に体を這うようにしてこちらに合わせている。
 事務所を作ったとき、殺風景ですかね、なんて二人で言って取り寄せた絨毯には、数えきれない色の糸があるのだと、今日初めて知った。うす暗がりの中でも強い色が目に飛び込んできて、チカチカする。
「大丈夫、怖くないよ」
 目の前に、大きな厚みのある手が差し出される。
 瞬間、自分の丸い足からぐ、と爪が伸びた。糸の中にわざとめり込ませて飛び掛かりたい衝動に耐える。
 手は、それ以上伸びてこない。
 薄暗く翳った応接間のテーブルの下は、セラ夫の言う通りひんやりしていた。
 天板の下、その半ばにいる私のところまで、セラ夫の腕なら簡単に届くはずだ。
 何度か手招くように曲げ伸ばしされる指を見る。短く切り揃えられた爪と、肉のつなぎめは平たかった。
「しかもなんと、美味しいごはんもあります」
 もう片方の手は、ツヤのあるパウチをこちらに向けた。
 角度が変わってその骨ばった手の甲が見える。指の付け根までを覆ういつものインナー。その先に、鋭い切先を持つシルバー見当たらなかった。
「なぁう」
「あ、出てきた」
 鼻先にパウチの表面が当たる。ヒヤリと冷たくて思わずヒゲが動いた。ヒゲって。
「あ、食べる?どれがいいかなぁ、マグロと、かつおと、ホタテもあります」
 匂いを嗅ぎにきたと思ったのか、セラ夫がパウチを扇状に広げてこちらへ差し出した。
 見上げると見慣れた天井、艶のある革のソファ、奥に資料の山と私のデスクがある。ここはやはり、私の事務所だった。
「お腹空いてないのかな」
 違いますよ、あなたね、そう否定を口から漏らしたはずが、
「んみゃぁぅ」
「ご機嫌だねぇ」
 喉から出たのは。平たく間延びしたような鳴き声だけだった。
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「どこから入ったんだろう」
 私の胴はぐるりとひと回り、セラ夫の手で覆われた。骨っぽい指の節が腋の下に当たっている。
「なぁう」
 不思議と、苦しくなかった。締め付けられている感じも、圧迫感もない。体と、後ろ足への重力だけを感じていた。
「そしてよく伸びます。いい伸びですね」
 セラ夫の、声の調子は一定だった。それでも表情から上機嫌だとわかる。こういう男だ。
 セラ夫は、抱える私の体を、自分の胸の前から顔の前まで動かした。じっと頭から足先までを観察する。
 そうでしょうね。私もそうします。
「怪我はないね。毛艶もいい。首輪も迷子タグもついてないけど——」
 目の前が、ピンクブロンドの髪と、青と赤の滲む目だけになる。
「ンァー」
「凪ちゃん」
 自分でも、瞳孔が大きく開いたのがわかった。毛が逆立つ。
「凪ちゃんに、目の色が似てるね」
 そう、相棒は言って、抱えている私をソファへ下ろした。
 後ろ足からそうっと、革張りの表面に肉球がつく。次いで前足が。ふか、と僅かに凹んだソファの表面が、歩くたびに移動した。
「爪研いじゃダメだよ、ソファ、穴開いちゃう」
 その言葉で気づいた。丸い毛と毛の境から、さっき引っ込めた爪がまた覗いていた。
 しませんよ、と返事をすると、
「ありがとう、俺の給料から引かれちゃうからさ」
 と横に座る大きな男は私へ返した。
 感覚は、理解した。
 前に、先輩方の中でもにじさんじシステムのバグで姿形が変わった人がいる。それにしても、これは想定外だった。
 普段の足元ほどしかない目の高さも、やけに耳に飛び込んでくる外の車の音や人の声も、前脚を動かすと連動する後ろ足もだ。
 今まで、色んな人間の姿を借りた。
 学生になった。
 医者になった
 社長秘書になった。
 駅員になった。
 会社員になった。
 ホストにも、昨日まで一緒にいたはずのターゲットの妻にもなった。
 ついに、ねこになったんですか、私。
 ため息とは名ばかりの息を吐いて体をソファに伏せる。見よう見まねで体を内側に丸めると、長い体の座りが良かった。
 セラ夫は、私を見て小さく笑う。そして、端末の画面を見ながら
「きみの方が、色が淡いなぁ」
 などと呟いている。
 セラ夫の端末の画面がこちらに傾いた時、私たちが共有しているデータベースが見えた。そこには、飼い主から提供された猫の情報が色とりどりのサムネイルとともに並んでいる。
「目の色が個性的だからね、飼い主が探してたらすぐわかると思うんだけど——、」
 その時だった。けたたましい音が鳴った。それだけは覚えている。
 気がつくと、目の前にブラインドのスリットがあった。大きくブイの字に曲がっている薄い板は、私の爪によっ手ひしゃげていた。手が滑る。ぱき、とプラスチックの嫌な音がする。手と足の不安定さに、喉から声とも言えない音が出た。震えると、かろうじて縦糸に引っかかっている後ろ足も滑る。
「あぁ」
 遠いところで、セラ夫の声がした。
 剥がしたブラインドの向こうに隣のビルが見える。
 暴れても、動いても何をしても落下する気がして、私はついに憎むべき蝉のようにぶら下がるほかなかった。
「ン゛ンンン゛」
「かわいそうに、少し触りますからね」
 ふと、お腹の辺りに体温を感じた。背中から抱き抱えられ、体を下から掬うようにして持ち上げられる。向きを変えられて、前足が安定したところに乗せられる。そこがどこだかしばらくの間わからなかった。ただ、体温があった。
「ごめんね、落ちたのは、凪ちゃんの詰んだ資料の束ですよ」
 ああ、あれか。深夜に自分の目を焼いた、山積みにしたファイルの束と、紙のアレそれを思い出す。昨日の自分を呪った。
「大丈夫、猫なのに高いところが苦手なんだね」
 猫じゃあないですからね、を飲み込む。ヒゲだけが揺れた。
 体の内側に感じるあたたかさと安定感に自分の前足の先を見ると、青と黒の幾何学模様があった。体を捩ると赤いフードのたるみが踏める。
「きみ、爪きれいだね」
 セラ夫の声が真横でする。
 肩口に乗っていた体を離すと、危ないよ、と手のひらが私を包んだ。その手には薄い、みみずばれと赤い線があった。
 未だに視界が揺れ動いている私をよそに、赤い男は私を撫ぜる。首裏と背中を、呼吸と同じタイミングで上下する手に、居心地が悪くなって、私はまた、鳴いた。
「あはは」
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「可愛かったんだよ」
 隣に座る雲雀に、セラ夫は端末の画面を傾ける。その中には淡い黒の毛並みの猫がいた。顔面のパーツを中央に寄せるように力を入れて、何かに耐えるような顔をしている。
「おお、かわいい……、いや、味がある、か?」
「お前今可愛くないって顔したか?ねこに可愛くないって顔したか?」
「ごめんてセラお!でもさぁ!」
「やめとけ雲雀、そうなったセラ、止まんないぞ」
「何やっているんですか」
 事務所の応接間のソファは、三人掛けといえど男どもが並ぶとそれなりに狭い。背もたれ越しに腕や体が慌ただしく動く。
 私がデスクからテーブルの縁まできた頃には、セラ夫は大きく両腕を上へ伸ばして、某動物園のアイドルの威嚇のポーズをしていた。
「アキラ!セラが暴走してる」
「あなたもなんで一緒に威嚇ポーズ取ってるんです、よしなさい」
 入り口に近い方にセラフ、真ん中に雲雀、私に近い方に奏斗が座っていた。そのはずが、いつの間にか雲雀は両側から威嚇動物に囲まれている。
「はい、ありましたよ」」
 私は、手の中の絆創膏を、雲雀に覆い被さっている男に差し出す。肌色の、なんの変哲もないそれを、シルバーのついた指が摘んだ。
 摘んだ時にセラ夫の親指の付け根には、横一線に赤い、傷跡があった。
「え、デカくない?もっと小さいのでよかったのに」
「念のためですよ、ちゃんとつけなさいね」
「うん」
 私が指を肌色の薄ぺらいそれから離す瞬間、落とすようにセラ夫は言った。
「——あ、凪ちゃん爪、新しいの、きれいだね」
 私の手の中にあった、絆創膏の箱が床を転がる。軽い紙箱は角を起点にころりと二転三転して、絨毯の下へ入っていった。
「すごい顔するじゃん、どうしたの」
 私の顔を見て、セラフは笑う。
 私は、なんでもありませんよ、と言ってお気に入りの新しい爪を、手のひらの内側へ折り曲げて隠した。
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ワンライいぬねこ
初公開日: 2025年01月25日
最終更新日: 2025年01月26日
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百物語書き下ろし①
にじそ頒布予定のvlt百物語の1遍です。
たゆんだ
ユアモン加筆作業
ワンライの作品を同人誌原稿バージョンにします!書き加え、微調整、校正作業など〜〜
たゆんだ
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