佐々木は教会に歴史と文化を感じていた。それはきっと、信仰の布教と継承を主な目的として設立されたもの。民家や病院、建築にあたってはその風土に合わせて材料となる。同じ宗教宗教的施設としてをそこに差異が出る。
石造りの壁と、等間隔に配置されている長椅子と、十字架。清らかさのために全ての無駄を省いたこの場所では、外で感じる日差しもやはり清廉さと神聖さを思わせるものに変わる。
この時代ではありえない楽器と、それを構えている自分。その異質さがより際立つ気がする。妙な緊張で凝り固まっている自分に気づいて、佐々木は無意味に肩を回した。腕と肩と連係している関節部分のあえてずらして、戻して、柔らかくする。そうしてから、ふだん村人たちの座る
「ええと…じゃあ、いきますね」
とりあえず、一曲。神父と副助祭という立場であるらしい2人の人間の前で、佐々木は息を吸った。
佐々木が教会に「落ちてきた」のは半年ほど前のことだ。青い空と白い雲というおとぎ話の冒頭がそのまま用意されたかのようなこの上なく良い天気で、教会の屋根上に誂えられた十字架がさわやかだった。まさに神より与えられたもう祝福の一日、そう思うにふさわしい健やかな日に、物置部屋より発生したどんがらがっしゃーんとけたたましい騒音が、朝の祈りを終えたバデーニとクラボフスキの鼓膜を劈いた。
「賊でしょうか」
「その可能性は高いでしょうね」
あらかじめ支給されているボウガンと剣を手に、二人は警戒しながらその場所へ赴いた。驚くことに、部屋からは人間の声がしていた。盗みが僕的であれば、当然自らに気づかれないように気を配るものであるはずだが、その人物は「え?」「は?」「なにこれ?」とその扉の外にまで響く大声で一人で喚いていた。女の声のようだった。盗人や山賊の言動に対する共通認識とずれている事態に二人は顔を見合わせた。しかし確認しないわけにもいくまいと、副助祭であるバデーニがそっとドアを開ける。
「何者だ」
やはりというか、そこにいたのは女だった。いや、女なのだろうとバデーニは思い直した。その人間の黒髪が、一般的な女性のそれよりも短かっため、一瞬だけ確信を持てなかった。しかし体の小ささと、何より先ほど聞こえた声によってやはり女であるだろうと、バデーニは思い直した。彼女は、元は棚だったのだろう折り重なった木材の上に尻をつく姿勢で固まっていた。
「は!? 人っ…!?」
女は身を縮こませ、驚きと恐怖に見開いた目でこちらを凝視した。そして手に持っている武器を確認するや否やわあ!とまた声を上げてええ、ごめんなさい、なんで、私なにも分かんなくて、えっ、ここどこですか?と頭ごと視線を周囲に巡らせて、それを何度も繰り返す。
クラボフスキもバデーニも、明らかにおかしい女の存在になんと声をかけるべきか分からず、ただ立ち尽くしていた。村人であれば落ち着くようになだめるだろう。賊であれば、言わずもがな。その判断は主に視覚的な情報よりなされるものであるが、女がそのどちらでもないことは見ただけで分かった。身に着けている衣服の様式が、おかしいものであったためである。ぱっと見、女は黒い布を身に着けていた。よく見ると中に白いチュニックを着用しており、その上から黒い上着を羽織っている。下は、上着と同様に黒いスカートを身に着けていた。しかし、この国の大多数が当たり前に身に着けているそれと違って、あまりにも短い。本来は足首までを覆うように設計されているはずのそれは、女の膝下までのみを隠している。
黒と白を基調とした衣装が、バデーニに祭事ごとを思わせた。近頃は葬列に参加する者は黒を多く使うと聞いたことがある。頭の片隅で思いながらしかし、女は他人の死というよりは己の命の危機にうろたえていた。
「あっあっあっあっあのっ、おろ、降ろし、それっ」
「え…? あ、ああ…」
)
クラボフスキのボウガンがその
「てかアコギ…」
「ぎゃー! アコギがー!」
バデーニは
女は自らを「ササキ」と名乗った。落ちてきた経緯について聞き取りをしても要領を得ない話ばかりで、異端とか その割にコミュニケーションには過不足なく常識人としての一面も持ち合わせていたため、そのちぐはぐさに二人は何度も首を傾げた。彼女は「ニホン」という国から来た大学生で、「就職活動」の真っ只中だったらしい。
「お祈りメールばっか届くのって、なんか、自分は必要ないって言われてるみたいで結構気が滅入るんだよねー」
「お祈りメールとは?」
「えっとー…試験に合格したら『採用します』のメールが届くんだけど、そうじゃないときは断るメール…手紙が届くの。その中に、『うちのとこは駄目だったけど、別のところであなたが採用されるのをお祈りしていますね』って文章がお決まりで書かれるんだよね。それをお祈りメールって呼んでるんです」
「もー、届きすぎてていっそ悲しくなっちゃってた。でも今はスマホがないから、それを見なくても済むのは良いことかも」
「…これからどうなさるんです?」
「…どうなさればいいと思います?」
女は、顔の片方だけで笑うという器用な表情をしてみせた。痛みと不安、恐れと懇願の入り交じった笑みを、小さなろうそくの炎がちらちらと照らす。シミのひとつ、皺の一本も入っていない、よく手入れされている健康的な肌だった。身寄りもなく、職もなく、資金もなく、そして、社会についての知識もない。文字通り迷い子となって教会に迷い込んできた女に、クラボフスキは司祭としてこの教会での生活を赦したのだった。
「君のような素性の知れない人間をここに住まわせるなど、クラボフスキさんはどうかしている。しかも、女を」
「そうですよねえ…」
そうなのですよねえ、本当にそうなんですよ…どうなっているのでしょうね…。
彼女は、少しずつ馴染んできた。
家事はできるがやり方が分からないと宣った。彼女いわく「装置に命令したらあとは勝手にやってくれるから、手を使ってやることは滅多になかった」らしい。「」
彼女は簡単な計算や文章、自然的科学などについても最低限の知識を備えていた。
「え」
「い、いいんですか…」
「どこか引き取り先が見つかるまで、ここで過ごすと良いでしょう」
「女性を教会に置くというのは本来であればあまり例のない」
「? 何故です?」
「男性であれば問題ないけど、女性だと問題があるのは、何故ですか?」
「それは…」
「聖書で女性は悪魔だとされているからだ」
「あー」
「なるほどね、そういうことか…」
答えにくいことを聞いてすみませんでした。宗教というものにあまり馴染みが無いもので。
クラボフスキより「身寄りを無くした流浪の民」「一時的に身柄を保護している」と。として紹介された。彼女は、村人とよく交流した。そのため、村人が古い衣服を提供してくれた。馴れ馴れしくはあるが最低限の礼儀は欠かさず、何より他人の話をよく傾聴する人間だった。親しくなった頭巾はあまり被らなかった。
慣れてくると料理も洗濯も、全てをこなした。そうしないとここにいる意味がないと、時間が空くとクラボフスキやバデーニに何かできることはないか、してほしいことはないか尋ね、それもないと文字の読み書きに励んだ。そして、青空教室を開いた。
「1+1は、2だよ」
「2?」
「そう」
「私、結婚するの」
「結婚? だって、あなた、今、何歳なの?」
「15だよ」
喜怒哀楽と日夜やかましい女の表情が消えた。なんとか穏やかに丸くさせていた目尻や唇が全て元の位置に戻り、ほんの少しだけ唇を噛み締めていた。少女は不安気にササキさん?と首を傾げる。ササキはすぐに笑顔を取り繕って、小さな身体を引き寄せて少女の背中と肩に腕を回した。少女は瑞々しくけたたましい歓声でそれを受け入れる。どうしたんですか? びっくりした! ササキは答えずにただ抱きしめ続けていたが、やがて少女の薄く骨ばった肩へ押し付けていた唇より、くぐもったおめでとうを絞り出した。まるで苦痛を耐えるかのように祝福の言葉を口にするその。
じゃあ最後も、みんなで幸せを祈りましょうね。子どもたちは女が泣いているのは喜んでいるからだと思った。様子を見ていたバデーニだけが、糊で固めたかのように上がった口角の歪さを見ていた。
「珍しくはない。ままあるケースだ。まあ、早いと言えば早いがな」
「もう教師の真似事をするのはやめろ。無駄だ」
「…い、いきなり何…?」
「でも、勉強を続けるかどうかを選ぶ権利はまだ残ってるから」
「もしもあの子が勉強したいって思ったとき、少しでもその助けになる何かを残したいと思うから」
「だから、止めない!」
「特に女子にとってはより不要だ。よっぽどの人間でなければ権力の象徴として嫁ぎ、子を産み家のことをするためだけの人生を送るんだ。教育など必要ない。君も分かっただろう」
「15で結婚かー」
「15なんか子どもじゃんね」
「気持ち悪い」
「まだ自由に勉強したり家のお手伝いしたり友だちと遊んでいい時期じゃん…」
「ひどいなぁ」
「君の価値観での話だろう」
「うん…」
「そうだね」
「やっぱ人権なんだなあ…」
「カルチャーショックだなーって」
「神が定めだ宿命なのだろう」
「神かぁー…」
「私、無宗教だからなあ」
「…そうなのか」
「私のいたところでは、神より人権のが重視されてたなあ」
「人権だと?」
「うん。私たちは生まれたときからあらゆる権利を持ってるんだよ。勉強する権利、」
「だから私は高校に入学したし、大学も自分で行くって決めたし、入る大学も、自分の学力に無理のないところを選んで入ったし、大学で勉強する科目も自分で選んだし、就職先もこれから自分で決めるところだったんだよ」
「結婚するかしないかもこれから自分で決めるよ」
「バデーニって、なんで眼帯してるの?」
「中央修道院の規則を破ったからだ」
「うーん、どうにも人権意識が低いんだなあ」
「痛かったでしょ」
痛いなんてものではない。置き換えられたようで不快だった
「そんな非人道的な行為が許されてたの?」
「信仰は権力だからな」
「ふーん。絶対許されないと思うけどね、普通に」
「私の価値観ではね」
「そもそもちょっと資料を見ようとしただけでしょ? そこまでされるほどのことかな」
「学問の自由って概念もないんだね」
「ホントに人権があってないような時代だなあ…」
「あの子がこの先、何かを学ぼうと思ったとき」
「私のところはね、最低限の教育って国民全体に課された義務だった」
「ほう」
「15歳までは、国が運営する教育機関に通って、そこで最低限の字や計算、地学とか生物の体の仕組み、文章を理解する力、他言語についてを勉強しなくちゃならないの。その間に結婚なんてしない。そもそも女子の結婚は16歳からじゃないとできないから」
「勉強はできたほうがいい。そこで得た知識を通して見る世界は、知らないままの世界よりずっといい。
知識って、服やお金と違って、自分が覚えている限りは絶対になくならないでしょ。そして、一度根付いてしまえば、教室も教師もいなくなったって、この世界で生きている限りその知識に触れる機会は何度だって訪れる。だから鈍らない。結婚して、他所に行くことになったってそれは変わらない」
「だからやめないよ」
「君は…」
「何故他人の人生に干渉しようとする」
「干渉なんてしてないよ!ただ、その可能性を信じたいだけなの」
「これから生きていく先に自由があるかもしrwないから」
「自由だと?」
「私、ずっと思ってたんだけど、ここにいる人はみんな、あんまり自由じゃないよね。特に女の子は」
「私は…私はね」
女は教師の真似事をした。1+1を教えていたのだ。
「例えば2になったのは、りんご1つとりんご1つがここにあったからだよね」
事実の裏にある事実。それを考える
「彼らが神が与えた使命だ。それをねじ曲げるようなことをして何になる」
「…なるほど。そういう考え方なんだね」
「私は、人権っていうものがある程度よく重視されている世界で育ってきたから、あなたのその考え方を受け入れるのはちょっと難しい」
「人権だと?」
「私たちは、生まれたときからあらゆる権利を持っているってことね」
「何の権利だ」
「え! 全部だよ! 他人の権利を侵害するっていうもの以外の権利、全て」
「君は権利ばかりを主張しているが、義務を果たすこと必要もあるだろう」
「それは誰によって定められた義務なの?」
「また神か…」
「」
「そのために法律があるんでしょ」
神が与え給うた使命だと解釈しているバデーニにとっては鼻につく言葉だった。
「私は自由だったよ。勉強をすることも、何を話すことも、どんな時間を過ごすかも、どこを信仰するかも、結婚するかしないかも、自由に選べた。
それを辛いとか悲しいとか思ったことはないよ。こんな自分にそれが許されてていいのかなっていう面倒くさい拗らせ方をして落ち込んだりすることはあったけどね」
人は生まれながらに自由に生きる権利を持っているよ。それを行使できるだけの十分な環境が与えられていないと感じたときは、その不足分を社会や国に対して要求していいの。
…これじゃ私の価値観の押し付けているだけになっちゃうけど
まあ、いいじゃない。
「自由って、いいよ。いつか、この国の人やあなたが自分で生きることを誰にも咎められない世の中になってほしいと思うよ」
あなたにだって生まれたときに備わっているものなんだよ。
「…くだらん」
もし、生きている間にそういう時代がやってきたときのため、私はこの子たちに字の読み書きを教えるんだよ。
余りにも過酷であった。
いいえ、
「慈善事業というだけではいろいろと難しいこともあるでしょう。とはいえ、私がこの施設のためにできることは限られています。」
変わった楽器だね、と「はい、教会より与えられた最新の器楽なのですよ」と答えた。大嘘である。
「えと…学生をやっていてぇ…」
「えと…とりあえず教員になる勉強を…」
「いや、もうね、歌とか楽器とか上手い人は山ほどいますから。私なんかはね」
「わ、わあ… そうなのですね」
また、女は楽器を持っていた。
「」
「もし良ければ聞かせてもらえないでしょうか」
「えっ」
「ああいえ、」
「ありえない大声で歌いますが、よろしいですか」
「ありえない大声で」
「恐らく、貴方がたの人生で今までこんなに大声を出す女性を見たことがないだろうと思わせるほどの大声で歌いますが、よろしいですか」
「そ、そんなに」
「何がいいかな」
「君、はしたないぞ!」
「だって弾くならこうしないといけないんだもん」
「床に座ればいくらかいいけど」
「胡座をかくな!君は修道女なんだぞ!」
「床で弾かせるなら胡座くらいかかせろや!じゃあどう含んだよ!!」
「す、座ったらどうですか」
「足を閉じろ!」
「もうお前出てけよ!」
息を吸った。
「夢はもう見ないのかい」
芯の通った声だった。平時に聞く声と、雰囲気が違う。
「明日が怖いのかい」
頭の音は強く弾いて、けれどすぐに弱く刻んで。強弱のループが一定のテンポで繰り返されている。円が描かれるようなグルーヴ感を成し、
「諦めはついたかい」
「私も、ここに来る前は歌を歌ってました!」
「吟遊詩人ですか?」
「そ、それで生計を立てられるほどの技術はないですね…」
「」
「馬鹿みたいに…」
歌い始めより大きく息を吸った。
「…空が綺麗だぜー!!」
突然のどでかい声量に、バデーニとクラボフスキの鼓膜が悲鳴にも似た耳鳴りをキンと鳴らす。素早い震えが肩を僅かに揺らした。
しかし、決して不快では7ない。不快以上に、目が離せない。
聖歌のイメージが強い二人にとって、それは歌と呼ぶには荒く、しかし叫びとするにはどこか心地よい。ともすれば耳障りとも取れる声量は、透き通るような爽やかさと確かな質量があって、聞きやすい。そのためどれほど大きな声であっても。一人の人間から与えられる力強い清涼感を、二人の聖職者は音楽が止むまでそれこそ見入っていた。
女は肩を上下させながら余韻に浸っていた。歌にじんわりと暑い。でも、久々に歌った。四肢に行き渡る熱に目を閉じると、前の世界では、弾き語り
「…という…」
「…感じです…」
途切れ途切れな発言に目線を逸らしながら姿勢を正した彼女は、気まずそうに うるさい。やかましい。声が大きい。野蛮。全ての罵倒が、似合う。
「反感を買われるところまでが
ロックdsからね」
「………」
「…という感じです」
「では…部屋に戻ります…」
頬が紅潮して、
あまりにもやはり旋律なのだろう。
何にも囚われていない。彼女は教えを知らない。当然だ。別の世界とやらから来たのだから。
それが、これほど。
これほどまでに。
「いいでしょ!」
修道士の職務として数多の市井の人々と関わってきたして、様々な人間とこれまでそれは、胸の内、その裏側までを開けっぴろげにしているような笑顔だった。───ああ。バデーニは、己の1q0心臓が一度止まった強い痛みのような、何か苦しみにようなものを感じているのを
これは、なんだ。
「どう?」
「おお…なんというか…」
宗教曲とはまた全然違いますね、とあー、まあ、ポップスだからねー、そりゃ違うかな。
「バデーニはどうだった!?」
その
クラボフスキと
バデーニの視線に気づくと、恥も外聞もなく、歯を見せて笑った。
「バデーニはどうだったー!?」
社会的制裁や宗教的思想による言動の制限、その一切がかからない社会で育ったらしい、大した知性もないくせして身の程もわきまえず非現実的な綺麗事を並べるだけの、厚顔無恥で思い上がっている人間が。
それがまるで。
まるで、星そのもののようで。
確固たる根拠もなく自らの価値を信じ込む愚かさと傲慢さ。それらを余す所なく詰め込んだ人間の屈託ない笑顔に、その昔、とうに機能しなくなったはずの右目が痛んだ。
そうしてから、片方の瞼は眼帯の生地によって押さえられているためその部分の操作をであること、何よりそれは既に人体の一部としての機能を無くしているのだから、そうする必要も、そうできることもないことに思い至る。しかし、何故一瞬でも自分がそのことを忘れ、網膜への刺激や損傷を少しでも和らげようとしたのか。
今、自分が見ている景色のどこにもこの目の刺激になるような強い光を放つ物体はどこにもないのに、何故、急にそうしてしまったのだろう。
向けられた問いに回答するのも忘れ、バデーニはその場にただ立ち尽くす。そして、人、動植物、足元から広がる地面、天界へ繋ぐ空、この世の全てを等しく照らす陽光を思わせる彼女の笑顔をひたすらに見つめた。
祈りでも、叫びでも、願いでもない、ただ自由なだけの歌声が、まだ。