『食べる?』
満月の夜は、ことさら嫌いだった。
「アキラァ、飯やって」
食卓のテーブルに、あかりが灯る。向かいに座る雲雀は、月と同じ色の眼でこちらを見た。いつもより光るその眼球は、瞬きが少なかった。
とりあえず敷いたテーブルクロスの上で、私は手を組んだ。片方の手のひらに爪の先端が食い込み、肉を掻く。
「今日、奏斗が獲った——、でかいから分たるって」
「お手柄ですね」
「アキラは、やっぱり食わんの?」
「いえ、私は」
「ふぅん」
そう言って、雲雀はクロスの上に腕を敷き、そこにごろりと体を預けた。
月が欠けない夜は、耳も、指先も、尾も、ざわざわとしてひどく居心地が悪い。そしていつもより、爪の根元が痛む。
「——、はい。できたよ」
「お。さんきゅ、奏斗」
雲雀の、むき出しの爪の先に皿が一枚寝かされた。
奏斗は、その両傍に一式のシルバーを並べる。奏斗の、もう片方の腕には、全く同じように盛り付けられた皿が乗っている。奏斗はそれを、私の前にも一枚置いた。
「かなりデカかったから、残りは明日ね」
伸び切った爪の先で、蝋燭に照らされた陶器の皿が光る。自分より刃先が鈍いシルバーもそうだ。
私たちは、夜目は効く。例え、目の前にある蝋燭がなくとも、私も、奏斗も雲雀も部屋の中で不自由はなかった。
それでも、夕食になれば、必ず火を灯す。
綺麗に切り分けなくとも、肉に歯を立てることはできる。
それでも、机の上に白いテーブルクロスを敷く。
「ヒバ、まず切るんだよ」
磨かれたシルバーがなくとも、私たちの歯は、肉を裂く。
雲雀は、その尖った犬歯で肉の繊維をちぎった。ぱた、とクロスに赤が散る。
「あ、そっか」
雲雀の歯や唇が、クロスと同じ色に染まる。それを手の甲で拭うと、赤が少し薄まり、頬まで伸びた。
「あと、いただきます、ね」
「ああ、そうだ。えーと、いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
言い終わった後、奏斗はシルバーを左右に持ち、片方で肉を押さえ、片方の先を表面に差し込んだ。何度か行き来した歯は肉の繊維を切り、歯の代わりに赤く染まる。
「えーと」
「右にナイフです。こう」
「おお」
雲雀も私の向こうで、奏斗と同じく肉に刃を入れる。もう半分、引きちぎられた肉はずいぶんとおとなしかった。
満月の夜は、ことさら嫌いだった。
頬を右手で覆い、肘を天板に預ける。目の前で飲みこまれていく肉の欠片を目で追う。
月が欠けない夜は、耳も、指先も、尾も、ざわざわとして居心地が悪い。そしていつもよりも爪の根元が痛む。
私は、奏斗が分けてくれた肉を見ながら、ゆっくりとグラスを傾けた。
喉が渇く。
私の前で、雲雀と奏斗は次々と口へ肉のかけらを放った。
「ご馳走様でした」
「今日は、湖の近くまで行こう」
奏斗が言った。森は、昼間でも陽が木に遮られて薄暗いけれど、湖のそばは違った。
奏斗はそう言ってドアに向かいながら、放ってあった上着に袖を通した。
廊下はひんやりとしていた。彼の金色の毛並みの尾に続けて、私と雲雀は歩く。
「僕は後ろ、雲雀とアキラは左右に開けて」
「了解」
私は歩きながら、シャツの前を、首元まで留める。
私の後ろを、雲雀の鼻歌が追ってくる。大きなあくびも一緒だった。
「っしゃあ!行きますか!」
「あなた、前留めなさいよ」
「ええ、苦しくね?」
「腰のも、ほら、ちゃんと尻尾通して」
「ちゃんとってぇ、おれらしかいないのに?」
雲雀の指が、首元で遊ぶ。上まで釦が噛み合ったのを確認した時、ちょうど私たちの前が明るくなった。
ドアを背に、金色の毛並が差した光にを受けてきらきらしている。
「湖の辺りなら、果物もあるよ、アキラ」
「そうですね」
今日の森は静かだった。私たちが『狩り』をしていれば、すぐに小さな獣は走り去る。私たちが先か、獲物が先かというだけだ。
木々の隙間を歩く。なるべく落ちた小枝や大きな葉を踏まないように、隙間を縫って。
それにしても、音がない。
「なんか——……」
私の右手を行く雲雀の足音が止んだ。彼の耳は、私たちの中でひときわよく聞こえる。
「静かすぎるな」
後ろで奏斗がつぶやく。
狩りでは、彼が止まれば私たちも止まる。警戒の合図だ。
森は、昼間でも陽が木に遮られて薄暗いけれど、湖のそばは違う。そこすら何も寄りけないかのように静まり返っている。
湖には光の線が差す。幾重かに重なって、白むところと、木が透けるところとが繰り返されていた。
「アキラ」
「ええ」
湖を囲う木々の間を見る。入り組んだ幹のその合間に、『何か』がある。
「——なんだ、あれ」
雲雀が眼を凝らす。私たちは周囲の草木と、目線を合わせた。
「——黒い毛並み…?」
「おれんとこから見えん、そう?」
黒い何かは、こちらを伺っている。すでに気づいて、同じように身を潜めていた。
この森の中で、私たちよりも耳がよく、目がよく、鼻がきくものなど、いなかったというのに。
「——だめだアキラ、雲雀、戻ろう」
私の後ろから、奏斗の声がした。
「え?」
「——あいつ、血の匂いだ」
私がその声に、奏斗の眼を見た時だった。
「——雲雀?」
そう、奏斗が声を上げた。左翼に、さっきまでいた紫色は見えなかった。
そう頭で理解した瞬間、黒い塊が自分に覆い被さっていた。
「——……っく……っ!」
「アキラ!」
遠くで雲雀が叫ぶ。
横目でようやく見えた。雲雀は、木の根元に背を預けている。肩をやられているようだ。
私の上にいる黒い塊は、軽かった。そして存外小さかった。
背中に草と石が刺さった。空は見えない。代わりに、顔の周りに降りる髪の毛の先を、頬が感じた。相手との間に構えた腕の隙間から、爪の先が襲う。
「っ……この……っ」
顔を背ける。
土と草の隙間に、私に刺さるはずだった爪が立った。私の耳の横で一度、その手の動きが止まる。
手首を掴む。私の指ですら一周するような、骨ばった手首だった。腕を、服の裾を自分の方へ引きずり下ろした。
「——っ……⁉︎」
私を覆う、黒い塊の重心が崩れる。そのまま、空いた左腹部に膝を入れ、頭のある方向へ弾く。
「っ…ぅ……っ」
頭の上を通り過ぎる時、黒い塊は、小さく鳴いた。
まだだ。内臓までは減り込まなかった。まだ軽い。
「——っ、はぁ、…っ」
体を反転して起こすと、視界がふらついた。周囲の木々の曲線がひしゃげ、角度が強くなる。私は片目を手で覆い、黒い塊りのいる先を見た。
先の爪から、降ってきた木屑で目が潰れていた。
湖のほとりの中で、一番大きな木の根元、茂みの前にそれはいた。もう、次の構えに入っている。
私はシャツの首元を手繰った。
出先とは違う、気道が開く。
手の、指の骨が張る。爪の根元がひどく痛む。爪は、肉に刺さるように伸びる。牙は、肉の繊維を裂くように剥き出た。
「——アキラ、おれが、」
狭くなる視界の中で、私の肩に雲雀の手が乗る。
その手と、私の腕の先は、もう異なる形へ変わっていた。
体中の骨が軋む。
口の中がひどく渇いて、仕方がなかった。
「——、っ…」
黒い塊は、軽かった。そして存外小さかった。私の指ですら一周するような、骨ばった手首だった。それなら、上に乗れば動けない。首の後ろを噛み砕いてしまえばいい。
「——違う、」
私は口を覆った。中指の爪が、ほおにあたり皮膚を切った。
「違う、」
雲雀の声が聞こえる。聞こえてはいるのに、頭は水で埋まったようにどっぷりとぼやけていた。一層膜がかかったように揺れる雲雀の声が森に響く。
「アキラ、——アキラ!」
「いいよ、僕がやる」
私の横を、金色の毛並みが通り過ぎた。
霞んだ眼を凝らすと、奏斗の背中が私の目の前にあった。
「あいつは血の匂いがする。いつもの狩りとはちょっと違うからね」
ぼやける輪郭のまま、黒い塊の背がだらりと曲がる。次の瞬間には、また音なくこちらへかかってくるだろう。
「奏——、」
奏斗の背中に手を伸ばす。それがまだ、血管の浮き出た、鋭い爪のままだと気づく。咄嗟に私は奏斗の肩ではなく、空を掴んだ。
「雲雀、サポート頼んだ」
「オーケー」
雲雀は、木に走る。
奏斗の三角の耳が、ちらとこちら傾く。
「大丈夫、穏便に、だろ?」
黒い塊が動いたのは、一瞬だった。
先とは違い、木の幹を蹴るようにして跳ねた。
速さは幾分、向こうが勝つ。
弾けるように奏斗の懐に入り込んだ体は、その爪を、脇腹に向けて振り翳した。
「あのさ、」
その腕は、奏斗の服にも届かずに、外側に大きく振れる。関節とは逆の力を当てられた細腕は、ぱき、と鳴った。
黒い塊は、軽かった。そして存外小さかった。奏斗の腕に弾かれて振れた腕で、腹が空いた。
「ここ、僕の縄張りなんだけど」
今し方、黒い塊が爪を入れようとした箇所と、全く同じ箇所に奏斗の拳が埋まる。
「——っふ…っ…!」
奏斗の腕にぶら下がるようにして、黒い塊の体が二つに折れる。地面から浮いた手足をそのままに、黒い毛並みが下に向かって揺れた。
奏斗はその腕を振り下ろす。
「が…っ」
地に這うように落ちたその背中を、上から降る靴底が潰した。
奏斗は見下ろす。
黒い塊は、体を覆うようなローブを着ていた。
シルエットを隠すようなその布が、呼吸とともにゆっくりと上下する。
「ここから、出て行くなら見逃す、」
黒い塊は軽かった。そして存外小さかった。私の指ですら一周するような、骨ばった手首だった。ローブから覗くその手が、体の下に広がる葉や、枝を掴む。
「僕の家族に手を出すなら殺す、」
枯れた枝が指の隙間を縫って折れる。
「僕らの餌場を荒らしても殺す、」
その手が緩み力なく葉の上の寝かされた頃、ローブの動きが止まった。
「——……、」
小さな背中から、靴底が退いた時だった。
黒い塊のローブの裾が光った。光の先は、奏斗の脚へ向いた。
「——奏斗……!」
奏斗のパンツの裾が裂かれる。
避けた拍子に、奏斗の体は後退した。
黒い塊が、着いた掌で地面を押し、身を起こす。起こした身は、まだ不安定だ。
その足元を、一線が横切った。
「あっぶね」
足が取られ、黒い塊は重心を崩した。
一線、細いワイヤーの先が、木の上の雲雀の手に戻る。
後ろへ倒れる寸でのところで、奴は肘を地につけた。半分起こした体で、そばへ落ちた先の光を掴む。
刃先の鋭いナイフだった。
土や枝で汚れた手で、奴はその柄を強く掴んだ。刃が再度、奏斗へと走る。
浮いた、その細い首に爪の先がかかる。黒く長い毛並みの隙間を縫って、奏斗の手は黒い彼の首に這った。
手のひらが沈む。
「そうじゃないなら助けてあげる。——どうする?」
「凪ちゃん、ご飯だって」
満月の夜はことさら嫌いだ。
「ああ、ありがとうございます」
食卓のテーブルに、あかりが灯る。私と奏斗の間、雲雀とセラフの間に二本ずつある蝋燭が食器を照らす。
「今日、セラフが獲った——、でかいから分けて食うって」
そう言って、雲雀はクロスの上に肘を付き、片側の頬を手で覆った。
月が欠けない夜は、耳も、指先も、尾も、ざわざわとして居心地が悪い。いつもよりも爪の根元が痛む。
「——、はい」
「お。さんきゅ、奏斗」
「凪ちゃんも、ここ置くよ」
「ええ」
雲雀の、むき出しの爪の先に皿が一枚寝かされた。
奏斗は、その傍に一式のシルバーを置く。四匹分、均等に盛り付けられた皿は、全員の席に並べられた。
そして、皿のそばにもう一つ、小鉢が添えられる。
「うお、でっか」
私の前で、雲雀は月と同じ色の眼を見開いた。いつもより光るその眼球は、ぱちぱちと開いたり閉じたりを繰り返す。
「かなりの獲物だよ、すごいねセラフ」
「明日用の仕込みは、しておいたから」
私たちは、夜目は効く。例え、目の前にある蝋燭がなくとも、私も、奏斗も雲雀も、そしてセラフも部屋の中で不自由はなかった。
それでも、夕食になれば、必ず火を灯す。
綺麗に切り分けなくとも、肉に歯を立てることはできる。
それでも、机の上に白いテーブルクロスを敷く。
「いただきます」
顔を合わせて、食事を目の前にこの言葉を言う。
磨かれたシルバーがなくとも、私たちの歯は、肉を裂く。
それでも、全員分のシルバーは、いつも磨かれている。
雲雀は、シルバーを左右に持ち、片方で肉を押さえ、片方の先を表面に差し込んだ。何度か行き来した歯は肉の繊維を切り、肉を口に入る大きさにする。
奏斗はその前に、グラスに注いだ葡萄酒を、傾け、ゆったりと眺めた。曇りの無い硝子の中の液体が揺れて、大人しく口の中に収められた。
セラフは、鮮やかな色の木の実のソースを一切れにそうっとまぶす。口の中に放られたそれを何度か咀嚼して、『やっぱり蜂蜜を入れたのが正解だったのかも』とこぼした。
満月の夜はことさら嫌いだった。
頬を右手で覆い、肘を天板に預ける。目の前で飲みこまれていく肉の欠片を目で追う。
月が欠けない夜は、耳も、指先も、尾も、ざわざわとして居心地が悪い。いつもよりも爪の根元が痛む。
私は、セラフが分けてくれた肉を見ながら、フォークを林檎の皮に突き立てた。
喉が渇く。
「凪ちゃん、俺の林檎食べる?」
「おれのも食べ」
「僕のぶどうも」
「え?いいの?ありがとうございます」