彼女に初めて出会ったのは、三年間の中学校生活、その初日だった。配布された座席表の上を走った視線が、僕の名前の右隣にある文字を捉えて、止まった。
ひらがな三文字。可愛らしい名前だと思った。たぶん、きっと、可愛い女の子なのだろうな、なんて身勝手な想像を抱きながら、その日の僕は見慣れない教室に足を踏み入れた。
慣れない部屋、新しい環境。僕だけではなく、周りのみんなもどこか落ち着かない様子で周囲の様子をうかがっている。いつもより少しばかり大きな己の心音を聞きながら、僕は隣席に誰かが座るのをじっと待っていた。
程なくして現れた彼女は――仲の良かった相手だからあまり悪いことは言いたくないのだけれど――あえて言うなら、父親似だったのだろう。キレイとかカワイイとか、異性にチヤホヤされるような美少女ではなかった。
そんな彼女に、最初になんて声をかけたのかは、今ではもう覚えていない。僕から話しかけたのか、それとも彼女の方から声をかけてきてくれたのか、会話のはじまりはさっぱり覚えていないけれど、それでも僕たちは出会った初日に、学校の教室のあの安っぽい椅子に座りながら言葉を交わしていた。
覚えているのは、その中の一言。
「似合ってないでしょ? この名前」
彼女は美少女ではなかったけれど、さりとてブスというわけでもなかった。むしろ顔の作りは整っていた方だと思う。男だったら、きっと僕よりもずっとモテていたに違いない。
ただ当人としては不満が残るようで、彼女は曖昧な笑みを浮かべながら、僕に向かってそんなふうに言ってきた。
ひらがな三文字の、可愛らしい名前。なるほど、彼女のような父親似の醤油顔には、たしかに似合わないかもしれない。
とはいえ、はっきりとそんなことを言うものではないと思う。僕は「そんなことはないと思うよ」と、少しはぐらかすような言い方を――。
「そうだね」
――一切せずに、あっさりと同意した。当時の僕は、オブラートというものを知らなかった。大人になった今なら絶対言わないようなことを、ほぼ初対面の相手に何のためらいもなくぶつけていた。
ところが、これが僕と彼女の場合にはかえって良い方向に作用した。彼女は一瞬呆気にとられたような顔をした後、ぺしりと僕の頭にチョップを落としてきた。
「失礼なやつだな、君は」
そう言った彼女がくっと口角を上げたときに、きっと僕達の関係性が決まったのだと思う。この後の三年間、彼女は僕にとって最も親しい友人となった。
彼女と過ごした日々は、僕にとって大切な思い出だ。きっと、彼女にとってもそうなのだと思う。彼女の方はどうなのかわからないけれど、僕は毎年春になる度に、彼女のことを思い出すのだ。
せっかくだから、今日は彼女の思い出を記していきたい。
ひらがな三文字で、さくら。顔に似合わず可愛らしい名前の、僕のかつての親友。
*
クラスの中で、一番早く誕生日を迎えたのが彼女だった。おめでとうと口にした僕に対して、彼女はふんと胸を張り、しばらくは私が年上なのだから敬意を払うように、なんて、らしくもない口調で言ってみせた。
「庭にね、大きな桜の木があって」
「そんなのあったっけ?」
「ウチじゃないよ。おばあちゃんち」
帰り道の途中。風に乗って舞い落ちた花びらを目で追いながら、彼女が話しはじめた。
「あたし、おばあちゃんちで産まれたらしいんだけど、その時その桜がね、すっごくたくさん、奇麗な花をつけてたんだって」
「それでさくらか」
「安直でしょ?」
「でも、いい名前だよ。似合ってないけど。……いてっ」
入学から数日しか経っていなかったけど、僕と彼女の中は、互いに気軽にチョップの応酬を行う程度のものになっていた。
どうにも出会ったばかりという感じがしなかった。小学校からの付き合いがある男友達と同じような感覚で、僕は彼女と肩を並べて通学路を歩いていた。
「余計なこと言うなぁ」
「じゃあ変えてみようか」
「変えるって?」
「とてもお似合いの名前ですね、お嬢様。……ぴぎゃっ!?」
脛を蹴られたのは、このときがはじめてだったっけ。
「キモい」
「ちょっとそれは酷いんじゃないかな!?」
「でも今のはシュウが悪いと思う」
「……正論言うのやめてくれる?」
気の置けない仲、というやつだろうか。彼女の隣は、僕にとって実に居心地が良かった。彼女にとっても、きっとそうだったと思う。気付けば僕たちは毎日ほとんど一緒に過ごすようになっていた。
となれば、二次性徴やら思春期やらでマセてきた中学一年生としては、もう嫌になるくらい周りから冷やかされたりからかわれたりするようになるのがまあ妥当なところだと思うのだけど、僕と彼女に対しては、まったく、これっぽっちもそんなことはなかった。
僕も彼女も、平凡というか、ひたすらに地味だったのだ。クラス内カーストの上位でも下位でもなく、いじめることもいじめられることもなく、ごくごく平凡な賑やかし要員のクラスメイトA&B。
もしも仮に彼女がひらがな三文字ネームの似合う美少女だったりしたら僕は嫉妬の嵐に晒されまくったのかもしれないけれど、一切そんなことはなく。言うまでもなく、僕も「カッコイイ男子」というイメージにはまったくもって縁のない平々凡々のモブキャラだったから、僕たちは実に平和な学校生活を送ることができた。
シュウとさくらは仲いいよね。クラスメイトの誰からも、そんな認識をされる程度の仲。絡みやすい異性の友人。それが僕と彼女の関係で、だから、ちょっとドキドキするようなさわやかな青春の一ページとか、ドラマチックななにがしかのイベントであるとか、そういった出来事には縁が無かった。
学校生活と言えば文化祭やら体育祭やら修学旅行やら何かとイベントが目白押しであるように思えるけど、たとえばそこで異性の友人との仲が恋仲に発展したりするようなことは、全く、これっぽっちも、本当に欠片でさえも……。
いや、まあ、あえて言うなれば、あれが一つのイベントだったんだろうか。
*
彼女とは三年間、ずっと同じクラスだった。けれどその中で、日直の当番が重なったのは、たった一度きりだった。
夕日がきれいだったのを覚えている。放課後の教室。掃除も終わって僕たちの他には誰もいなくなり、普段よりもなんとなく広く感じる教室の真ん中で、僕は学級日誌を書いていた。
その時の彼女は、たしか僕に背中を向けていた。机の上に座った彼女の、細い足がぷらぷらと揺れていた。
夕日のオレンジと、ソックスの白。紙の上をシャーペンの芯が走る音。
あの日、あの時、世界を構成する要素はその三つがすべてだった。その日の僕は、期末テストでもこんなに頑張ったことはないんじゃないか、というくらいに、懸命に手を動かしていた。
学級日誌を書き終えたら、この心地よい時間が終わってしまう。それが怖くて、必死に今日あったことを思い出して、片っ端から紙面に叩きつけるように文字を刻んでいた。
見慣れたはずの制服の後ろ姿が、どこか遠い世界のもののように思えた。あいまいで、今にも消えてしまいそうな、儚げな姿に見えた。
……たしか、僕の身長が彼女を越したのも、この頃だったと思う。
「卒業したらさ」
ぽつりと彼女が言って、僕の手が止まった。ペンは、今日分のページの最後の行までたどり着いていた。他のページは、四分の一も埋まっていない学級日誌だ。
「高校生になるんだよね、私たち」
「まだ半年も先だよ」
「もう半年しかないんだよ。……短かったなぁ、中学校生活」
「まだ終わっちゃいないよ」
「そうだね」
彼女の上履きが、教室の床を叩いた。くるりと回って僕の方を向いた彼女は、夕陽の効果を加えてみても、やっぱり美少女じゃなかったけれど、ちょっとだけいつもよりもきれいだった。
だけど、彼女と一緒にいる時はくるくると軽く回っていたはずの僕の口は、なぜだかその言葉を出せなかった。
「……ねえ、シュウ」
「うん」
「……あと半年、さ」
「うん」
彼女の方も、なんだか歯切れの悪い様子で。
「……私と」
随分と、言いにくそうにしていた。
言いにくそうにしていて……結局、僕は何も聞けなかった。
青春の一ページ。異性と過ごす甘酸っぱい学校生活。僕と彼女には、それらは縁のない話だった。ただ、それだけのことだ。
なんとなくそれっぽいイベントも、結局お互い何も言い出せず、何の進展もないままで終わった。
それが悪いことだとは思わない。全てが恋愛に発展する必要は無いはずだし、僕も彼女も、きっとそれでよかったのだと思う。
だって、かけがえのない親友と共に過ごした日々は、あんなにも楽しかったのだから。
……ただ、それでも、毎年春になると思い出してしまうのだ。ふと、考えてしまうのだ。
彼女は……僕にとって、さくらは、初恋の相手だったのだろうか、なんて。
(了)
あとがきを!
書く!
時間が!
ない!!!!!!!!!