「えっくし」
 同居人のくしゃみが聞こえた。浅かった眠りの海の底から、いきなり引き上げられるような。薄く目を開けると、物音が大脳だろうか、知らないがそこまで届く。すでに起きているようだ。甲坂勉は、厚手の布団の中で寝返りを打った。作業部屋の灯りがついている。時刻はまだ朝の三時を過ぎたころだと、赤い目覚ましが示している。
 もしかしたらすでに起きているのではなく、ずっと起きているのかもしれない。大晦日から元旦にかけてカウントダウンをしたあと、確かに二人してベッドに入り込んだと思ったのだが。甲坂はのっそりと起き上がると、冷たい床に足をつけた。急ぎの仕事もなかったはずで。アシスタントたちもいないのだが。
 スライド式のドアをわずかに引くと、同居人、田渕秋穂がいつもの作業椅子に座ってテレビを眺めていた。そこには年末恒例の朝まである音楽番組が映し出されていた。音楽番組を見ること自体珍しいのだが、思い当たることがないではない。甲坂は小さくため息をついた。
 国民的アイドルとは言い難いが、最近人気が出てきた地下アイドルグループ『shine!!』が、繰り返し無機質な板に流れていく。繰り返し何度も。どうやら録画していたものを、何度も見ているようだ。狂気じみているが、気持ちはわからなくもない。
 地下アイドルグループ『shine!!』は、甲坂原案、田渕作の漫画『異世界ときどき晴れのち曇り』に出てくる登場人物の仮装をして活動しているのだ。アニメ化も今年の春に決まっているのだが、その主題歌はもちろん『shine!!』が担当する。すでに漫画は連載を終えているのだが、今も根強いファンに支えられている、二人の代表作だ。
「秋穂」
「……ん」
 甲坂がドアをスライドさせて作業所内に入ると、田渕は眠たそうな顔をしてわずかに振り返る。
「起こした?」
「いや、目が覚めた。ホットミルク入れようか?」
 体が冷えてきた。作業所のエアコンは入っていないらしく、甲坂は体をさすって寒いとアピールする。ホットミルクでも飲んで、温まりたい気分だった。
「あ~、一口ちょうだい」
 田渕は肩に羽織っているブランケットの前をぎゅっと引き締めて、再び画面に視線を向ける。
「そうだ、あけおめ」
「それ、さっきも言った」
「そうだっけ?」
 くつくつと笑う声が聞こえてくる。甲坂は電子レンジに牛乳の入ったカップを入れてスイッチを押した。レンジが唸りをあげる。二人で暮らし始めてから十年は経とうとしているので、機械としては老体だ。
 四月になれば、活動十一周年。長かったような短かったような。高校を卒業してからすぐに始めた、漫画活動も、最初から順風満帆というわけではなかった。ダメ出しは数えることができないし、人としても未熟だったので、間違いはたくさんしてきた。今でも完熟しているとは言えないが。
 レンジがチンと言って、唸りをやめる。熱くなったカップを取り出して、口をつけると火傷しそうなほど、ぬくもっていた。思わず、ため息のようなものが出る。つらいことはもちろんあったが、おおむね幸せだと言って、過言ではない。
 甲坂はいつの間にか音の消えた作業所に戻った。満足したのかアイドルの映像は流れていない。自分の椅子に座って、背もたれにかけてあったブランケットを体に巻き付ける。エアコンをつければよいのだろうが、この刺すような寒さも心地よいのだ。
「勉、あのさ」
 向かい合っていた椅子の上から改まった声がする。ホットミルクに口をつけながら、視線で先を促す。
「俺、ずっと言いたかったことあるんだけど」
 田渕の表情は緊張していて、頬が強張っている。なにか悪いことだろうかと、甲坂もわずかに身構える。だいたい、田渕が改まるときは、そんなに驚くようなことはなかったりもするが。
「お前と一緒にいるの、今年で三十年目だろ」
「生まれた瞬間から一緒だもんな」
 同じ病院、同じ日に生まれたのだ。たまたまなのだが、母親の部屋が隣同士で。意気投合したのちに、家族ぐるみの付き合いになった。
 そろそろお互い結婚でも、という歳だが。お互い女の気配を感じない。必ずしも、女性がいなければならない環境にないからかもしれないが、昔から甲坂は女性を好きになるという感情が希薄だ。だからといって、男を好きなのかと言われればちょっと違うような気もする。恋愛自体に興味がないのかもしれない。
 逆に田渕は浮いた話の一つ二つ。高校生くらいまではよく聞いた。だが漫画を本格的に始めてからは、忙しさも手伝ってか、聞かなくなった。
「あのさ……」
「うん?」
 妙に歯切れが悪い。いつもは面倒だなと思うくらいには、はっきりとものを言うタイプだ。編集者とガチギレファイトなんて、よくある。表情を見ても、緊張が激しいのか、笑顔が消えている。目も泳いでいるし、いよいよ、何かおかしいぞと思い始めた矢先に、やっと田渕は重い口を開いた。
「俺……好きなやつがいてさ」
「ふぅん、そうなん? 結婚したいとか?」
「結婚はできない、と思う」
「へぇ~。じゃぁその人と同棲したいとか?」
「……いや」
 ならなんなんだ、と。
 結婚でも同棲でもないとしたら、ただの彼女できました報告だろうか。今さらそんなことで、もじもじするような肝っ玉じゃないと思うが、現に田渕はもじもじとしている。
「もし、さ、男に好きって言われたら、甲坂はどうする?」
「どうって……嫌いじゃなければ嬉しいよ」
「俺のこと嫌いか?」
「嫌ってたら続いてないだろ。今さら好き嫌いもあったもんじゃねぇけど」
 田渕の表情が、明るくなって、すぐに曇る。あぁ、こんな漫画のシーンをどこかで見たことがある。それは男と女だったが、確かに晴れのち曇り。『異世界ときどき晴れのち曇り』は、主人公の男の子が恋愛フラグを立てては折る漫画だ。最終的には、ヒロインの女の子とくっついて終わる。
 ならば、これは、誰と誰のフラグだろうか。もちろんここには、田渕と甲坂しかいない。何かに気づいてしまった甲坂は、次にどういう返事をすべきか、考える。ごめんな、と断ることは簡単だ。だが、仕事に支障をきたす可能性がある。だったら断らない方が良い。幸いにも田渕を嫌いではない。
「あ、あのさ、俺。……高島さんのことが好きで」
「は?」
 思わず素っ頓狂な声が上がる。
 高島和人は二人の担当編集者だ。確か既婚者だし、子どもも三人いる。その割には若く見えるし、カッコいい中年なので、憧れる気持ちはわからないでもない。だが、田渕は今まで見たことのないほどに頬を緩ませて、笑っている。
 とはいえ彼が見つけた道は、獣道というより、もはや道がない。
 道なき恋。言い方はロマンにあふれているかもしれないが、とても歩けないだろう。
「高島さんね……」
「カッコいいよな……」
「悪いけど応援はしないぞ」
「うん、俺も叶える気はない」
 それはそうだ。略奪してやる、となれば止めないといけないし、解散も視野に入れなければならない。
「でもなんで、俺を試したの?」
「まぁ、男同士が気持ち悪いとか言われたら、ここ出ていくしかねぇかなぁってな」
 言えたことで緊張の糸が切れたらしい。田渕は椅子の上でうつらうつらし始めた。
 実ることはあってはならない恋なんて。甲坂は小さくため息をついた。
つづく?
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読みもの

異世界は遠い

年賀用の小説を書く。BLかブロマンス。
執筆開始 : 2019年11月28日 09:23
最終更新 : 2019年11月28日 11:01

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