月が二つ浮かぶ夜空には、まだ慣れない。それでも、もう目新しさを感じることは無くなっていた。
 一ヶ月だ。僕がこの世界にやって来たその日、期待に胸を躍らせながら見上げた時と同じ輝きが、群青の天球に並んでいる。
「……やっぱり、大きいよな」
 かつて故郷で見上げた月よりも、ここから見る月は大きいように思えた。月明りだって、こんなには明るくなかったはずだ。
 ……本当にそうだろうか。ふと、そんな疑念が脳裏をかすめた。月明りの明るさなんて、意識することが何度あっただろう。大きさにしても同じことだ。写真を並べて比べたわけでもないのだから、本当にこっちの月の方が大きいのかどうかなんて、もうどうしたって証明することはできない。
 そうだ。僕はもう、元居た場所には戻れないのだ。こちらとあちらを比べるときも、比較対象に仕えるのは僕の脳みその中にある限られた情報だけしかない。僕はもう帰れない。それどころか、故郷の存在を証明することさえできはしないのだ。
「……っ」
 震えたのは、僕の体のどの部位だったのだろうか。血の気がすっと下がっていく感覚を覚えたとき、手を置いていたバルコニーの欄干がかたかたと音を立てた。
「……まいったな」
 一ヶ月目にして、これは、ついにホームシックが発症した、ということなのだろうか。つい先程まではまったくそんなことはなかったはずなのに、どうしてか夜風が妙に冷たく感じる。妙に息苦しいし、わけもなく涙が溢れそうになる。
 らしくない。本当に、僕らしくない。故郷にいた頃にはサブカルにどっぷり浸かっていて、ここにばれたときだって、ついに異世界召喚が来た! と無意味にテンションを上げていたはずなのに。
 今僕が立っているのは、あのころ夢に見るほどに憧れていた、ラノベやネット小説のような世界のはずなのに……どうして、こんなに満たされないのだろうか。
「わかってるくせに」
 若い男の声が、背後から聞こえた。あまり聞き慣れない声だった。この場所――僕をこの世界に召喚した国の王宮の敷地内――に入ってこれる人間の中には、こんな声の持ち主はいなかったはずだが、何故だろうか。
 振り返る。そこにいた男は、僕にとっては非常に馴染みのある少年の姿をしていた。だけど、こうしてその姿に相対したことは、これまでの人生で一度もありはしない。
 そこに立っていたのは、僕だった。
「なあ、わかってるんだろう? 僕」
 暗く沈み切った表情で、彼はつぶやくように言った。きっと今の僕も同じ顔をしているのだろう。軽く俯いて、視線は足元に落とされている。
「異世界転生・転移モノ。流行ったよな。めちゃくちゃ流行った。なんで流行ったか、僕ならよくわかるだろ」
「……」
「俺も神様チートで無双してぇ、とか、妄想したりしたもんな。……そこなんだよ。結局」
 彼は言葉を途切れさせ、ゆっくりと顔を上げた。眦から顎先へと涙の川を流しながら、彼はじっと見つめてきた。
「わかるだろ」
「……」
「なあ」
「……うん」
「言葉に出したほうがいい。そのために、僕はここに出てきたんだ」
 そう言って、彼は自嘲気味に笑った。
 これは、たぶん、ある種の幻覚なのだろう。僕が自分の気持ちに向き合うためのモノ。今この心の中にあるわだかまりを形にするために、壊れかけた心が生み出した幻。
 唾を飲み、小さく息を吸ってから、僕は口を開いた。
「チート能力があれば、誰でも無双できる。こんな力があれば、こんな世界があれば、自分も良い思いができるのに。誰でも、そんな妄想を楽しめる。どんなにダメなやつが主人公でも、活躍できてしまうんだ」
 彼は小さく、続きを促すように頷いた。
「主人公は誰だっていい。誰だって良かったんだ」
「そうだな」
「……僕も、そうなんだな」
 核心を口にした。彼はまるで自重するかのように笑って、いつの間にか姿を消していた。
「……」
 足の感覚が無い。僕は立ちつくしたまま、その場から動けなくなっていた。
「リョウト様? そろそろお休みに――」
 建物の中から声をかけてきたメイドが、バルコニーに出てくるなり、僕の顔を見てぎょっとしていた。そんなに、ひどい表情をしているだろうか。
 けど、もう、それもどうでもよかった。
 チート転生・転移なら、誰でも無双できる。それは裏を返せば、誰でもいいということ。本人には、何の価値も無いということ。
「……ははっ」
 一ヶ月。一ヶ月もこの異世界で過ごしていたというのに、気付くまでにこんなに時間がかかってしまった。
 ここにいる僕自身には、何の価値もない。誰でもいいのだ。誰が僕の代わりに来たって、状況が同じなら全部同じように回っていくだろう。
 僕は……選ばれて召喚されたはずの異世界で、自分を無くしてしまったことに、ようやく気付いた。
 終わるニャン
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初公開日: 2019年12月16日
最終更新日: 2019年12月16日
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