「どうだかな……」
背中に張り付いたルビに返事を放って、キツネは汚れた床を探し始めた。打ち捨てられてかなりの時間が経っているのだろう。調度品の多くは破損しており、そこら中に乱雑に積み上げられている。ライトを向けたときに壁に揺らめくガラクタの影が、一瞬積み上げられた死体の山に見えて、キツネはつばを飲み込んだ。
――いや、ここはやはり、なにかがおかしい。バロック屋としてのカンが、背中をぞわぞわと粟立たせているのがわかった。しかし、その違和感の正体は、わからない。
ふと照らすと、そこには赤茶けた染みが広がっていた。通路や扉にあった解けかけた落書きかと思ってライトを向けると……違う。泡の塊だった。ちょうど、カマキリの卵を思わせるくらいの大きさだ。壁の割れ目から汚水でも染み出しているのだろうか。泡の塊は今もぶくぶくと泡立っている。
その横の壁を照らすと、そこには傷が入っていた。細長い、鋭い鉄棒で引っ掻いたような傷だ。そんな傷が幾筋も、壁に刻まれている。傷を辿ってライトを天井に移動させていくと、天井にも同じように傷が入っている。
(いったい……なんの傷だ、これは……?)
床にある傷は、重いジュークボックスや什器を引きずったあとだろう。積み上げられた足の折れたテーブルや破れたスツールは、老朽化によるものだろう。まわりのものと比べて、この細い傷だけがなぜか周りから浮いている。
【茶色い泡】と【壁や天井の細い傷】。これがこの打ち捨てられた地下クラブにある違和感だ。
「なあルビ、この傷……」
そう言って振り返った先に、ルビの姿がない。いや、ルビはその場にうずくまっている。小刻みに震えている。バロックの前駆症状だ。
「おいルビ、どうし――」
声をかけようとしたキツネの声が中途半端に止まった。
うずくまった、ルビの背中。その丸めた背中に、じわりと赤い染みがふた筋、広がっていく。背中の傷が、開いているのだ。「聖痕(スティグマ)」という言葉がキツネの脳裏をよぎった。
まずい、とキツネは思った。肉体と精神は密接に結びついている。幻聴、幻覚などとは異なる身体症状はバロックの中でも特に重度であることの証明だ。精神の歪みが急激な白髪化、熱傷様の皮膚の異常といった肉体の歪みにまで発展する例は多くはない。
ルビの背中の傷は外傷ではない(・・・・・・・・・・・・・)。これが、【この背中の傷そのものがルビのバロックなのだ。】
ルビはかすかに震えながらうずくまったまま一言も発さない。染み出した背中の血はじわじわと広がっていき、まるでその形は――。
「キツネ伏せて!!」
うずくまったままで叫んだルビのその声は、明らかにバロックのものではない、正気の声だった。
それに驚く間もなく、キツネは反射的に伏せる。同時に、一秒前までキツネの首があった空間をなにかが高速で通り過ぎた。そのなにかは、キツネの横に積み上げられていた壊れた椅子やテーブルを粉砕……いや、切断した。断片となった天板やアルミの脚が床に散らばる。
頭を両手でかばったまま振り向くと、そこには――これは、なんだ?
そこにうっそりと佇んでいたのは……キツネがこれまでに見たどんな動物とも異なる生き物だった。いや、生き物なのか、これが?
暗闇にぼんやりと浮かび上がるほど不自然に白い肌の、人間の女の裸体を中途半端に模した出来損ないのトルソーのような上半身。その顔は海藻のように絡み合った長い髪に覆われて見えない。
汚れた床を這う下半身は、昆虫の腹部から無数の節足が生えているような、生理的嫌悪感をもたらす姿。
そしてその両腕は――。
キツネはとっさにルビを抱きかかえて横っ飛びに転がった。ほぼ同時に、コンクリートを削る耳障りな音とともに長大な鎌が天井を削りながら振り下ろされた。
鎌の正体は怪物の両腕だった。あれだ。この地下クラブに刻まれた【壁や天井の細い傷】の正体がこれだ。こんなものが直撃すれば、人間など簡単に真っ二つになって――もしかしたら、すでにここで、この怪物の手にかかって、多くの人間が――?
しかし今は考えている余裕などない。
ギルルル、と軋むような鳴き声を発する怪物に、キツネはライトと同時に懐から抜いた拳銃を向ける。
ライトの光に浮かび上がったその姿は、上半身、下半身、両腕の形状の脈絡がまったくない、まさに怪物、まさに――異形。
不鮮明な画像や目撃情報でしか知らなかった謎の怪物「異形」が、今、実際に自分の目の前にいる。キツネは自分が致命的な境界線を越えてしまったことを頭の隅で後悔しつつ、異形の胴体に向かって数発発砲した。
マズルフラッシュが地下クラブの暗闇を一瞬照らし出す。照らし出された天井や壁、床にこびりついているのは、すべて血痕……あるいは乾いた肉片だ。
怪物――異形は銃弾を避けようともしない。生白い胴体に穴が空き、赤茶けた体液が流れ出す。しかし、それだけだった。キツネはさらに銃撃を叩き込むが、異形はなんでもないかのようにズルズルと近づいてくる。
「コイツ、銃が効かないのか!?」
横殴りに薙ぎ払われた大鎌の一撃をとっさにそばにあったスツールでガードするも、一瞬で木片になってしまった。このまま追い詰められれば、ふたりとも木片のかわりに肉片にされてしまうだろう。
出血のせいで立ち上がれないのかぐったりしているルビを抱えて、キツネは地下クラブの入口へとダッシュした。銃も効かない怪物と真正面からやり合う道理などないし、残弾は今マガジンに入っている分だけだ。ルビを抱えて戦うことなどできない。
入ってきたときと同じように鉄扉に体当りしようとした寸前で、キツネの足が止まる。ライトで照らされた鉄扉の表面を、壁にこびりついていた茶色い泡の塊がびっしりと覆っている。その泡は自らの意思を持っているかのように凝集していき――
「これがヤツの正体か!」
ギルギルギル、と軋むような唸り声を上げて、固まった茶色い泡の中から黒い髪と白い顔が伸びてきた。見る間にその姿は、今もキツネたちの背中を狙っている異形と同じ姿を形作る。二体目だ。
新たに現れた異形がその大鎌を振り上げたときには、キツネはクラブの中に逆戻りしていた。しかし、唯一の出入り口である鉄扉のそばに二体目が立ちふさがっている状態では脱出はできない。かといって、ほかに武器もない状態で銃の効かない怪物を相手には戦いようがない。
「くそ……ッ!」
悪態をつく間もあらばこそ、キツネはルビを抱えて奥まった位置にあるカウンターに飛び込んだ。異形の大鎌は脅威だが、その動きが大ぶりで移動も遅い。しかし、この狭い地下クラブの中では逃げ場が限られているし、このまま手をこまねいていれば三体目、四体目も現れかねない。
カウンターから顔を出して苦し紛れに銃撃を加えるが、キツネは自衛隊でも軍人でもない。ろくに狙いを着けられない銃撃はことごとくはずれ、いたずらに天井のパイプを破裂させただけだ。
「キツネのへたくそ……銃の練習くらいしときなさいよ……」
脇に抱えたルビが苦しい息の下からついた悪態に、キツネは思わず安堵したことを胸中で悔しがる。
「それだけ軽口が叩ければ安心だな。動けるならそこの隅にでも隠れててくれ」
ルビが体を引きずるように力なくカウンター内の隅に隠れるのを確認して、キツネは手探りで後ろの棚を探り、並んでいた酒瓶を手当たり次第に投げつける。
しかし、異形は酒瓶をぶつけられても避けようともせず、平然と近づいてきた。恐怖心を煽る風切り音とともに大鎌が振り下ろされ、カウンターに深々と突き刺さる。異形がその大鎌を引き抜こうとしている間に、なんとかしなくてはならない。
と、異形が突然甲高い鳴き声を上げて後ずさった。二体の異形はなにかを警戒するかのようにカウンターから離れ、ギルギルと唸り声を上げている。
「な、なんだ……?」
カウンターからおそるおそる顔を出してみると、二体の異形はカウンターから距離をおいたところから近づいてくる様子がない。
「キツネ、あれ……」
カウンターの隅から、ルビが弱々しく指差す方を見てみると、その先には天井に張り巡らされたパイプがあった。そのパイプの一部は破断している。さっきのキツネの銃撃によるものだ。そのパイプからは水がこぼれて床に水たまりを作っている。
「コイツ、水に弱いのか……!?」
見てみれば、異形たちはたしかに床に広がった水たまりを避けるようにうろついている。それならば、とキツネは構えた銃口を天井に向ける。が、撃鉄がカチンと落ちる小さな音が響いただけだった。
「しまった、弾切れだ……!」
「キツネのバカ……!」
悪態をつくルビを睨みつける。はっと天井を見ると、パイプから流れ出ていた水は途切れかけている。さらに床の水たまりは、排水口に流れ込みつつあり、それに伴って異形たちは再びカウンターに近づいてき始めていた。このままではいずれ追い詰められてしまう。
キツネは必死に棚を探るが、酒瓶はもうあらかた投げてしまっていた。仮に残っていたとしても、酒瓶でパイプを破壊することはできないだろう。
それでもここで潔く怪物の餌食になってやるわけにはいかない。なにかないかと視線を巡らせているさなか、それまでうずくまっていたルビが突然立ち上がった。