ふと空を見上げてしまったのは、どうしてなのだろう。
ある種の現実逃避だったのだろうか。見つめなければいけないのは、足元だったというのに。
冷たい雨が頬を叩いている。髪を濡らしてから流れ垂れ下がってきた雫が、頬から顎を伝って落ちていく。瞼に当たった雫が煩わしくて、反射的にぴくりと動いたのも気に食わない。
冷たい。寒い。このまま体が凍ってしまうのではないだろうか。いっそ、その方が楽なのでは。このまま氷の柱と化してしまえば、私の足元を見ることも、もう無くなるのだから。
だけど、それは、たぶん……許されることではない、のだと、思う。
覚悟を決めなければならない。
冷たい雨が頬を叩いている。流れ落ちる雫を追いかけるようにして、私は固まりかけていた首をゆっくりと曲げていった。ぎりぎりときしむ音を立てながら、視界が少しずつ下がっていく。暗い雨雲で満たされていた視界に無骨なコンクリートが映り、壁面を伝う雨水の跡を追いかけていけば、やがて日に焼けて色褪せたアスファルトと、そこに広がる水たまりが見えた。
赤い、水たまりだ。灰色のアスファルトの上に、それはどす黒い色彩をぶちまけていた。
黒と、赤。吐き気を催す色合いのどろりとした液体が、べったりと円形に広がっている。表面に落ちた雨粒がときたま飛沫をあげて、水たまりの上を滑っていった。
見たくない。こんなものは。血だまりを見たがる人間なんているはずが無いのだ。ましてや、自らの手によって作り出したものなど。
足元を見た。さして高くもないありふれた靴の爪先が、血だまりの縁を踏んでいる。そのすぐそばに、黒い物体が落ちている。
艶のない黒く細い線を、無数にたずさえた歪な球形の何か。いくつかの穴の開いたそれは、人の頭。しかし……穴の数が、ひとつ多くなっている。
アイスピック。その貫通力。こんなところで、こんな機会に実感してしまうとは思わなかった。あまりにも情けない現実に、ふと目頭が熱くなる。
「なんだって……こんなことに……」
思わず目の周りを拭った私の右手には、先端を赤黒く染めたアイスピックが握られていた。これで、こめかみを一撃。たったそれだけだったのだ。
「はぁ……」
ため息をひとつついて、気付けば私は再び空を見上げていた。現実逃避。足元に広がる惨状を、目にしたくなかったのだ。
認めたくない。認められるはずがない。なにしろ取り返しのつかないことをしてしまったのだ。私の人生、これで終わりだ。
普段ならがっくりと肩を落として項垂れていたところだろうか。だが今は足元を見たくない。私は、ただただじっと雨粒の落ちる様子を、雨粒を落とす暗い雲の様子を睨んでいた。
すると、だんだんと雨足が弱まってきた。頬を叩いていた雨粒の勢いは、いつしか頬を撫でる程度の弱さへと変わり、やがてしんと雨音も聞こえなくなってくる。
唐突に、静寂が訪れた。先程まで耳を包んでいた音が消え去り、冷たい空気だけが漂っている。まるで時間が止まっているかのような、音のない世界。
しかし頭上の雲の動きが、私に時の流れを教えてくれていた。暗くどんよりとした雲の間から、白い色の雲が顔を出す。暗雲が次第に薄れていき、黒が白へと移り変わっていく。
やがてその合間から幾筋もの光が差し――そして私は、その中にあるものの姿を見た。
じっと上空を見つめ続けたまま、ぽかんと私の顎が落ちる。まったくもって予想外のものが――いや、予想はしていなかったが、なるほど、考えてみればこの展開もおかしくはないのかもしれない。
しかし、本当にこんなことが起こるとは。信じられないような事態だが……そもそもこうして足元の惨状を見下ろしている時点で、ありえないことが起こっているのだ。眼前にある事実は事実として、受け入れなければならないだろう。
私がそうしてある種の覚悟を固め、馬鹿みたいにぽかんと開けていた口をなんとか閉じたとき、雲間から降りてきたものが、私の眼前に静止した。
それはどこか幼さを残した容貌の、背中に翼を生やし、頭上に光輪を浮かべている、中性的な美少年だった。
彼は、小さな唇を動かした。
「あなたを、天国に連れて行きます」
「天国だって!? そんな馬鹿な!! 私が本当に天国に行けるのですか!?」
仰天して叫んだ私に向けて、ゆっくりと彼は頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。これは自殺扱いにはなりませんから」
私の足元に横たわる、かつて私だったもの。むき出しのアイスピックを握ったまま雨の中を歩き、滑って転んだ拍子に自らの脳を貫いて即死した馬鹿がそこにいた。
あんまりにも情けない死にざまではあるが……天国に行けるというのであれば、それがせめてもの慰めになるだろうか。
おわれ。