「殿下、気分転換に下町のお祭りに行きませんか?」
ライアスからの唐突なお誘いに、フィリオーネは瞬きした。結婚してからここしばらく、外交関連やらなにやらで忙しく過ごしていたフィリオーネたちは、休みらしい休みを取っていなかった。
気分転換をしよう、という誘いは嬉しい。しかし、今は執務中である。目の前に広がっている書類に関する話題以外のものが彼の口から出てくること自体が珍しかった。
仕事中に私語を挟むことの少ないライアスだからこそ、その誘いがより一層突然なものに感じられる。
いったい、どういう風の吹き回しかしら。
フィリオーネは職務に関係のない話を急に持ち込んできた夫に訝しむも、下町のお祭りという単語に好奇心がくすぐられていた。
「それって、お忍びってことかしら?」
「もちろんです。下町にもうすぐ女王となる人物が突然現れたら大騒ぎになりますよ」
それはそうだ。フィリオーネは苦笑する。しかし、である。なぜ下町の祭りなのか。ライアスのことだから、きっと何か裏があるに違いない。仕事中に話題を出したというところからも、きっと仕事の延長線上にあることだからなのだろう。
もしかしたら、今話し合っている案件に関わっているのかもしれない。フィリオーネは少しだけ警戒した。
「行くのはかまわないわ。ところでそれはいつなのかしら?」
「突然ですみませんが、これからです」
「えっ!?」
驚き、目を見開くフィリオーネの姿に、ライアスがにっこりと笑む。確信犯である。既に計画的に事を進め、声をかけてきたに違いない。
この様子だとおそらくフィリオーネの為の着替えだって用意が済んでいるのだろう。
「……あなた」
「たまにはこういうのも良いだろう? フィリオーネ」
ライアスが何を考えているのか分からない。フィリオーネは急な展開にため息を吐いてから笑った。
案の定、というかやっぱりというか……着替えもちゃんと用意されていたわね。
侍女たちにも事前に話を通していたのだろう。満面の笑みを浮かべた彼女達はそれぞれ、これからフィリオーネが身に着けることになるであろう品々を手にしていた。
自室に戻るなり、コドリナが一礼したと思えば侍女たちがずらりと並んでいた。フィリオーネはわずかな時間を使ってお忍びデートを決行しようとしているライアスの用意周到さに感心しながら、慌ただしくも丁寧に仕事をこなす侍女の様子を見ていた。
「フィリオーネ殿下、ようございました」
「たまにはお出かけして、息抜きをしませんと」
「ええ、ええ。フィリオーネ様には休憩する時間が必要です」
外出を後押ししてくる侍女たちは、心の底からそう思っているらしい。入念に庶民らしい姿になるようにフィリオーネの髪をくすませようと苦心していた。
「せっかくの御髪が粉で……もったいないですけど、これも大切なことですから」
「ありがとう。助かるわ」
どうやら、本当に下町に向かうらしい。以前のお忍びの時にはここまで入念な変装を求められなかった。裕福な商家くらいの変装だったのだ。それが、今は『貧しくはないが生活はそこまで楽ではない』くらいの見た目になるような変装をさせようとしている。
フィリオーネはいつになくドキドキとしながら侍女たちによって変身させられてく自分の姿を見つめていた。
――そして。どこから見てもちょっと美人すぎる庶民となったフィリオーネは、無事にライアスと祭りへとやって来ていた。簡単な染色を施したワンピースを着ているフィリオーネに、シャツとパンツというシンプルな装い――生地はもちろん麻だ――のライアス。ライアスは髪色を隠す為に、今回もウィッグを被っている。だが、そのウィッグは長髪ではなく短髪だった。
なるほど、庶民の男性は髪の毛をあまり伸ばさないようだ。
しっかりと変装をしたライアスに連れられて訪れた場所は本当に下町だった。フィリオーネの視界には、見たことのない景色が広がっていた。噴水のない広場の中心に、大きな焚き火が用意されている。そして、それを囲むようにして人々が踊り、歌い、酒を飲み交わしている。
誰も彼も質素な服装で、少なくとも王都の中心街で頻繁に買い物ができるような生活を送っていないだろうと思われた。
「どうかな、フェリシア」
「すごいわ。みんな楽しそう」
お忍びの時に使うようにしていた偽名で話しかけられ、フィリオーネは素直な感想を口にする。そう、楽しそうだった。余裕のある生活はできていないだろうに、こうして祭りを楽しんでいる。娯楽というものが、どれほど人々の心に安らぎを与えるのかを教えてくれるかのようだ。
「お嬢ちゃんもほら、せっかくだからこっちで踊ろうや!」
「えっ、あっ」
「恋人と祭りに来て踊らないなんて、もったいないことをしちゃいけないよ」
「みんなの言う通りだな。ほら、参加しよう」
ライアスに手を引かれ、焚き火の方へと近付いた。祭用にと木を組んで作られた焚き火は、少し近付くだけで熱気が漂ってくる。漂ってくるという表現よりはむしろ、ぶつかってくると言いたくなるような熱さである。
その熱気に当てられながら、フィリオーネは周囲の見様見真似で体を動かした。ここの祭りは足裁きが特徴的のようだ。音楽に合わせて飛び跳ねるように足を動かしている。ライアスは事前に勉強してきていたのか、フィリオーネにステップをこっそりと教えてくれる。
「右、右、飛んで左、次は回転、右、左、左、右……」
ライアスと両手を繋ぎ、笑い合う。普段踊るダンスとは全く違うのに、踊りやすい。ライアスの指導が良いのか、周囲の雰囲気が良いのか。きっとその両方なのだろう。
「フェリシア」
ステップに慣れてきた頃、ライアスがフィリオーネに声をかけた。
「今回のお祭りの起源は収穫祭なんだ」
「そうなの?」
やっぱりお勉強だ。フィリオーネはそう思うも、この楽しいお勉強が嫌いではない。むしろ好きな方である。知らないことを知るのは楽しい。それが、民の生活であるならば、なおさらである。
フィリオーネは彼がどんな話をしてくれるのか胸を膨らませた。
賑やかな音楽は聴いているだけでも気分が上がる。原始的な打楽器に、弦楽器、そして管楽器。そのどれもが素朴で温かい。人々の歌はばらばらで、声楽隊のようなものとは全く違う。だが、それが良い。
「王都周辺でこういったお祭りは年々減っているんだ。だから、これはすごく貴重なんだってことをまずは話しておこう」
そう前置きして、ライアスが語り出す。祭りの空気に合わせているのか、普段よりも彼の語り方は軽い。踊りながら、というのもあって言葉も時々跳ねている。
このまま、ずっと楽しく過ごしていたいくらい。
フィリオーネは小さな汗を浮かばせながら、ライアスと踊り続けるのだった。