ねこはかわいい。
42型の液晶ディスプレイに、どこかの異国の街並みが映し出されている。じっとり湿度マシマシで蒸し殺しにかかってくる日本の夏とは違う、カラっとした気持ちの良い夏の熱気の中で、日差しに照らされた石畳を行き交う無数の靴がカメラの前を右に左に横切っていた。
その脚の林の向こう側、商店の庇の影の中に、ごろりと寝転ぶにゃんこが一匹。椅子に座ってパフェのような何かを突いている女性の脚に、ぺちぺちと尻尾をぶつけていた。
猫が好きなのに、どうしてか猫に嫌われがちな人間としては、身を焦がすほどの嫉妬の炎がついつい足元から噴き出してしまうくらいには羨ましい光景である。
感情に任せてキーっとハンカチの端でも噛んでやろうかと思ったが、後ろから聞こえてきた足音が俺を思いとどまらせた。
とん、とん、とん、と、階段を下りてくる軽い足音。上階から下りてくる気配を察して、テレビから目を離した。
「弟くん、弟くん」
そろそろくたびれてきた古い家の床板は、ごく普通に歩いただけでもギシギシと床鳴りがする。あまり響かせないように、そろりそろりと歩く動きが最近になってやっと体に馴染んできたらしい義姉が、リビングの入り口からひょっこりと顔を覗かせていた。
「……ネコ?」
「ねこ」
「いいねぇ」
義姉の顔がくしゃっと崩れて、軽い足取りが俺の座っているソファーに近付いた。
「ねこ好きなの?」
「好きだよ。犬の方がもっと好きだけど。弟くんは?」
「俺は猫の方が好きだなぁ」
拳一つ分隙間を開けて隣に座った義姉と並んで、アップに切り替わった猫の映像を眺める。躊躇なく隣に座ってくれたあたり、家族になったばかりの頃のぎこちなさはもうほとんど無くなってくれたようだった。
義姉が、義姉の父親と我が家にやってきたのは、ほんの半年前のことだった。母さんが再婚の話を持ってきたときは驚いたけど、相手の連れ子に俺と同年代の女の子がいると聞いたときはもっと驚いたものだ。
美人だったらいいな、なんて、勝手に期待して妄想を膨らませて、ある程度エスカレートした後にちょっと落ち着いたタイミングで初対面を迎えられたのは本当に良かったと今でも思う。おかげで、妙に気を張ったりすることもなく、俺は新しい家族を迎えられた。
とはいえ、それはあくまで俺だけの話で、義姉のほうからはまだまだ距離を取られているようだ。「弟くん」と呼ぶばかりで、未だに名前で呼んでくれないし。
……いや、別に名前で呼んでほしいとかそういうわけでは無いのだけれど、ちょっとだけ壁を感じてしまうのだ。それが、なんとなくひっかかっていた。
などと隣の200日年上の女性のことを考えているうちに、気付けば番組が終わっていた。ろくに猫の姿に集中できないでいるうちに猫は画面から姿を消し、海をバックに妙にテンションの高い濃い顔の男性が叫ぶ様子が映し出された。
無言で、義姉がリモコンを手に取った。白い指先が電源ボタンを押すことに、異論があろうはずもない。音が消え去ったリビングで、義姉がふと思い出したように「あ」と声を漏らした。
「どうしたの?」
「忘れてた。弟くんに用があったの」
軽く首を傾げながら――細い髪が、さらりと肩から流れ落ちた――姉は、あのね、と言った。
「弟くん、空港って行ったことある?」
「空港?」
「うん。次のお題なんだけど、私行ったことがなくて」
「空港かぁ……飛行機には一回乗ったことはあるけど……」
幼い頃、まだ実の父が生きていた頃に、家族で旅行に行ったのだ。その時に、たしかに飛行機には乗っていた。浮き上がるときと、着陸するときの不思議な感覚は今でも覚えている。
「空港のことは、覚えてないな」
「そっか」
義姉は頤に指をあてて、んー、と小さく喉を鳴らしながら天井を見つめた。それが彼女が考え事をするときの癖であるというのは、五か月前にはもうわかっていた。
家の中で義姉がこうなったときは、彼女の頭の中ではたくさんの情報がぐるぐると回っている。彼女の言うところの「ネタ出し」の手伝いを――といっても、ちょっと話をするだけだけど――するようになったのは、つい最近のこと。
義姉曰く、ちょっとした創作活動が趣味なのだとか。
「想像で書いても良いんだけど」
それはそれで面白そうだ。
「やっぱり、現物を見たほうがいいの?」
「そりゃね」
「じゃあ見に行く?」
「へ?」
視線がさっと下ろされて、俺の目線に正面からぶつかった。まっすぐ見つめられると、反射的にちょっと目をそらしてしまうのは、まだ気恥しさが若干残っているからだろうか。
「ほら、俺、バイク買ったじゃん。瑠璃さん後ろに乗っけて、三十分もあれば連れてけるよ」
特段誰かを乗せる当てがあるわけでは無かったが、ヘルメットを買っておいてよかった。
「え、でも、いいの」
「いいよ」
「本当に?」
「いいってば」
「でもなぁ……」
いったい、何を躊躇っているのだろうか。俺の運転に不安があるとか、あるいは単に俺の背中にくっつきたくないとかだろうか。……そうだったらちょっと死にたい。
たまに不安になるのだ。俺だけ「瑠璃さん」って名前で呼んでるし。そろそろ家族と呼んでいい距離感にはなってきただろうと、自分では思うのだが。
「ああ、いや、別に嫌じゃないんだけど、うーん……」
慌てた様子でパタパタと顔の前で手を振ってから、義姉がまた天井を見上げた。
「何か、欲しい物とか、ある?」
「え、なんで?」
「お礼はしなきゃじゃない」
「お礼か……」
妙なところで律儀になる義姉だった。家族なのだから気にしなくていいと思うのだが。
……いや。
「じゃあ、お願いがあるんだけど」
「いいよいいよ! お義姉さんに何でも言ってみなさい」
200日しか変わらないのに、時々妙に年上ぶることのある義姉だった。ただ、こうして「姉ぶっている」ときは妙に楽しそうなのだ。
今ならいけるだろうか。せっかくなので、素直に要望をぶつけてみる。ちょっとだけ深呼吸をして、唾を飲んでから口を開いた。
「名前で呼んでほしいんだ、けど」
「……名前で?」
「うん」
「達也くん」
「……」
あれ。
なんかおかしい。
「どうしたの?」
「いや、なんというか、その……」
義姉が、親の再婚で新しくできた家族が、六か月目にしてやっと名前を呼んでくれたという感動のイベントのはずなのだが。
なんだこれ、感動どころか情緒もへったくれもねえぞ。
普通、こう、もっと、なんだ、何かあるもんじゃないのか、こういうのは。
「……あれぇ?」
「変な弟くんだなぁ」
「ええと、できれば、今後は弟くんじゃなくて、名前で呼んでほしいんだけど」
「えー」
義姉は、露骨に嫌そうな顔をした。
あっ、ヤバい、マズい。ちょっと死にたいぞ。名前で呼んでほしいって言って嫌な顔されるってこれかなりダメージでかい。
うわあああヤバいヤバい死んだこれまってちょっと時間巻き戻して――。
「弟くんって呼び方好きなんだけどな」
「――はい?」
「だって、世界でたった一人だけの弟なんだよ?」
名前で呼ぶよりも、ずっと素敵じゃない?
義姉はそう言って、にっこりと笑った。
(了)
これが本当のやおい(ヤマなしオチなしイミなし)じゃ!!
おわりです。ここまで読んでいただきありがとうございました。