アメリカの大学生活ももうそろそろ終わりに近づいている。慣れない異国の地での生活も、数年と続けば愛着も湧く。必要な単位は取ったし、論文も提出した。残る課題は就職活動だ。
とはいえ、私には亡き祖父の遺産が残っているため、日本に戻ってしばらくのんびり過ごすつもりだった。それまでボランティアのプリスクールに精を出そう。
子供は好きだ。可愛いし才能や可能性の塊。特に小学校に入学する前の子は成長速度が目まぐるしい。子供達との出会いは私の宝物だ。彼らにとっても、誰かとの出会いを大切にしてほしい。
ひとが変わる時、それは全て人との出会いから始まるから。
そう、私にとってのあの人のように。
「やぁ、こんにちは」
彼は長年の友人のような顔をして挨拶をしてきた。私は数ヶ月の付き合いの顔で返す。
浅野學峯くん。この大学において主席で入学し、在学中もトップを維持し続けている超人。
そんな超人に、私は最近絡まれている。
友人のエマとランチをしようとしたら「課題について話があるんだ」と割って入ってきた。 エマはエマで顔を赤くして浅野くんに私を差し出した。 別の日には、ジェームズと話していると後ろに気配を感じた。するとジェームズは青い顔をしてすぐにその場を立ち去ってしまう。 振り向くと笑顔の浅野くんが立っていた。そしてしれっと「何を話していたんだい?」と聞いてくる。聞いていただろうに。
そんなこんなで私の周りに浅野くんがうろうくようになった。 何がしたいのかしら?
今日も今日とてカフェテラスにて浅野くんと2人。 話題は取るに足らないことばかり。 マシューが単位を落としたとか、マリーとジョンが恋人になったとか。 そんな話が続いた時、ふと浅野くんが尋ねた。
「ところで、君は卒業したらどうするんだい?」
卒業後について、私は特に考えてなかった。大学に入ったのも祖父が「国家資格を取れ」と言う遺言に基づいたからに過ぎない。アメリカの大学に来たのは、留学中にアメリカの文化に興味が出たから。 とても充実した大学生活だった。 しかしそれも永遠ではない。 必ず卒業の日は来る。 その日私は何をしてるだろう。
『……特に、考えてないの。 日本に帰ってゆっくり決めようかなって。 ……浅野くんは?』
甘くないカフェ・オ・レを啜り、目の前の浅野くんを覗き見る。 すると浅野くんは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出してこう言った。
「塾を開く」
と。
『塾……?』
とても意外な回答だった。 私はてっきり、大企業からのスカウトや内定が出ているものだと思っていたからだ。 なのに浅野くんは塾を開くと言う。 確かに浅野くんは教育についての資格もたくさん取得していたと記憶している。 だからか、と納得していると彼はとんでもない爆弾を落とした。
「君も一緒にやらないか?」
『え……?』
聞き間違いだろうか。 この超人は一緒に塾をやらないかと私を誘っている。 なぜ私なのかとか、他に優秀な人がいるとか色々思ったけれど、浅野くんは私に口を挟む時間を与えない。
「場所は日本の山奥の廃校を借りる予定で、資金も株式投資で元手はある」
テーブルに学校の写真と数字の書かれた書類が並べてられている。 これが塾に借りた廃校だろうか。 かなり山奥で古いけれど、静かにのびのびと勉強出来そうな場所だと思う。
「ここなら雑音も無く生徒の長所を存分に育てられる。 自分の長所も他人の長所もよく理解できるような、いい生徒を育てたいんだ」
そう浅野くんは語る。 いい生徒。 言葉にすると簡単だけれど、「いい」にも種類がある。 彼はその辺りをどう考えているのだろう。
『いい、と一言で言うけれど、人によって良さは違うわ。 その良さを浅野くんは伸ばしてあげられるの?』
少し、厳しいことを言ったかもしれない。 けれど子供を成長させるには、こちらも同じく成長していなければならない。 その力と覚悟を、浅野くんは持っているのだろうか。 私の考えをよそに、浅野くんは断言した。
「できる」
『……随分な自信ね』
皮肉ってみせるも、浅野くんは変わらない顔で言う。
「自信ならある。 全ての生徒の良さを熟知するために、私は此処で学んできたんだ。 もちろん今後の勉強も欠かさないけれどね」
わかっていた。 彼が誰よりも才能があり、誰よりも努力していたことを。 彼が私のそばにいるとき、私も彼のそばにいるのだから。
浅野くんの覚悟は伝わった。 けれど、疑問はまだ残っている。
『どうして、私なの? 他にも優秀な人はいるわ。 その中で私を選んだ理由はなに?』
私としては至極当然のことを聞いたつもりだった。 けれど浅野くんは意外だったようで、少しだけきょとんとすると、直ぐにこう言った。
「私の持つ志が、君の言葉と重なったからだよ」
『?』
「大学に入ったばかりの教育論の授業で、君はこう言ったんだ」
『出来ないところを指摘しても人は伸びません。 なら、いいところを思い切り伸ばしてあげたいんです』
そういえば、そんなことを言った覚えがある。 誰しもが持つ欠点を教育者こそがケアし、自分の良さを大いに発揮して社会に出て欲しい。 そう思っての発言だった。 それを、浅野くんは覚えていてくれたのだ。 そして今、志が同じと判断して私を塾開設のメンバーに誘ってくれている。
『あの言葉、覚えててくれたのね……』
「あの言葉を聞いて、君と教育に携わっていきたいと思ったんだ」
そう語る浅野くんの瞳は輝いていた。 私には眩しすぎる程に。
「どうかな? 君も同じ思いだと嬉しいのだけれど……」
『なんか、口説かれてるみたい』
再びきょとんとした顔になる浅野くん。 少しして、イタズラ好きの子供みたいに笑うと
「そのつもりだよ」
と答えた。
あぁ、私は捕えられたのだと悟る。 あの教育論の授業から今に至るまで、彼に狙われて続けていたのだ。 捕えられてしまったなら仕方がない。 私自身、逃げようなどとは思わない。 でもここで可愛らしく『はい』などと言うのは癪だ。 だから私はこう返事をした。
『お給料の話を忘れないでね』
足の悪い道を進み、その先にそれはあった。
【椚ヶ丘学習塾】
全ては此処から始まった。
池田くん、森さん、永井くん。
第1期生のみんなが卒塾して、多くの保護者からの信頼を得て、塾は大きくなっていった。
此処を巣立つ彼らの姿を見る度に思う。
願わくば、此処が彼らの始まりの場所になります